うなだれる向日葵③
福井県出身の後藤は、東京都以外の関東地方をよく知らない。
埼玉県と言われてもぴんとこなかった。深谷と言われれば、なおさらだ。
8月10日、8時頃。後藤は高崎線深谷駅で電車を降りた。
スマートフォンの地図アプリには、目的地まで徒歩30分と表示されている。
後藤は、煉瓦造りの趣のある深谷駅を後にし、目的地を目指して歩くことにした。
“深谷のボランティア”は2日間の日程で行われる。
8月12日に施設の行事「納涼祭」が予定されており、今日は現場に慣れてもらうための予行練習のようなものだ。
施設の名前は、「デイサービスセンター・いろは深谷」と「さつきホーム深谷」の両方である。同一敷地内に別々の事業所があるようだ。
目的の施設は、住宅街の真ん中にあった。2階建ての箱型の建物に、両方の施設名が書かれている。敷地は砂利が敷かれており、自動車が数台置かれていた。東京で生活していると意識しないが、地方は自動車での移動が主流なのだ。
現在の時刻は8時35分。この時間でも、すでに太陽がぎらぎらしていて暑い。
早く涼みたい気持ちもあり、後藤は玄関のブザーを押した。
朝の申し送りが、9時から2階の「さつきホーム深谷」(通称・シニア)で行われた。
その後、ご利用者様はエレベーターで1階の「デイサービスセンター・いろは深谷」(通称・デイ)へ移動する。
30名近いご利用者様と職員が2台のエレベーターで移動するものだから、エレベーター前は混雑を極めた。
ご利用者様はシニアで寝泊まりし、日中はデイで過ごされる。
ご利用者様が全員デイへ移動すると、職員数人はシニアへ戻り、3名分のエアマットをデイのベッドに運ぶ。
エアマットは、マット内の空気圧を自動で切り換えることができるベッドマットだ。
この施設――職員は「いろは」と呼んでいる――を見て後藤が思ったのは、サービス付き高齢者向け住宅でも、全介助のご利用者様が多い、ということだった。
介護の仕事をしていた頃や実習先の特養では、職員間で「サ付きは楽で良いよね」という会話が飛び交っていた。
しかし、ここは介護度の重いご利用者様が半数はいるように見えた。後藤はご利用者様を介護度で区別したくないが、要介護4や5のかたが多いようだった。
今日は、見学とコミュニケーションが主の予定だったが、今日の介護職員が全員女性だったこともあり、二人介助や重いものを運ぶのは後藤も加勢した。
休憩は、昼に45分、15時頃に15分取らせてもらった。1時間一気に休憩するより、こちらの方が後藤には合っている。
15分休憩の際、後藤の心が叫びたがっていた。
――煙草が吸いたい!!
これは実習中でも悩みの種だった。
よその施設にお邪魔させて頂くのに、煙草を吸うなど態度の悪いところを見せたくない。それなので、煙草もライターもアパートに置いてきた。
後藤は缶コーヒーを飲んで喫煙衝動を抑えている。
ふっと、目の前を黒い影が通っていった。
後藤は我に返ってそちらを見たが、もう姿はなかった。
休憩時間が終わり、デイへ戻る。
黒い影と思しき人物は、デイに来ていた。
上下とも紺色の
青年は、デイと他の場所を忙しそうに行き来している。中性的な可愛い顔をしているが、女性と見間違うほどの女顔ではない、と後藤は思った。目の悪いご利用者様の中には、間違えるかたもいるかもしれないが。
デイ終了直前、エアマットを居室に運ぶ。そのとき、あの青年が後藤を手伝ってくれた。
「ありがとうございます」
エアマットをベッドに置き、青年からお礼を言われた。
「ボランティアのかたですよね。なかなか挨拶ができず、申し訳ありません」
身長174cmの後藤より小柄な青年は、若いのに礼儀正しい。
「介護職員の甲田と申します。今日は夜勤で来ているのですが、納涼祭の日は日勤の予定です。よろしくお願いします。
「こちらこそ、よろしくお願いします。……自分は、後藤といいます」
青年に爽やかに挨拶され、後藤の方がたじろいでしまった。
日勤の勤務時間は9時から18時だが、後藤は17時で上がらせてもらえた。
施設長からは、12日の集合時間と、昼食は施設から提供される旨を伝えられた。
今日書いたメモは破棄した方が良いか訊ねると、「なくさないように保管しておいて」と言われた。
それで良いのか、個人情報の管理。
外に出ると、むわっとした熱気に包まれた。思い出したように汗が噴き出す。
近くでツクツクホウシが鳴いている。ワンフレーズ鳴き終えると、入れ替わるようにヒグラシも自己主張を始める。
後藤は、ツクツクホウシやヒグラシの鳴き声を聞くと、夏の終わりを感じる。それから、故郷のヒマワリを思い出す。
故郷のヒマワリは、今年もうなだれているのだろうか。
何年も地元に帰っていない。次男だから、親戚付き合いも強制されていない。自由にさせてもらって、親や兄には本当に感謝している。
だからこそ、いつまでもくすぶっていないで立派にならなければならない。
住宅地の隙間の小さな畑で、大輪のヒマワリが背を伸ばして天を向いていた。
その咲く様は、先程会った介護職員の青年を彷彿させた。
爽やかで、きらきらした瞳の青年。
彼はきっと、
巣鴨のアパートに着いたのは、19時半頃だった。
後藤はすぐに窓を開け、ベランダに出て煙草に火をつける。我慢した分だけ、煙草は身に
東京は愛煙家に容赦のない街だ。それでも、ルールを守れば暮らしてゆける。
ついこの間まで、この時間は西の空が明るかった気がした。今はもう、すっかり暗い。
秋はゆっくり、確実に近づいてきている。そんなことをしみじみ感じ、「俺も歳をとったな」と
今夜はアルバイトのシフトを入れていない。
出勤する体力は残っているが、休みにしておいて良かったと思った。
たった1日ボランティアをしただけなのに、また介護職に戻れた気がした。その錯覚に浸りたかったのだ。
灰色の紫煙をくゆらせながら、後藤はふと思った。
――自分はなぜ、これほどまでに介護の仕事がやりたいのだろう。
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