ボーイミーツガールなどという良いものではない
ボーイミーツガールなどという良いものではない①
群馬県と埼玉県の境の橋は、今日も通勤の車で渋滞している。
高橋瑠衣は、運転席のドリンクホルダーに入れていたコンビニコーヒーを手にし、「今日も巻き込まれてしまった」と実感した。同時に、コンビニに立ち寄ったことと6月なのにホットコーヒーを買ったことを後悔した。
コンビニエンスストアは、誘惑の巣窟だ。デザートもデリもドリンクも並んでいるから、目的がなくても寄って何か買ってしまう。
その5分か10分の間に、道路が渋滞する時間になってしまう。
高橋は今の職場に転職してから、以前よりも渋滞に遭うことが多くなった。
今日の帰りはコンビニに寄らないようにしよう――そう誓って、のろのろ動き始めた前の車についていった。
「デイサービスセンター・いろは本庄」と「さつきホーム本庄」は、株式会社が運営する介護事業の末端である。
「デイサービスセンター・いろは」を冠するデイサービスと、「さつきホーム」の名称であるサービス付き高齢者向け住宅は、関東地方を中心に展開されている。
職員は両方とも「いろは」と呼ぶことが多く、どの事業所の人も「いろは」と認識しているらしい。
高橋が職場に着いたのは、始業時間10分前であった。
「おはようございます!」
職員に挨拶し、ロッカールームに入ろうとすると、男性職員の
「男が入っているよ」
「いろは」本庄事業所は、なぜかロッカールームが男女兼用なのだ。
「見たいなら見ても良いけど」
「見ません!」
どや顔でぼけてくる萩野に、高橋は突っ込みを入れた。
今日の日勤の介護職員は、高橋と萩野だけの予定だった。
それでは、デイサービスのご利用者様に対して介護職員の必要配置時間というものが足りず、休日だった看護師の
夜勤明けの
巨漢で力自慢の萩野とベテランの岩居がいれば現場は何とか落ち着く。
しかし残酷なことに、それでも配置が足りず、他の事業所から応援が来ることになっていた。
「すみません、空きました」
ロッカールームから出てきたのは、若い男性だった。
やせていて背は高い方ではない。可愛い顔をしている、というのが高橋が抱いた第一印象だった。
本当は彼にきちんと挨拶をしなくてはならないが、遅刻寸前の高橋のそのような余裕はない。
高橋は、
「いろは」本庄事業所は、敷地内に平屋建てが2棟ある。
片方は、デイサービス。もう片方は、サービス付き高齢者向け住宅。
前者は通称「デイ」。後者は通称「シニア」。
職員は、シニアのロッカールームで着替え、デイでタイムカードを押す。ここは、デイもシニアも兼務なのだ。
高橋は、デイでタイムカードを押した後、ホワイトボードで今日の担当を確認した。
生活相談員 国友
看護師・機能訓練指導員 平井
リーダー 高橋
入浴介助 萩野 内林(9-13)
ホール 岩居 甲田
古村様
迎え 萩野
送り 国友
担当と名前は、あらかじめマグネットをつくって貼っている。
マーカーで手書きされているのは、内林の(9-13)と、ホール担当の“甲田”だ。
高橋は、この日の記録を書いたり職員に指示を出すリーダーの担当だ。
リーダーは、朝の申し送りの司会もする。
9時からの申し送りまで時間がない。
高橋は急いでシニアに戻った。
「朝の申し送りを始めさせて頂きます」
申し送りは、シニアのスタッフルームで行われる。
夜勤者、日勤者、看護師、キッチン担当、生活相談員がスタッフルームに集合した。
本日は施設長と事務職員は休み、萩野は「外部デイ」の
申し送りの始めは、夜勤者からの報告である。
前日の看護師の指示で行っていたバイタル測定、尿破棄トータル、水分総トータルなどの結果報告。
皆様特変なく休まれていたようだ。
続いて、看護師、キッチンの職員と続き、生活相談員からの連絡。
「今日は午後に尺八のボランティアのかたがお見えになります。印象の良い挨拶をお願いします」とのこと。
最後に、応援の職員の紹介。
若い男性が、一歩前に出て頭を下げた。
「深谷事業所から来ました、
誠実そうな声を聞いて、やっぱり若いな、と甲田は思った。
高橋の以前の職場は、20代前半の職員なんてざらにいた。
ところが、この系列の事業所は20代の介護職員があまりいない。新卒ではなく経験のある人を中途採用しているせいか、若い人材がなかなか集まらないのだ。
今年24歳になる高橋は、本庄事業所の介護職員では最年少だ。その次に若いのは、26歳の大木絵美。
甲田という青年は多分、高橋より若い。言われなければ、実習に来ている学生と間違えられそうだ。
「甲田さん、こちらこそよろしくお願いします」
高橋は、職員を代表して答えた。
申し送りの締めは、企業理念と運営信条の唱和と「今日も一日、よろしくお願いします」と全員で挨拶する。
職員の申し送りが終了すると、シニアのホールで待機しているご利用者様に、デイへ移動して頂く。
ご利用者様のほとんどは、シニアに住んで日中はデイを利用して頂くことになっている。
例外は、自宅からデイへ通っている古村
ご利用者様がデイへ移動している途中で、古村様が到着した。
小柄な古村様は萩野に付き添われて車を降り、ちょこちょこ歩いてご利用者様と職員に挨拶をする。
「おはようさん。よろしくね」
95歳という年になっても、肌が白くて綺麗な“可愛いおばあちゃん”だ。
しかし、古村様をあなどってはいけないことを、本庄の職員は身を以て学ばせて頂いている。
早速、古村様は萩野の手をするりと抜けて他利用者様の車椅子を押そうとしていた。
「あっ……大丈夫ですよ」
甲田が古村様に声をかけ、止める。
「古村さん、ですね? お心遣い、ありがとうございます」
古村様は、初対面の甲田をまじまじと見つめ、にこにこ笑った。
「ずいぶん可愛いお姉ちゃんね。古村です。よろしくね」
甲田の表情が凍った。
古村様は、御世辞が言えない正直なかただ。おそらく、本気で勘違いしている。
内林は「この人、男の人だよ」と訂正した。
萩野は笑いをこらえていた。
岩居は我慢せずに笑っていた。
高橋は、言葉が思いつかず、フォローできなかった。
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