夜勤

夜勤 with 岩居

 午前4時16分。岩居が唐突に話し始めた。

「小野里くん、辞めるらしいよ」

 その声は、ふたりしかいない共同ホールに虚しく響く。

 大木絵美は「そうですか」と相づちを打った。

「小野里くん、解体業の会社を立ち上げるんだって。介護職ではお金が貯まらないって言ってたよ。そりゃあ、そうだろうね。俺が小野里くんだったとしても、きっとそう思うよ。こんな仕事じゃあ、やっていけないって」

 岩居はそろそろ60歳になり、孫もいる。陰のあだ名は“おじいちゃん”。しかし、そうとは思えないほど元気のある正規職員だ。介護技術は高く、人望もあるが、とにかく喋ることが好きだ。噂話も率先して拡散させ、それが人を傷つけていることを知らない。

 大木は岩居を先輩として信頼しているが、噂話には警戒していた。

「大木さんや高橋さんも、結婚すればわかるよ。介護みたいな収入の低い仕事じゃあ、やっていけないってこと。ふたりとも、世の中のために働きたいなんて豪語しているけど、そんなのは妄言だよ。家庭を持つようになったら、家族のために働かなくちゃいけないんだから。俺みたいに、子どもが手から離れた人じゃなければ、介護職を続けるのは難しいんだよ。あっ、そもそも、大木さんも高橋さんも、結婚の予定はないのか」

 がはは、と笑う岩居の横顔を、大木は寝不足の目で睨みつけてやった。

「大木さん、今度の夜勤は堀越さんと組むんだよね。あの人なら、高橋さんよりしっかりしているから大丈夫だよ」

 岩居は、マイカップでにカフェオレの粉末を入れ、ポットのお湯を注ぐ。

 話の切れ目だと大木は思い、「煙草を吸ってきます」と声をかけて外に出た。



 「いろは本庄」は敷地内に平屋の建物が2棟あり、片方がデイサービス、もう片方が「サービス付き高齢者向け住宅」である。職員は後者を「シニア」と呼んでいる。夜勤者の仕事は、シニアで寝泊まりするご利用者様の介助をすることだ。

 11月となった今日こんにち、日中はぽかぽか陽気だったが、朝方は冷え込む。

 シニアのベランダに出た大木は、冷気に身を震わせながら煙草の箱を開けた。

 タール1mg、ニコチン0.1mgという弱い煙草だが、ほのかなラズベリーの香りが優しく鼻をくすぐる。

 煙草をくわえて火をつければ、微量のメンソールが眠気の残るあたまを刺激してくれる。

 匂いが弱く煙も少ないので、仮に近くに人がいたとしても迷惑にならない、と思う。

 大木が煙草を吸うようになったのは、就職して2、3か月が経った頃だった。

 理由は、眠気覚ましのため。癖になるほど吸ってはいない。

 喫煙のタイミングは決めている。夜勤業務の日の午前4時台に1本だけ。

 愛用のこの煙草は10本入りだから、1箱が2か月近くつ。

 親に知られないように吸わなくてはならない緊張感はあるが、夜中にこんなところまで来て見張るような真似はしないだろう。



 ラズベリー風味と弱いメンソールを肺に取り込み、大木は考えた。

 皆もっと素直に仕事ができないものか、と。

 岩居の言う通り、確かに介護職は給与が低い。

大木がこの職場に入職したてのパート扱いだった頃は、手取りが月に14万円くらいだった。介護福祉士の資格を持っていても、このくらいだ。初任者研修(旧・ホームヘルパー2級)や無資格者は、もっと低い。

 大木は低賃金でも正規職員になる3か月後まで耐え、今は残業なしでも19万円ほどもらっている。一般企業や市役所に勤める同年代の人と比べても収入は少ないが、上をうらやんでもきりがないのだ。

 岩居も他の職員も、この職場は“ブラック”だと言っている。

 主な言い分は「給与が低い」「ボーナスが少ない」「残業がある」「定時で帰れない」である。

 それを聞いたとき、大木は驚いた。この職場は“そこそこホワイト”だと思っていたからだ。

 給与と賞与が少ないことは認める。それでも、正規職員になって1年後、給与が上がっていた。

 賞与とは別に「介護職員処遇改善手当」ももらっている。

 「デイサービスセンター・いろは本庄」は、介護報酬の加算のひとつ、「介護職員処遇改善加算」を算定している。ご利用者様の月々の介護保険料の計算にこの加算が加わり、加算の分のお金が介護職員の手当となっているのだ。

 ただし、「デイ」の介護職員のみがこの手当を受け取ることができる。夜勤専門職員や看護師、キッチンスタッフ、生活相談員は対象とならない。介護職員処遇改善手当がもらえる介護職員は、恵まれているのだ。

 福利厚生だってしっかりしている。厚生年金にも社会保険にも加入している。健康保険証が手渡されるのも早かった。

 残業はあるが、月10時間に満たない。一度だけ、ごく一部の職員が30時間超えの残業と休日出勤をしたことがあったが、プライベートで外せない用事は考慮してもらっていた。冬場でインフルエンザが蔓延していた時期であり、職員3名が休まざるを得なくなっていたのだ。

 残業した時間の分の給与は、全額もらえている。

 「定時で帰れない」というのは、日勤の定時である18時ぴったりに就寝介助が終わらないことである。10分後には終わってしまうのだが、その10分が不満であるらしい。

 そういう人に限って、夜勤者が「時間になったから上がって」と伝えても、だらだらと居残って退勤しないのだ。

 極端な出来事もあった。18時になった途端に介助を放棄して退勤した人もいた。

 おむつ交換の途中であったが、時計が18時を示したから退勤したというのだ。

 夜勤者には伝えられず、21時のおむつ交換のときに発覚した。

 開いたままのおむつからは下痢便がゆかまで多量に流れ出し、衣類全更衣、ベッドマットごと交換する騒ぎとなった、と大木は岩居から聞いている。



 大木は今の職場が嫌いではない。やりがいもある。辞めたいと思ったことはない。

 以前勤めていた特養に比べたら、ストレスは減り、長時間のサービス残業もない。ご利用者様はわがままだが、個性的で面白いかたが多い。

 それに、独りではない、と言い切れる。

 前職時代からの知り合いである高橋瑠衣が、なかなか頼れる介護職員になってきたのだ。

 だから、岩居に高橋のことを悪く言われ、苛立ってしまった。

 高橋とは、次の夜勤でペアを組むことになっている。

 何も起こらないといいのだけど。



 約6時間後、大木と岩居は夜勤の定時である10時に退勤した。

 大木は自分の車に乗り込み、スマートフォンの着信を確認する。

 夏に知り合った男性から「夜勤おつかれさま。実習に行ってきます!」とメッセージが来ていた。年上だが福祉系大学の学生である彼は、介護実習の最中なのだ。

 「行ってらっしゃいませ」とメッセージで彼の背中を押し、大木は帰路に着いた。

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