うなだれる向日葵⑦

 自分の部屋だと思っていた。

 まぶたを開けると、見知らぬ天井が視界に入った。

 そうだ。電車が動かないから、泊めてもらったんだ。



 後藤は障子を開けた。ガラス戸の向こう、屋外に見知った人影がある。

 後藤はガラス戸を開けた。

「おはようございます」

「あっ、先輩。おはようございます」

 甲田は、仕事中と同じように丁寧にお辞儀をした。その手には、じょうろを持っている。

 外はすっかり晴れていて、昨日の暴風雨が嘘のようだった。

「すみません。俺、今日は本庄に応援に行かなくてはならないので、そろそろ出発します。おふたりのことは祖父に頼んでおいたので、駅まで送ってもらって下さい」

「ありがとう。助かります。泊めてもらったのに、飲んでいただけで、申し訳ない」

「いえ、良いんですよ。楽しかったです。すみません、そろそろ……」

「うん。行ってらっしゃい」

「行ってきます」

 甲田はきびすを返した。通勤用らしい斜めがけリュックにつけた、オレンジ色のリングが揺れる。

「……認知証サポーター、だ」

 おそらく、あのオレンジリングだろう。どこまでも真面目な子だ。

 後藤も甲田を見習って、認知証サポーターの講習を受講しなくては、と焦った。

 若い者には負けていられない。

 ガラス戸の下には、プランターが置かれていた。ちまっと咲いたミニヒマワリが後藤を見上げている。

 昨夜の台風にも負けず咲き残ったミニヒマワリ。しゃんと背を伸ばして、陽光と雫を受けて輝いて見えた。



 後藤の本日の予定は、コンビニの深夜のアルバイトだけだ。

 時間に余裕があるので、鹿木に合わせて帰ることにした。

 11時頃、甲田の祖父の車で駅まで送ってもらう。

「そういやあ」

 赤信号で止まったとき、甲田の祖父が呟いた。そういえば、と言いたかったようだ。

「うちのしのぶ、彼女がいるとか言ってなかったか? なんか聞いてねえか?」

「いるんですか?」

 後部座席の後藤は逆に訊き返してしまった。隣で狸寝入りをする鹿木も、びくっと震えた。

「本庄に彼女がいるみてえなんだけど、なかなか話してくんねえんだよ。まあ、いいか」

「ええ? 俺、気になるんですけど……」

 甲田の「彼女有り」疑惑は、祖父の都合で打ち切りとなった。

 車は深谷駅に向かっていると思いきや、隣の熊谷駅に行ってくれた。

「泊めて下さって、本当にありがとうございました」

「……お世話になりました」

 後藤にならい、鹿木は頑張ってアイコンタクトをし、頭を下げる。

「いやいや。何もできねえけど、懲りずにまた来てくんない」

 甲田の祖父は、颯爽と車を発進させてロータリーから去っていった。

 それを見届けた鹿木が、水を得た魚のように「なあなあ、美声年」と後藤のTシャツの裾を引っ張ってくる。

「おっさんとランチしよか? ポップオーバーとかいうもんが食いたか」

「お昼には少々早いですよ」

「よかよか」

 鹿木は勝手に、駅ビルの方へ歩いてゆく。

 鹿木を放置して後藤だけ帰るという選択肢もあるが、見知らぬ土地で熱中症で倒れられると、後味が悪くなるだろう。

「鹿木さん、駅ビルの中からとおって行きませんか?」

 本日の熊谷市の予想最高気温は、40度。商業施設の中を通った方が良さそうだ。



 今日は8月13日。盆の入りということもあり、駅の改札前も駅ビルも人であふれ返っていた。

 鹿木は店の目星をつけているようで、順調に駅ビルの中を進んでゆく。

 連絡通路に出ると、隣の駅ビルには行かずに、階段を下りた。

「ここや」

 連絡通路の下には、上手い具合に建物が収まっている。

 カフェをうたうこの店が、鹿木の目的地らしい。ガラス張りの壁面には、塗料で「ポップオーバー食べ放題」と書かれている。

「若い人向けの店みたいですね」

「美声年、若いやろ」

「若くないですよ!」

 外から見ると、店の中の客は男性も女性も半々の割合だが、男ふたりで入店するのは、後藤にはためらいがある。

 そのような後藤の気持ちはいざ知らず、鹿木は後藤のエナメルバッグを引っ張って店の扉を開けた。

 テーブル席に案内されると、鹿木は無言でエアコンの冷気を満喫している。ジャケットは脱がない。

 ふたりともランチセットを注文すると、鹿木は急にしょげたように背中を丸くした。

「余計なこと、言ってしもうたき」

 後藤には見当がつかず、「何がですか?」と訊ねた。

「マルちゃんのこと、しーちゃんには言わん方が良かったかと思って」

 マルちゃんというのは、甲田の以前の職場の上司らしい。

「昨夜は話題に出ませんでしたよ」

「……そうか」

 鹿木は背中を丸くしたまま、テーブルに肘をつき、手で顔をおおう。眼鏡はかけておらず、ジャケットの内ポケットに入れているようだ。

 ポップオーバーはいかがですか、と店員に訊かれると、鹿木は何事もなかったかのように顔を上げ、「ください」と言った。

 後藤もポップオーバーをひとつもらった。

 ポップオーバーは爆発したマフィンのようだった。味は、パンと変わらない。

 ランチセットのパスタが来るまでの間、後藤はスマートフォンを出して、メッセージの返信を入力する。

 昨日の夕方、電車が止まった情報をくれたあの女の子に、無事を伝える。ついでに、ポップオーバーを食べたことがあるか訊ねる。

 時刻は正午過ぎ。5分経たずに返信が来た。



 『私はありませんが、今まさに後輩が食べています。』



 メッセージに続き、写真も送られてきた。

 黒髪ボブカットの若い女性が、ポップオーバーらしき炭水化物をもぐもぐしている。

 その写真に妙な既視感をおぼえ、鹿木にも見てもらった。

 若い女性の後ろ――おそらく、テーブルを挟んだ向こう側――に、カップ麺を食べている青年が入り込んでいる。紺色のウエアを着た、中性的な顔立ちの青年だ。

「しーちゃん!」

「ですよね!」

 後藤の既視感は確証に変わった。

 それだけでなく、甲田が応援に行った事業所が、あの女の子の職場だったことにも驚きだ。

「美声年、情報源はどこや……大木絵美って、あんたの彼女か」

「コメントは控えさせて頂きます」

 鹿木はつい先程まで“おっさん”を自称していたのに、今度は駄々っ子のように写真の転送をせがんできた。

 後藤は仕方なく鹿木と連絡先を交換し、ついでに甲田のアドレスも入手した。

 後藤は心の中で甲田に謝った。

 願わくば、自称・おっさんのおせっかいが爆発ポップオーバーしませんように。



 昨夜の運転見合わせが嘘のように、高崎線も湘南新宿ラインもダイヤの乱れなく運行している。

 後藤は池袋で乗り換えるが、鹿木は新宿まで行くらしい。

 池袋で止まる前に座席から腰を浮かしたとき、鹿木に妙な部位を触られた。

 鹿木には車両から降りてもらって、駅員でも呼ぼうかと考えてしまったが、瞬間的に好意的な解釈がひらめいた。

 鹿木にもそれが通じたようで、にやっと笑って「またいつか」とだけ言った。

 彼が触れた場所は、腸骨ちょうこつ。広義での、腰だ。

 腰を痛めるなよ、と言いたかったらしい。

 介護職員で腰を痛める人は多い。後藤も一時的な腰痛を発症したことがある。

 おっさんの気遣いを一応ありがたく受け取り、後藤は電車を降りた。



 巣鴨駅を降りてアパートへ向かう。

 途中の花屋で、ふと足が止まった。

 お盆の期間ということもあり、仏花が多い気もする。

 後藤の目に止まったのは、298円のミニブーケだ。ドラセナとヒペリカムに引き立てられたミニヒマワリに見つめられている気がしたのだ。

 学費のためにアルバイトと貯蓄をしている身としては、298円も痛い出費となる。

 しかし、衝動的にそのブーケを購入してしまった。誰かに贈るわけではない。部屋に飾るだけになるだろう。

 ミニブーケとして売られている花は、痛んだり古くなっている印象が強い。このミニヒマワリ達も、少々元気がない。それでも、水に入れれば少しは生気が戻るかもしれない。

 アパートに着くと、窓も開けずに花瓶を探した。

 買った覚えも、もらった覚えもないものが、出てくるはずもない。

 資源ゴミの回収日に出そうとしていたワンカップの空き瓶を使うことにした。

 花の痛んだ根元を切り、水を入れた瓶にいける。

 窓を開けたのは、その後だ。生ぬるい風がわずかに入ってくる。

 蒸し暑さ、生ぬるい風、ヒマワリから連想する記憶……それらは決して気持ちの良いものではない。しかし、なぜか今は気にならなかった。

 いつもは腹の中で渦を巻くどす黒いモノも、昨夜から動きをひそめている。きっとそのうち、どす黒いモノは後藤の内で再び暴れ出すだろう。

 かかってきやがれ、とは言えない。しかし、以前ほど怖くはなくなった。

 ボランティアが充実していたからだろうか。それとも、自分と似たような人と出会えたからだろうか。介護職への思いを再確認したためだろうか。

 ボランティアは終了し、無事に自宅へ着き、日常へ戻ってきた。

 後藤は深夜のコンビニのアルバイトに備え、仮眠をとることにした。

 エアコンをつけてまどろみ始め、ふと、下らないことを思った。今度誰かに話してみよう。一蹴されるかもしれないが。



 ――飲んだら介護るな。介護るなら飲むな。



 【「うなだれる向日葵」終】

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