うなだれる向日葵②

 後藤の実家の近くに、ヒマワリ畑があった。

 近所の農家が、野菜のついでに毎年のようにヒマワリの種をまいていた。

 しかし、野菜の世話はされても、ヒマワリは放置されていた。

 花が咲かない年もあった。しおれたまま冬まで放置されていた年もあった。

 ヒマワリの花は盛りを過ぎると、首元から茎がぐにゃりと曲がった。

 後藤にはそれが、うなだれるように見えた。

 水も肥料も与えられず、絶望するヒマワリ。もしくは、生長できずに命を落とすヒマワリ。

 それならヒマワリの種をまかなければいいのに、と思ったが、後藤が口を挟むことではない。

 儀式のように毎年ヒマワリの種がまかれ、放置される。

 その一連の現象は、後藤が高校を卒業して上京するまで続いた。



 柔道整復師になるか、介護福祉士になるか、それが問題だった。

 散々悩んだ結果、東京にある柔道整復師の専門学校に進学した。

 しかし、介護職も捨てがたく、就職活動は柔道整復師と介護職の両方で探した。

 介護は無資格であったが、都内のデイサービスから内定をもらい、そこに就職した。

 後藤は介護職だったが、ごくたまに機能訓練指導員の扱いになることがあり、柔道整復師の資格が無駄にならなくて良かった、と思った。

 後藤が入職して3年目、同じ系列の施設間で大きな異動があり、後藤はグループホームの職員となった。

 職場は変わっても、仕事のやりがいは変わらなかった。

 早番や夜勤もするようになり、毎日が飽きなかった。



 あるとき施設長から呼び出され「相談に乗ってあげて」と入居者様のご家族様を紹介された。それが小野未菜美――その人だった。

 その人は当時、26歳。入居者様・小野たつ子様の孫で、キーパーソン、緊急連絡先、利用料支払い者だった。子や配偶者がそのような役割を担っていることがほとんどだが、孫ひとりが全てを抱えているのは珍しかった。

 その人は、癖のある黒髪で、ロングヘアーというより切るタイミングを逃したように伸ばしっぱなしだった。

 フレームの細い古ぼけた眼鏡に、化粧っ気のない荒れた肌。

 服装は、襟首と裾がよれよれのTシャツに、色の抜けたジーンズ、ぼろぼろのスニーカー。

 その人は、祖母である小野様のことで長年悩んでいた。

 施設長曰くその人の悩みの主旨は「利用料が払えない」ということだったが、それは「支払えるときに支払えば良い」という結論に至った。

 それでも、その人の気持ちの落ち込みようが酷く、「話をするだけなら」と年の近い後藤に白羽の矢が当たった。

 その人は、多くを語ろうとしなかった。

 後藤は施設長命令でその人と連絡先を交換し、電話でもメールでも話を聞いた。

 その人から聞いた過去をまとめると、以下のようになる。



 小野様は若くして認知証を発症した。

 小野様の息子夫婦――その人の両親が働きながら小野様の介護をしていたが、夫婦共に交通事故で他界。

 親戚付き合いはなく、小野様の介護は、唯一の血縁者であるその人のみに託された。

 その人はそのとき高校生だった。高校を退学し、小野様に片時も離れずに介護をした。

 小野様は重度の認知証だった。それでいて歩行はしっかりしていた。

 小野様は一日中家の中を歩き回り、手に取ったものは何でも口に入れた。

 夜もあまり眠らず、夜間に外に出て徘徊したこともある。コンビニに侵入し、おにぎりやサンドイッチを包装のビニールごと食べていたこともあった。

 近所からは白い目で見られ、その人はことあるごとに近所の人から嫌味を言われた。

 小野様がデイサービスを利用し始めると、その人は小野様がデイサービスにいる間だけアルバイトに行くことができた。

 本当は、小野様には訪問介護や訪問看護のサービスも使いたかった。ケアマネージャーからも提案されていて、その人もそれが好ましいと思っていたが、アルバイト代だけでは週3回のデイサービスと生活費を捻出するのが精一杯だった。

 様々な入所サービスに入所申し込みをした。どこも入所待ちの状態だった。

 その人が小野様の介護を始めて8年、その人が24歳のとき、小野様はグループホームに入所が決まった。

 小野様が手から離れて楽になったと思いきや、その人を待っていたのは、働きづめの毎日だった。

 施設利用料は、週3回のデイサービスとは比べものにならないくらい金額に差がある。

 1か月の給与は、ほぼ全て施設利用料にあてられた。

 その人はいわゆる水商売にも応募してみたが、どれも不採用。レジ打ちや品出しのアルバイトやパートをかけ持ちした。

 自分はなぜ働くのか自問した。

 答えは「祖母のため」だ。

 それがわかった途端、虚しさをおぼえた。



 後藤はその人の話を聞き、少々想像した。

 きっとその人は、自分自身のために金銭を使う余裕がない。服も買い替えられず、美容院に行けず、スキンケア用品も買えないのだろう、と。

 稼いだお金は、祖母である小野様に搾取される。

 後藤の脳裏に浮かんだのは、故郷のヒマワリ畑だ。

 肥料も水も与えられず、うなだれるヒマワリ。

 学業も青春も奪われ、成長の機会を失ったその人が、そんな風に見えた。

 その人を助けたい――後藤はそう思った。

 その人だけではない。世の中には他にも同じ境遇の人がいる。

 介護が必要な人を介護して、家族の悩みも聞いて、自分と関わる人に少しでもストレスなく日々を過ごしてもらいたい。

 それはきっと、めぐりめぐって世の中のためになる。

 世の中のために働きたい――後藤は、このときはそう考えていた。

 それが正しいと思っていた。



 後藤が話を聞くうちに、その人は元気になっていた。

 今まで通りの身の上話に加え、小野様の悪口が出てくるようになった。

 あるとき、ファーストフード店にて。

 そこでその人が初めて語ったのは、その人は小野様を虐待していた、ということだった。

 しかし、その人には虐待という認識がなかった。

 後藤は言ってしまった。「それは虐待だ」と。

 その人は「何を言われているのかわからない」という風に小首を傾げ、否定した。

「違いますよー。子どもの頃とかに、誰もが通る道じゃないですか。いけないことをしたら、殴られたり蹴られたり、ご飯をもらえなかったり。私だって、よくお父さんやお母さんに怒られてやられましたよ。おばあちゃんだって、いけないことをしたから、やってあげたんです。それと同じです」

 悪びれもなく言い切ったその人に、かつての翳りはなかった。

 少々生活に余裕が出てきたのだろう。

 髪はショートボブにし、薄化粧をしている。

 服装は従来のようなジーンズだが、Tシャツとスニーカーを新調し、良い具合にカジュアルコーデになっている。

 ピンク色のリップグロスをつけた口で、キャラメルマキアートを一口飲み、その人は言葉をこぼした。

「おばあちゃんが死んでくれれば良いのに」

 ちょうどシェイクを飲んでいた後藤は、吹き出しそうになった。

 その人の舌足らずな甘ったるい声が、凶器のように鋭くなって後藤をえぐってくる。

「おばあちゃんのために働くのは、とっくの昔に疲れました。そういえば、後藤さんは何のために働いているんですか?」

 理解してもらえないと思いつつも、後藤は答えた。世の中のために働いている、と。

 その人の反応は、案の定こうだった。

「何それー。エゴみたいで、気持ちわるーい」

 答えを予想していても、言われるとやはりダメージになる。

 ちょうどシェイクを飲んでいた後藤は、吐き出しそうになった。

 どす黒いモノが後藤の中に流れ込んでくる気がした。



 ふと脳裏に浮かんだのは、今夜も施設の中を歩き回っているであろう小野様の姿だ。

 孫から虐待され、抗うすべもない祖母。

 故郷で見た、うなだれるヒマワリと重なった。



 小野様は、よく他の入居者様の居室に入ってしまう。

 菓子を持ちこんでいるかたもいるため、小野様が勝手に手にして食べてしまうおそれもあった。

 後藤は充分に気をつけていた。

 気をつけていたはずだった。

 あるとき突然、小野様は亡くなった。

 飴玉を喉に詰まらせたことによる、窒息死だった。

 後藤は後悔した。

 もっとよく見てさしあげるべきだった。

 あの人の言葉が呪いのように蘇った。



  ――おばあちゃんが死んでくれれば良いのに。



 後藤はその月のうちにグループホームを退職し、別の仕事に就いた。

 しかし、介護の仕事が諦められなかった。

 なぜ自分はこれほどまでに介護に関わりたいのだろうか。

 考え続けたが、答えは出なかった。

 ならばせめて、介護の勉強をやり直そう。

 後藤は、介護福祉士の資格が取れる学校を探した。

 調べてみると、介護福祉士だけでなく、社会福祉関連の資格を取得できる大学も多い。

 お金はかかるが、四年制大学を目指すことにした。

 介護をやりたい気持ちに反し、猶予も欲しかった。


     ◇   ◆   ◇


 真夏の空はどこかかすんでいる気がして、それでも照りつける日光に目を向けるのが怖く、後藤は地面に向かって煙草の煙を吐いた。

 昨夜は、うようよ動く胃に力を入れて深夜のコンビニのアルバイトに向かった。

 朝6時まで働き、退勤後は大学に直行。建物の鍵が開くと、1限が始まるまで教室で仮眠をとった。

 本日の授業は1限と4限のみ。1限の後は学生ホールで惰眠をむさぼっていた。14時くらいに目は覚めたが、眠気はおさまらず、こうして喫煙所で煙草をふかしている。

 後味のすっきりするタイプの煙草を好んで吸っているが、うだるような暑さのせいか、だらだら流れる汗のせいか、はたまた睡魔のせいか、全くもって清涼感はない。

 3本目の煙草を出そうとしたときだった。

、見つけた!」

「……?」

 後藤をあだ名で呼ぶこの青年は、佐瀬させのぼる。略して、サノ。大柄だが愛嬌があり、嫌味がない。後藤が気兼ねなく話すことができる数少ない友人だ。

「わっきー、ごめん! 深谷のボランティア、代わってもらえる?」

「喜んで」

「えっ……いいの?」

「そういう約束だっただろ」

 佐瀬青年の事情は、以前から聞いていた。

 後藤と佐瀬の所属する演習ゼミでは、長期休暇を使い、希望者が介護施設にボランティアへ行くことが恒例行事となっている。

 佐瀬は都内に独り暮らしをしているが、実家が埼玉県ということもあり、ボランティアの候補の中から深谷の施設を希望していた。

 しかし、「祖父の三回忌とかぶるかも」と彼が呟いていたのを聞き、後藤は「そのときは俺が代わりにボランティアに行っていい?」と言っていた。

「良かった、助かったよ。じゃあ、俺から先生に話してくる!」

「サノ、待て。俺も行く」

 後藤は、出しかけた煙草をしまい、喫煙所のベンチから立ち上がった。



 後藤は自分自身を、情けないと思っている。

 取得したい資格をひとつにしぼれなかった自分が情けない。

 “うなだれるヒマワリ”だと思った人を守れなかった自分が情けない。

 死亡事故の後に介護が怖くなった自分が情けない。

 介護が怖いのに介護の仕事を諦められない自分が情けない。

 大学に行くことを選んだ自分が情けない。

 介護の感覚を忘れたくなくて、ボランティアを希望した自分が情けない。

 世の中のために働きたいという思いと情けなさが、どす黒いモノとなって自分の中で渦巻いている。

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