ボーイミーツガールなどという良いものではない③

「落ち着いた?」

 国友に訊かれ、高橋は頷いた。

 国友は、中学生の一人娘をもつ母親だ。女の子の扱いには慣れているようだ。

「ごめんなさい」

 高橋は鼻声で謝った。

「甲田さんは悪くないんです。話の流れとかは関係なくて、私が勝手に……ごめんなさい」

「大丈夫だよ。記録はこっちで書く……って言いたいところだけど、相談員の仕事があるからできないんだ。ごめん。相談室を使って書きな」

「すみません。ありがとうございます」

 相談室は、デイの事務所の隣にある部屋だ。戸で仕切られるため、面談や来客の応対に使われることがある。

 高橋は休憩の後、必要なものを持って相談室に入った。

 相談室には先客がいた。

 高橋は状況を察知して、苦笑してしまった。

真崎まさきさん、こんにちは」

 ティルト・リクライニング車椅子に座って片足を動かしていた真崎様は、きらきらした瞳で高橋を見つめる。

 真崎光子みつこ様は、ここのご利用者様だ。要介護5で、終始おむつ対応。認知症状は重く、自分のこともわからない。2日起きて2日眠る生活を送っている。

 起きている日は、目をらんらんと輝かせ、独語ひとりごとを発する。そのボリュームはすさまじい。

 他利用者様からクレームが来ると、真崎様は相談室に移動させられてしまう。

 今日も朝から全力で独語を発していたから、異動させられてしまったのだろう。

「真崎さん」

 高橋は真崎様に手を差し伸べる。

 真崎様は、獲物をとらえるかのように、高橋の手を強い力でつかんだ。

 真崎様は力加減ができない。自分の手をつかんで表皮剥離をしてしまうほどだ。

 高橋は何気なく真崎様の前腕を見てみた。手首に新しい内出血がある。

 試しにアームカバーの着用を検討しても良いかもしれない。今度のカンファレンスで提案してみよう。

「真崎さん、私もここにいさせて下さいな」

 真崎様の返事は「はい」だった。

 真崎様は、頬が柔らかく、ふくふくとしていて、ほんわかした雰囲気がある。ひたいも広く、若い頃は美人だったのだろうと想像できる。以前面会に来た息子さんも、真崎様の頬を触っていた。

 人生の大先輩に“可愛い”と言うのは失礼だが、やはり可愛い。子どものような可愛らしさではなく、個性が可愛いのだ。

 高橋は相談室のテーブルに、記録に必要なものを広げた。

 デイ記録の書類、古村様の連絡帳、食事摂取量表、バイタル測定表、入浴チェック表、利用者様一覧など、使うものはたくさんある。

 バイタル測定表を見ると真崎様のBPが赤ペンで書かれていた。

 KTは体温、BPは血圧、Pは心拍数、SPO2は動脈血酸素飽和度。

 これらの数値が高い利用者様は赤ペンで記録し、時間をおいて再検する。

「真崎さん」

「はいっ」

 真崎様は元気良く返事をした。

「血圧を測らせて下さいな」

「はいっ」

 内出血のない手首に血圧計のベルトを巻き、測定する。

 結果は、BP 150/94 P 60。

 惜しい。非常に惜しい。

 BPの上が150以上だと再検の対象になる。

 逆に言えば、149以下であれば再検の必要はない。

「真崎さん」

「はいっ」

「はしゃぎ過ぎです」

「はいっ」

 また時間をおいて測り直すしかなさそうだ。


 高橋は始めに、古村様の連絡帳を書いた。

 バイタルと本日のご様子を記入し、印鑑をす。

 「尺八のボランティアがあり、演奏と一緒に歌われていました」と書いてしまったが、本当に歌っていたか不安になってホールへ見に行った。

 尺八のボランティアの人は、60代後半くらいの男性ひとりだ。

 今までも何度か来てもらっていて、ご利用者様に人気がある。

 今は「みかんの花咲く丘」を演奏している。古村様は演奏と一緒に口ずさんでいた。

 高橋は、連絡帳に嘘を書くことにならなくて安心した。

 しかし、不安要素はすぐに見つかる。

「萩野さん」

 高橋は小声で、しかし鋭く萩野を呼んだ。

「なんで甲田さんに写真撮影をさせているんですか」

 応援で来ている甲田が、利用者様の間に入ってボランティアの様子を撮っている。

「甲田くんがやりたいって言ってたから。俺がみんなの間に入っていったら、邪魔になっちゃうじゃん」

 確かに、巨体の萩野が車椅子と車椅子の間に入っていったら、ご利用者様がそちらに集中してしまう。何とかの巨人の寸劇みたいなことになって、利用者様は尺八そっちのけで楽しんでしまうかもしれない。以前、別のボランティアが来たときに似たようなことがあったから、萩野は自粛しているようにも見えた。

「甲田さん、すみません。ありがとうございます」

 近くに来た甲田に、高橋はお礼を言った。

 甲田は首を横に振った。

「いえ、いいんです。皆様、素敵な表情をなさるんですね」

 甲田は爽やかな笑顔で、デジカメの画面を高橋に見せてくれた。

 演奏と一緒に歌うかた、拍手をするかた、涙ぐんでいるかた……普段は見ることのできない、ご利用者様の様子がとらえられている。体が動かない清瀬きよせ保雄やすお様は、顔を真っ赤にして大粒の涙を流していた。決して、誤嚥していたわけではない。

「ふたりも撮ってあげようか?」

 萩野が大真面目に訊いてくる。

 高橋も甲田も、声を揃えて言い切った。

「結構です!」



 高橋は記録の続きを書こうと、相談室に戻った。

 しかし直後、「ぎゃー!」と不細工な声を発してしまった。

 真崎様が記録に手を伸ばし、紙をぐしゃぐしゃに丸めていた。

 高橋は紙を奪取し、広げた。入浴チェック表だった。しわを伸ばせば提出できるだろう。

「真崎さん、駄目です! めっ、でございますよ」

 高橋は真崎様に顔を近づける。

 すると、真崎様は「ははっ」と笑った。

 記録を書き進めていると、真崎様が歌い始めた。

「かのやまー」

 記録に集中していた高橋は、何事かと顔を上げる。

「かのかわー」

 真崎様は自分の世界が強いが、耳が良い。尺八の演奏が聞こえるようだ。

 歯は一本もなく、食事はペースト、全介助、意思疎通不可。

 そのような真崎様は、唱歌の「故郷ふるさと」が耳に入ると、自分から歌い始める。

 真崎様が外の世界と通じている唯一の瞬間だ、と高橋は考えている。

 こういう機会をもっとつくってさしあげたい。

 この職種になってから、高橋はそう思うようになっていた。

 ここに就職して良かった。介護職員になって良かった。

 こういう瞬間が嬉しいから、介護の仕事はやめられない。

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