うなだれる向日葵

うなだれる向日葵①

 7月も半ばになると、大学は試験期間の真っ只中である。

 科目によっては、一足早く試験を終えており、若い学生達は夏季休暇を心待ちにしているようだ。

 28歳でありながら大学2年生である後藤ごとう和記かずきは、彼らとは違う意味で夏季休暇を心待ちにしていた。

 とにかく働かなければならない。時間のあるうちにアルバイトをして、学費や生活費を稼がなくてはならないのだ。

 そういうわけで、15時からの学童保育でのアルバイトに向かうため、後藤は大学の最寄り駅で電車を待っていた。

「あ、後藤さん。お久しぶりです」

 ホームでぼーっとしていると、誰かから呼ばれた。

 そちらを見るが、誰なのかは思い出せない。

 30代くらいの女性。ボブカットの茶髪にゆるふわパーマをかけ、顔は濃いめの化粧をしている。今風のヘアとメイクとは対照的に、服装は暗めだ。紺色のワンピースに黒いボレロを羽織っている。抱いているのは、ヒマワリを基調とした花束だ。

小野おの未菜美みなみです。今は結婚して、前原ですけど」

 舌足らずで媚びるような口調。

 後藤はようやく思い出した。

 最悪の再会だった。



 その人は、後藤と同じ電車に乗った、

 片手で吊り革につかまり、片手で花束を持ち、後藤にしきりに話しかける。

「私、あの後、定時制の高校に入学できたんです。学校に通いながら、そこそこ良い職場にも就職できました。仕事は大変だけど、高校に通う前に比べたら給料も良いし悩みも少ないんです」

 後藤は相づちを打たず、かといって聞き流すこともできなかった。

 新婚生活の話に移った。本当に幸せのようだ。

 しかし後藤は、その人に素直に幸せになってほしくなかった。

 どす黒い感情が後藤の胸中で渦を巻く。

 吐き気がする。舌足らずな喋り方にも、幸せの報告にも、幸せそうな表情と容貌にも。そう思ってしまう自分にも。

「旦那さんと旦那さんの両親も良い人です。私みたいな人にも嫁においでって言ってくれました。後藤さん、聞いてます?」

 聞いています、とだけ答える。一刻も早くこの電車から降りたかった。

「最近、おばあちゃんのことを思い出すんです」

 話題は、後藤が最も聞きたくなかった部分に直入した。

「うちのおばあちゃんは、他の子のおばあちゃんと違って、人の言葉が理解できない動物みたいな感じでした。他の子のおばあちゃんがうらやましかったです。本当のおばあちゃんは、あんな感じなのかなって思っていました。でもね……」

 花束をいとおしそうに抱え直す。その動作は、後藤の不快感を増長させた。

「おばあちゃんが死んでから、おばあちゃんは他の子のおばあちゃんと同じ部分もあったことを思い出したんです。おばあちゃんは、色んなものを口に入れて食べようとしてたけど、お花だけは絶対に口に入れなかったんです。手に取らずに眺めて、『綺麗ね』って笑っていました。そのときのおばあちゃん、人間の目をしていました。そういう機会をもっとつくってあげたかったです。でも、今更後悔していませんよ? 昔は地獄でした。今は天国のようです」

 駅に停まるアナウンスが流れた。

「これから、おばあちゃんのお墓参りに行くんです。おばあちゃんを供養することが――」

 電車が止まり、ドアが開いた。

 後藤は真っ先に電車を降り、ホームに倒れ込んだ。

 胃の内容物が逆流している。

 後藤は人目を気にする余裕がなく、その場で嘔吐した。

「後藤さん、どうしました? 熱中症ですか?」

 電車の中で後藤を苦しめていた声が、電車を降りてもなお後藤にまとわりつく。

 やめてくれ。放っておいてくれ。

 声を荒げることができたら、どんなに楽だろうか。

 その人に背中をさすられると、余計に吐いた。

 後藤は駅員によって別室に運ばれた。

 吐き気が落ち着くと、後藤はその場でアルバイト先の学童に電話をした。駅で吐いたことと、今から向かうが遅刻してしまうこと。すると、学童の職員から、休むように命令された。

 その人は、後藤が回復するまで花束を抱えて待っていた。

「後藤さん、もう平気なんですね? じゃあ、一緒にお墓参りに行きませんか?」

 後藤は首を横に振り、謹んでお断りした。それでもなぜか食い下がってくるので、「夜も別のアルバイトがあるのでそれに向けて休んでおきたい」と強く主張した。納得はされなかったが、とりあえず諦めてくれた。

 再び電車に乗って寺へ行くというその人に、後藤は訊ねる。

「あのとき俺に言った言葉、後悔していますか?」

 その人は、マスカラで盛ったまつげをしばたいてから、「いいえ」と否定した。

「あのとき言ってしまって、良かったですよ。だって、あれがあのときの気持ちだったし、それを吐き出せたから気持ちが楽になったんです」

 後藤は、唖然としてしまった。その人は後悔していると思ったからだ。びっくりするこど論外だった。

 しかし、それは言わず、違うことを伝える。

「小野様に対して『そういう機会をもっとつくってあげたかった』というお気持ちは、忘れないで下さい」



 後藤は電車には乗らず、駅を出てバスに乗った。

 アパートの最寄りのバス停で降り、自分の部屋に駆け込む。

 室内は蒸し暑く、じっとりまとわりつく熱と汗が気持ち悪い。それ以上に、うようよ動いている胃が気持ち悪い。自分の中にどす黒いモノがうごめいているようで、気持ち悪い。

 当分の間、ここから動けそうになかった。

 無料通信アプリの着信音が耳に入った。エナメルバッグを引き寄せてスマートフォンを出し、メッセージを確認する。この間会った女の子からだった。内容は、他愛もない話。

 気持ち悪さが、すっと引いた。しかし、本調子とは言えない。

「……ごめんね」

 ごめんね。今は返信できそうにないんだ。

 自分でも驚くほど優しい声が出た。

 後藤は、21時からのコンビニのアルバイトに間に合うようにアラームをセットし、目を閉じた。

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