それでも、ケアをさせて頂きたい④
ふと気になって想像してみた。
ご利用者様は眠っている間に、どんな夢を見ているのだろうか。
15時のお茶の時間が近くなってきたので、散歩は清瀬保雄様で最後にする。
高橋瑠衣は、清瀬様のティルト・リクライング車椅子を押して公園の周りを一周する。
最後の曲がり角で後藤の姿が見えた。
「後藤さん」
声をかけると、後藤も高橋に気付いてくれた。
「高橋さん……ですよね」
「はい、高橋です。3月から、よろしくお願いします」
「こちらこそ、お世話になります。……また、お会いしましょうね」
後半の言葉は、清瀬様に向けられたものだった。高橋が清瀬様の顔をのぞきこむと、、発語はないが金歯を見せてにこにこ笑っていた。
後藤の姿が見えなくなるまで、高橋と清瀬様は後藤を見送った。
「清瀬さん、後藤さんて良い声していますよね。耳が幸せになると思いませんか?」
清瀬様は、難しい顔になってしまった。
大木が言っていた“童顔バリトンボイス”は、確かに良い声をしていた。
でも高橋は、甲田とか、声優の何某の声の方が好きだ。
「おつかれさまでした」
早番の定時である16時半に、大木は退勤する。そのとき、ご利用者様や日勤の職員にも挨拶をしてくれた。
「あばよっ、ねえちゃんっ!」
「島谷さん、また明日!」
高橋は、島谷様と挨拶を交わす大木を見て、以前より明るくなった、と思った。
脆く壊れそうな雰囲気は、もう感じられない。
日勤者は、17時から18時の1時間で食事介助、口腔ケア、就寝介助を行う。
いつものように10分ほどオーバーして、就寝介助まで終了した。
タイムカードを押して、ロッカールームで帰り支度をする。
私服に着替えてロッカールームを出るが、すぐには帰らない。
「あれ、瑠衣ちゃん? どうしたの?」
「しーちゃんを待っていたのです」
「えっ……」
甲田が戸惑っている。何を想像しているのやら。
「この本、1年くらい前に短大の後輩からすすめられて読んだのですが」
高橋は、家から持ってきた本を出してみせた。『橙の輪』という短歌集だ。
「この写真、しーちゃんのリュックと酷似していると思いまして」
「絶対に違います!」
写真を見ないうちに、甲田は否定した。
「しーちゃん、後ろを向いて下さい。内林さん、二重確認をお願いします」
甲田には背中を向けてもらい、たまたま近くにいた内林をつかまえて、見比べてもらう。
本の写真と、甲田の斜めがけリュック及びオレンジリングを。
「うそ……同じじゃん!」
内林は目を見開いて驚いている。
「ですよね!」
「……もう帰って良いですか?」
甲田は、ばつが悪そうに、わずかに眉をしかめる。
内林は時間を確認して「保育園にお迎えに行かなくちゃ」と一足先に帰っていった。
「しーちゃん、ごめんなさい。調子に乗ってしまって」
いや、隠すようなことじゃないよ。怒ってもいないし……帰ったらLINEで話すから」
「えへへ、すみません」
おつかれさまでした、と声をかけ合い、それぞれの自宅へ帰る。
明日も同じ業務の繰り返し。それでも、少しずつ変化を出して、飽きないような日々をつくってゆく。
ふと気になって想像してみた。
ご利用者様は眠っている間に、どんな夢を見ているのだろうか。
きっと、自分の足で歩いたり走ったり、思い切り笑ったり、大きな声を出したり、頭を働かせて仕事をしたり。
朝起きれば、不自由な生活が待っている。
夢で思い通りになった分、絶望してしまうかもしれない。
そうにならないように、楽しんで生活して頂きたい。不自由を少しでも忘れて、お腹の底から笑って頂きたい。
「今も悪くない」と思って頂きたい。
狭くなってしまったご利用者様の“世の中”のために、働きたい。
世間の介護のイメージは、良いものではない。
給料の安さ、重労働、人手不足、汚い仕事。
しかし、それだけではない。やりがい、感動、達成感、小さな幸せ、そういったものもあるのだ。
介護の仕事の良さを伝えて、広めて、世の中の介護のイメージを良くしてゆきたい。
呑気だと思われるかもしれないけれど、まずは自分が良い介護職員を目指して、気持ち良く働く。
労働環境の改善も、忘れては困るけれど、自分がそういう介護職員になって、そういう介護職員が増えていくことを願ってやまない。
高橋の考え方は変わらない。
介護の仕事が好き。
世の中のために働きたい。
高橋は、赤信号で止まったとき、何気なく車の窓を開けた。
梅の匂いだろうか。まじりけのない、春の香りがした。
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