うなだれる向日葵⑥

 ふたりとも3本目のビールをからにすると、甲田が違うビールを持ってきてくれた。

「俺のお気に入りです」

 可愛らしいキャラクターが描かれていて、ビールらしくない。

「もしかして、クラフトビール?」

「そうです」

 “地ビール”とも言われるクラフトビールは、最近コンビニやスーパーで目にすることが多い。しかし、可愛い絵柄のせいか、後藤はなかなか手を出すことができなかった。その代わりに、ワンカップを買ってしまう。

 4本目は、ありがたくクラフトビールを頂戴した。

「誤解のないように言っておきますが」

 甲田は、赤みのない顔で大真面目に話し始める。

「先生はあれでいて、優しいし良い人ですよ。俺はだいぶ救われました」

 爆睡する鹿木を、指差すのではなく手で示す。

「最初から馴れ馴れしいから、警戒していました。でも、仕事へ行くときとか帰ってきたときとか挨拶して下さるし、しつこく弁当を持たせてくれましたし、なぜか嬉しかったんです。警戒していたのが嘘みたいに、家族みたいな安心感になりました。それに……」

 甲田はまるで昔のことのように語るが、現在22歳という若さから察すると、この話は数年前のことだろう。就職したての不安な時期には、相当な心の支えになったはずだ。

「俺、働くことについての考え方が他の人とだいぶ違うみたいなんです。上司からドン引きされました。それでも、先生は肯定してくれました」

「俺も、自分の働き方を否定されたことがあります。ご利用者様のご家族様から」

「ご家族様では……きついですね」

 甲田は唇を噛んで、苦そうな顔をした。が、すぐに首を傾げる。

「後藤さん、学生さんですよね?」

「はい。でも、その前は介護の仕事をしていました。無資格ですけど」

 今までは、無資格であることを告げると、露骨に嫌な顔をされた。

 後藤は甲田の反応をうかがうが、彼は反応を示す前に席を立ち、缶や皿を片付け始めた。

 嫌がられたかもしれない。そう思ったのもつかの間、後藤の目の前に赤ワインのボトルが置かれた。ラベルには「小鹿野の雫」と書かれている。埼玉県産のワインのようだ。

「とことん飲みましょう、後藤さん」

 ごく普通のグラスも差し出される。

「あんたとなら、腹を割って話せそうです。興味深い話も聞き出せるでしょうし」

 甲田は、爽やかな笑顔を見せてきた。

 人懐こそうなその笑顔に、後藤は一瞬赤面してしまった。しかし、すぐに背筋を冷たい風が通る。エアコンのせいではない。

 酔い潰す気か、こいつは。



 洗いざらいとはいかないが、互いにけっこう話したと思う。

 後藤は、小野たつ子様と孫ののことを話してしまった。未だに、その人の発言が忘れられないことと、小野様の事故死がきっかけで介護が怖くなってしまったことも。それでも、介護の仕事が好きなのだと、実習のたびに感じてしまうことも。

 甲田は、高校生のときに介護福祉士の資格を取得したことや、離設で亡くなった入居者様とのエピソードを話してくれた。

 後藤はそこまで頑張って聞いていられたが、その後の職員の嫌がらせの話は聞くに堪えられなかった。嫌がらせの内容を想像すると、身を斬られるような、刺されるような痛みを錯覚してしまう。

 後藤の表情からそれが読み取れたのか、甲田は話を続けなかった。

 冷蔵庫からスモークチーズを出し、後藤に1ピースくれた。

、意外と男らしくないですね」

 甲田はいつの間にか後藤を“先輩”と呼んでいる。

とお祖母ばあ様だって、そんなに先輩に未練を残されては、迷惑でしょう。その人のことで、いつまでもうじうじ悩んでいたら、先輩が疲れるだけです。それに、お亡くなりになったお祖母様だって、うかばれません。

 甲田は割とあっさり言い切った。

 にとっては迷惑。後藤が疲れるだけ。小野様はうかばれない。

「しーちゃんは、藤井様ってかたのときはどうしたの?」

 後藤もいつの間にか甲田を“しーちゃん”と呼んでいる。

「俺のときは、上司が味方になってくれたんです。入居者様は体を張って俺達に色々なことを教えてくれる、と言ってくれました。藤井様がお亡くなりになったのは悲しくて悔しいです。直接の担当ではありませんでしたが、俺にも責任はありましたから。もっと注意して見守りしていれば良かった、と今でも後悔しています」

 それでも、と甲田は言葉を続ける。

「それでも、介護の仕事を続けたいと思いました。無情なものですが、藤井様と接したこと、良かったことも悪かったことも、自分の糧にして仕事を続けたいんです。理屈ではありません。我ながら、たちが悪いです」

 甲田は苦笑した。照れ隠しのようにグラスをあおる。後藤の見間違いでなければ、グラスにはワインがなみなみと注がれていた。

「俺は性根が変なんです。世の中のために働きたいなんて考え、未だに持っているんですから」

 俺と同じだ、と後藤は思った。

「俺も……! 世の中のために働きたいって考えて、仕事をしていました! 俺も変かな」

 甲田は目をしばたいた。ゆるゆると首を横に振る。

「同じことを人から聞くと、変ではないですね。あっ、そうだそうだ。先生が下さったお言葉なのですが」

 さすがの甲田も、ここまで飲むとアルコールがまわっているようだ。饒舌になっている。

「先生、こう言ってくれたんです」



 ――介護福祉たい。世のため人のために働いて何が悪いと?



「それ、俺も誰かに言ってほしかった……!」

 間接的に聞いても、心がぽっと温まる気がした。多分、アルコールのせいではない。

 シンプル且つ率直だが、原点回帰のようで我に返らせてくれる。

「先生、先輩に言ってあげて下さいな」

 甲田は、テーブルに突っ伏して眠る鹿木を、ぺしぺしと叩いた。鹿木は微動だにせず、爆睡している。

「そろそろ横にしてあげた方が良いかもね」

「そうですね。俺、布団を敷いてきます」

 甲田はすっと立ち上がり、確かな足取りで別の部屋へ向かう。

 残された後藤は、鹿木がずっとジャケットを着たままだったことに気付いた。

 きっと、暑いだろう。寝るときくらいは楽になってもらいたい。

「鹿木さん、上着脱ぎますよ」

 仕事をしていた頃のように、声かけをしてみる。鹿木の反応はないが、安らかな寝息をたてている。

 衣類の着脱の際、患側かんそく健側けんそくに注意するように指導された。

 「着患脱健ちゃっかんだっけんとも言われ、衣類を着るときは怪我や麻痺をしている患側から袖を通し、脱ぐときは動ける健側から袖を抜くのが鉄則である。

 当初はなかなか覚えられなかった。今となっては懐かしい。

 鹿木は怪我をしているわけでもなく、両腕とも動かせるため、患側を気にしなくても良いだろう。

 難なくジャケットを脱いでもらったが、背中を見た途端、後藤は頭を殴られたようなショックを受けた。

 火傷のようなものが、白いワイシャツから透けて見えている。

「お待たせしました。どうかしました?」

 バスタオルを持ってきた甲田は、後藤と鹿木を交互に見て、納得した。

「先生の背中には鹿がいるんですよ」

 甲田は鹿木のそばに膝をつき、シャツの上から背中を撫でる。

「先生は、自分の出身地がわからないそうです。九州弁みたいな訛りをしていますが、ご両親も祖父母も九州のかたである確証はなくて、何となく耳に馴染むから、今のような喋り方をしているそうです」

「……斬新ですね」

 後藤は率直な感想を述べてしまった。

 甲田は嫌な顔をせずに頷く。

「ええ、斬新です。小さい頃は苦労されたようですが。だからなのかな、とても優しい人です。すかしていますが、他人の痛みには敏感ですし、眠っていれば無害です」

 甲田が褒めた矢先、鹿木が「んっ、あっ」と変な声を発した。甲田はすかさず鹿木の頭をぺちんと叩く。

「さてと。先輩、タオル移乗いじょうはできますか?」

「二人介助だよね? やるよ」

「この人、けっこう大変だと思いますけど、気をつけて下さいね」

 ふたりでローテーブルをどかし、バスタオルを広げた。

 “タオル移乗”は、動かしたい人にバスタオルの上に仰臥位あおむけになってもらい、介助者がバスタオルの頭の方と足の方を持って、動かす方法だ。座位が保てない人や、体を直接持つと表皮剥離のおそれがある人に対して、この介助を行う。

 鹿木をバスタオルの上に転がし、甲田はさりげなく「この人、無駄に綺麗な寝顔をしているんですよね」と毒づいた。

 布団を敷いた和室までの戸を全て開け、準備完了。

「難しかったら無理をしないで下さい。そのときは祖父にも力を貸してもらいましょう」

 甲田は何気なく言ったつもりだろう。

 彼の言葉は後藤の中に、すとんと落ちた。

 後藤は、一度の失敗から自分にふたをして、当たり前の感覚を何年も思い出せないでいた。今この瞬間、そんな自分が愚かだと思ってしまった。

 介護が怖い。落としたらどうしよう。喉に詰まらせたらどうしよう。

 それは当然の感覚だ。

 だからこそ、事故を防ぐために最も安全な介助を心がける必要がある。

 介助が難しいと思えば、人手を借りたり、介助を代わってもらうことも大切なのだ。



「では、先輩。持ち上げますよ!」

「はい! ――せーの!」



 介護が怖い。今でも手が震えてしまう。

 それでも、介護をしたい。否、“させて頂きたい”。

 理屈ではない。介護の仕事が好きだという、途方もない性分なのだ。

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