泰造さんの旅のおはなし③

 ――今、何時なんじでしょうねーっ!


 鼓膜が破れるような鋭い声で、泰造さんは目を覚ましました。


 ――起こしてくんなよお!


 外は未だ真っ暗です。そんなこと、泰造さんだってわかります。


 ――誰かいませんかーっ!


 声は止みません。

 泰造さんはベッドから下りて部屋を出ました。

 廊下は真っ暗です。

 泰造さんは一歩も進むことができず、立ち止まってしまいました。

 大声は近くから聞こえてくるのに、そこへ行くこともできません。

 泰造さんは部屋へ戻り、鍵をかけてベッドにもぐりました。

 眠れません。大声が頭の中できんきんと響きます。

 どのくらい耐えていたでしょうか。不意に大声が止みました。

 泰造さんは鍵を開け、おそるおそる廊下に顔を出してみました。

 近くの部屋の前に、黒い影があります。影は部屋の戸を閉め、隣の部屋の戸を開けます。

「おやすみなさい」

 女の人の呟く声が聞こえました。

 影は明るい方を目指して移動します。

 泰造さんは影の後をつけてみました。

 影だったものは、仲居さんでした。

「わっ……泰造さん!」

 仲居さんは明るい場所に来て、泰造さんに気付き、驚いていました。

「ごめんなさい。眠れなかったでしょう」

「全くだよ。なんだい、あの客は」

「ご病気なんです。許して頂けますか?」

「病気を治しに来てるんかい。じゃあ、仕方ねえな」

 泰造さんも、仕事で腰を痛めて温泉療養をしたことがあります。

 大声を出したお客さんに、少々同情しました。

「もう叫ばねえな」

「しばらくは平気ですよ」

 仲居さんは微笑みました。歯は見せず、上品な笑みです。その笑い方は、泰造さんの奥さんに似ていました。

「泰造さん、喉が渇きませんか? お茶でも淹れますよ?」

「ありがてえけど、寝る前のは良くないんだろ? お湯で良いから、ちょうだい」

「泰造さん、カフェインなんてよくご存知ですね。かしこまりました。お湯をお持ちしますね」

 泰造さんは、がらんと広い食堂で待たせてもらいました。

 食堂だけ電気がついていて、他の場所は消えています。

 仲居さんは、プラスチックのカップにお湯を入れてくれました。

 お湯を水で割ってくれたようです。ちょうど良い温度の水分が喉を通ります。

「ねえちゃん、本当は気が利くんだね。旦那さんも喜んでるだろ?」

「私、独身ですよ?」

 仲居さんは、びっくりしていました。いやいや、泰造さんの方がびっくりです。

「ねえちゃん、歳いくつだい?」

「23歳です」

「そりゃあ、結婚しててもおかしくない歳だろうに」

「泰造さん、それはセクハラです」

 仲居さんは、むっとした表情になってしまいました。いやに毅然としています。

「ああ、言い方が悪かった。俺なんかの時代とは違うんだな」

 今の人は結婚が遅いと聞いたことがあります。

「でも、ねえちゃんくらい綺麗なら、彼氏のひとりやふたりいるんだろ?」

「それがね、いないんですよ。彼氏募集中です」

「じゃあ、俺が紹介してやる。萩野さんのせがれ、バツイチだけど良い男だぜ」

「んー……遠慮しときます」

「バツは嫌か」

「ちょっとねー」

 仲居さんの機嫌はすぐに戻り、笑っています。

 泰造さんは安心しました。美人を怒らせたら後が悪い、と身を以て知っていましたから。

「寝る」

 泰造さんは、もと来た廊下を戻ります。

 仲居さんがついてきてくれて、部屋の戸も開けてくれました。

 泰造さんはベッドに横になりました。



 ふと思い出したのは、家にいる奥さんのことです。

 奥さんは21歳のとき、23歳だった泰造さんに嫁いできました。

 地元では一番器量が良く、上品に笑うと評判の奥さんが、泰造さんの自慢でした。

 奥さんは、地元を出たことがないと言っていました。

 それを聞いた泰造さんは、奥さんに外の世界を見せてあげたくなりました。

 泰造さんは、器量の良い奥さんが可愛くて仕方ありませんでした。

 奥さんの喜ぶ顔が、何よりも好きでした。

 奥さんのことは、今でも大好きです。

 それなのに、どうして奥さんを置いてきてしまったのか……泰造さんは悔みました。

 いい歳して、布団を頭からかぶって、めそめそ泣きました。



 泰造さんは、部屋の戸をノックする後で目を覚ましました。

「泰造さん、朝食の準備ができましたよ」

 仲居さんが呼びに来てくれたのです。

 泰造さんはベッドを出て、食堂へ向かいました。

 長テーブルの席は、ほとんど埋まっています。

 車椅子に乗っている人もいます。

 大きな車椅子に乗った、体が動かなそうな人もいます。

 この民宿は病気療養の人ばかり泊まっているんだな、と泰造さんは思いました。

 泰造さんは、民宿の皆さんと一緒に朝食を食べました。

 隣のおばあちゃんはとても弁士べんしで、泰造さんとたくさん喋ってくれました。

 今朝は、昨日いなかった仲居さんも来ています。美人ではないけれど、着物が似合いそうな憂い顔の若い人です。

 その仲居さんが、泰造さんのお膳を下げてくれました。



「すみません、大木さん」

「いいんだよ。後はやっておくから、高橋は記録を書いてて」

「ほんと……恩に着ます!」



 仲居さんふたりが仲良さそうに会話していると、大将が泰造さんを呼びました。

「泰造さん、奥様がきてますよ」

 泰造さんは弾かれるように玄関へ向かいました。

 なぜが萩野さんの倅がいます。

 泰造さんの息子さんもいます。

 泰造さんの奥さんも来てくれました。

 泰造さんは奥さんの顔を見るなり、おいおい泣きました。

「かあちゃん、悪かった。俺は悪かったよ」



 泰造さんは、若い頃から旅行が好きでした。

 今度は奥さんもつれて旅をしようと思います。

 もしも体を壊すようなことがあったら、大将と仲居さん達のいるあの民宿に奥さんと泊まろうと思っています。

 泰造さんは、今でも旅行が大好きです。



 【「泰造さんの旅のおはなし」終】

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