ボーイミーツガールなどという良いものではない④
気が散るわけではないのに、記録は遅々として進まなかった。
デイサービスが終了する16時45分になっても記録は書き終わらなかった。
真崎様は独語全開で、車椅子を押されてシニアに戻る。
高橋が記録を書いている間、他の職員は、おやつの提供や食事介助、夕方のおむつ交換、体操をしてくれる。
デイサービスが終了すると、ご利用者様はシニアに戻り、17時に夕食を提供される。
リーダー以外の介護職員と看護師はシニアで食事介助、口腔ケア、就寝介助をする。
リーダーはデイに残り、記録を書き上げ、ホールの掃除をすることになっている。
高橋は17時半過ぎに記録を書き終え、掃除にとりかかった。
掃除機を使ったりモップをかけている間は、高橋は自分の行動を振り返った。
午前中、忙しさにかまけて甲田を気にしてあげられなかった。
休憩中のことはなるべく思い出したくない。
午後は記録を書くことに手一杯で、それ以外のことは何もできなかった。
今日の自分は、総じて良いところがなかった。
デイの入り口の重い扉が、がらがらと開いた。
「あっ……高橋さん」
ホールにひょっこり顔を出したのは、甲田だった。
「今日はお世話になりました」
彼は制服でなく私服で、斜めがけのリュックサックを背負わずに肩にかけている。
ホールの時計はすでに18時をまわっている。
「定時にあがるように指示が出たんですけど」
甲田は、事務所でデスクワークをする国友を気にするように声を小さくする。
「もう少し、手伝っても良いですか?」
高橋は断ろうとした。
しかし、このまま帰らせても良いものか――仕事面でなく、気持ちの問題で。
甲田にしっかり謝りたかった。
パニック発作を起こす変な人だと思われたくなかった。
このまま有耶無耶に終わらせたくなかった。
叶うなら、次につながる何かが欲しかった。
「じゃあ、テーブルを拭いて頂けますか?」
高橋がお願いすると、甲田は嬉しそうに頷いた。
一転の曇りもない、爽やかな笑顔だった。
テーブル拭きはすぐに終わってしまった。
甲田は時計を見て「やばい」と呟いた。
「すみません。俺、帰らなくちゃ。お先に失礼します」
彼はぺこりと頭を下げ、きびすを返す。
高橋はなにも行動に移せていない。
「待って」
申し訳ないと思いつつ、甲田を呼び止めた。
「迷惑でなかったら、お願いします。未だ、話し足りないことがあるので」
メモ帳に走り書きして、切って差し出したのは、無料通信アプリのIDとメールアドレスだ。
甲田は振り返り、メモを受け取ってくれた。
「ありがとうございます。では、また後ほど」
慌ただしく去ってゆく彼の、ボストンバッグでオレンジ色が揺れる。高橋には、シンプルなブレスレットに見えた。
認知証サポーターのオレンジリングかな。どこかで見たことがある。
高橋は記憶を手繰り寄せるが、すぐに思い出せない。
「高橋氏、良いんでねえの?」
国友が時計を指差す。
「早く帰って、返事してやれば?」
彼女は、にやにや笑っている。
そんなんじゃないですよ、と高橋は頬を膨らませた。
仕事は終わった。退勤できる。
萩野も看護師の平井も来たところで、高橋はタイムカードを押した。
「おつかれさまでした。失礼します」
仕事中は良いことがなかった。
でも、もしかしたら、これから良いことがあるかもしれない。
ほんの少しだけ、期待してみる。
【「ボーイミーツガールなどという良いものではない」終】
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