歌を忘れたカナリア②

 東京都出身であることが、彼女達の誇りである。

 東京の四年制大学を卒業し、都心の名のある企業に入社し、公私ともに充実した生活を送っていることが彼女達の自慢である。

だから、彼女達は許せないのだ。

 クラスメイトの中に、田舎の大学を出て田舎で就職し、東京で立派な仕事に就くも、また田舎に戻った裏切り者がいることを。



 帰りたい。

 大木は早々に居心地の悪さを感じていた。

 季節は、夏。梅雨明け目前といわれる7月上旬。

 大木がいるのは、東京の二子玉川駅近くにある居酒屋チェーン店。

 “女子会”と称して集まったのは、高校生のときのクラスメート。

 メールでお呼びがかかり、大木は一度断った。無料通信アプリの友だち申請も来たが、拒否した。

 すると、実家に連絡が行った。クラスメートの中に、母親同士が昔からの知り合い、という子がいる。ただし、大木とは全然親しくなかった。その子の顔をつぶさないためにも、と母が大木に無断で参加の回答をした。

 母の気持ちはわかるが、大木には不本意だった。

 大木は母に敵わず、渋々“女子会”に参加した。

 しかし、世間で言うところの女子会ではないことはすでに予想がついている。

 これは、大木を吊るし上げるための集まりだ。

 女子のリーダー的な子が、乾杯の音頭を取った。

 皆、ビールのグラスを軽くぶつけ合う。

 大木は「ハンドルキーパーだから」と理由をつけ、氷水のグラスを少しだけ掲げた。

「大木さん、お酒飲めば良いのに」

 離れた席の子が、声を張り上げた。

「英語の授業で、“何々すればいいのに”って“何々しなさい”って訳したよね」

 別の子が「懐かしいね」と頷く。

 大木は、暗に飲酒を強要されていると解釈できた。

 大木は酒も飲むし、少しは煙草も吸う。しかし、今日はどちらもやらないつもりでいた。

 女子達は、大木をペースに巻き込むつもりでいる。ペースに乗ってしまったら、おしまいだ。畳みかけるように責められるだろう。

 彼女達はひとまず、高校の思い出を語り始めた。

 校則への不満、先生の悪口、男子生徒を見下す発言、当時読んでいた漫画、授業中にゲームの通信対戦をしていたこと。

「当時はスマホがなかったから、今思うと不便だったよね」

 大木はそれだけは同感した。しかし、頷くようなまねはしない。

 校則への不満はなかった。

 先生にも良くしてもらった。3年生のときの担任は大木に否定的だったが、学年主任は味方でいてくれた。特に、進学の際は背中を押してくれた。

 男子は馬鹿なことをよくやっていたが、迷惑をかけるようなことはしなかった。

 漫画は読まず、ゲームもしなかった。

 大木は当時、オタクと呼ばれる部類にいた。

 地味な人、特に文学を読むイメージのある人はオタクと卑下されていた。

 大木はこっそり介護関係の本を読む傍ら、詩集も読んでいた。それが周囲に知られることになっても、「イメージと事実が変わらない」と醜聞になることはなかった。

 詩集は、むさぼるように読んだわけではない。子どもの頃に親しんだ童謡や唱歌の歌詞を正しく知りたいから読んでいたのだ。いつか介護の仕事をして、歌詞を間違えないようにしたかった。

 今はほとんど本を読まない。読むものは、新聞と空気と行間だ。

「大木さん、未だ本なんか読んでるの?」

 訊かれ、大木は「読まない」と答えた。

「大木さん、図書館で働いていたよね? この間、大木さんのお母さんに電話して知ったんだけど、図書館辞めたんだって?」

 楽しそうに声を張り上げる女子。周りは「うそー」「もったいない」と反応を示した。

「私も何回か見たよ、大木さんがカウンターで本の貸し出しをしてるとこ。の大木さんだから似合ってるなーってほれぼれしながら見てたけど。辞めちゃったんだ」

 それ、褒めてないよね。

 大木は心の中で批判した。



 2年ほど前まで、大木は群馬県の特別養護老人ホームで介護職員をしていた。

 しかし、母に連れ戻され、半年くらい図書館の臨時職員をしていた。

 母は大木に公務員になってほしかったそうだ。その願いは大木の妹にシフトし、素直に公務員を目指していた妹は、今年の春から市役所に勤務している。

 妹は、表裏のない素直な子だ。

 本当は介護職でいたい大木を、飾りのない言葉で後押ししてくれた。



『お姉ちゃんは介護をやってよ。

 私は、お姉ちゃんが介護現場で働いている話を聞いて、公務員として社会福祉の仕組みを支えたいと思うようになったんだよ。

 お姉ちゃんが介護の仕事を続けてくれないと、私も張り合いがなくなっちゃう』



 妹の言葉は、なぜか母の心に届いた。

 母は大木に、介護職を辞めろと言わなくなった。

 相変わらずストーカー気質で思い込みが激しく、面倒くさい母ではあるが。



「ねえねえ、大木さん。聞いてる?」

 耳元で叫ばれた。

 大木も仕事では、耳の遠いかたの耳元で声を大きくするが、それとは異なる鋭さがあった。

「大木さん、昔より落ちぶれたよね。昔から落ちぶれてたけど」

 皆、大木に注目している。大木の反応を確認している。

「なんで介護なんかやってるの? 図書館を続けてれば良かったのに。うちらだって説得するほど暇じゃないんだよ」

 何それ?

 大木さんがかわいそー。

 言葉とは裏腹に彼女達は騒ぎ立てる。

 近くのテーブルの客が、迷惑そうにこちらを見ている。

 大木は現実逃避のつもりでそちらを見た。

 男性客4人。多分、大学生くらい。そのうちのひとりは、少し年上そうな雰囲気がある。本当に少しだけ。2、3学年くらい上の先輩のような感じだ。

 じろじろ見るのも失礼なので、大木はあたまを現実に戻した。

「大木さん、なんでうちらのこと無視するの? そういうの良くないよね?」

「そうやって職場の人もいじめてるんでしょ? 性格悪いねー」

「これだから田舎の大学を出て田舎で就職した人は」

「進む道を間違えたね」

「生まれたときから間違えてたんじゃない?」

 大木、総無視。

 だが、次の言葉は聞き捨てならなかった。

「私にはわかんないんだよね。介護みたいに程度の低い仕事が楽しいのかな?」

 ――介護みたいに程度の低い仕事。

 このフレーズがナイフのように刺さった、気がした。

 彼女達はフレーズに反応し「私も超気になってた」と同意していた。

「家政婦レベルの低い仕事にやりがい感じてるってこと?」

「なにそれ。変態じゃん」

「変態! うけるー」

 彼女達は心底楽しそうに笑う。

 近くのテーブルの男性客は、今も“女子会”を見ている。

 お願い、見ないで。あなた達が気にすることはないから。

「ねえねえ、大木さんも何か頼んだらどう? 会費払ってくれたんだし」

 大木の前にメニューが突き出される。氷水の入ったグラスが押されて倒れた。

「ちょっと、大木さん何やってんの。マナー悪いよ」

 周りの子達はおしぼりを広げ、水を大木の方へ寄せる。テーブルから押し出された水は、大木の膝に落ちた。

 その間に、ひとりが店員に何かを注文した。大木には、アルコール類に聞こえた。

「ねえ、大木さん。転職する気ない? 紹介してあげるよ」

 大木は反射的に言ってしまった。

「ないよ。お構いなく」

 そこから、堰を切ったように彼女達の攻撃が始まる。

「何言ってるの? 馬鹿じゃん」

「大木さんのために言ってあげてるのに、無下にするの?」

「いい加減、うちらの顔をつぶすの止めてくれない?」

「先生もこの間嘆いてたよ。卒業生の中に、大木さんみたいな程度の低い人がいること」

「つうか、くその処理した手で触んな。うちらが汚れる」

 大木は、冷静に感じた。入れ食い状態だな、と。

 まともに話を聞かなくて良かったと安堵していると、利き手に痛みを感じた。

「あっ、ごめん。そんなところに汚い手があると思わなかったから」

 ビールの追加注文をした子が、ジョッキを勢いよく大木の手の甲に叩きつけたのだ。

 大木が表情に出さないように耐えていると、それは2度3度繰り返された。

 痛い、と言いそうになったときだった。

 あのテーブルの、先輩のような男性が立ち上がったのは。

 しかも、彼はこちらに歩み寄って膝をついた。

「すみません」

 低い声が“女子会”に割り込んだ。

 女子達は、不意を突かれたように男性を見る。

 その人が近くにいたことに――もしかしたら、近くのテーブルにいたことも気付いていなかったのかもしれない。

 近くで見ると、瞳の大きい童顔。それなのに、声はバリトン。

 大木はそのギャップに驚いた。

 男性はにこりともせず、バリトンボイスで言葉を紡ぐ。

「盛り上がっているところ大変恐縮ですが、彼女を責めることと、介護職を侮辱することを、やめて頂けませんか」

 彼女、と言ったとき、視線が一瞬だけ大木に向いた。

 女子達の目の色が変わった。

 何こいつ、と言いたそうな、敵意の色に。

 女子のひとりがわざとらしく首を傾げた。

「あのー、大木さんのお知り合いですか?」

「違いますよ」

 男性は、さらりと答えた。

「ですよねー」

 女子は悪意たっぷりの笑顔をつくる。

「じゃあ、引っ込んでもらえます? うちら、女子会楽しんでたところなんで」

「そうですか」

 男性は、良い声で相づちを打った。

「でも、俺達も打ち上げを楽しんでいたところなんです。介護施設での実習が終わって、『疲れたね』『でも、充実したね』『頑張って介護福祉士の資格取ろうね』って夢へ向かって鼓舞していたところで、介護職員と介護の仕事を侮辱されて、黙っていられるとでも」

 男性のいたテーブルからひとり、明らかに大学生な青年が来た。やめなよ、と男性に声をかけるが、男性は気にする風もない。

「俺ひとりなら侮辱されようが全然構わないんですよ。でも、ひたむきに介護の仕事をしていそうな女の子と、将来の活躍が期待される学生を前にして、知った風な非難をされるのはいかがなものでしょうか。無神経ではないでしょうか」

「えーっと、仰る意味がわかんないんですけど?」

 女子は、バリトンの調子にひるまない。

「ていうか、無神経なのはそっちじゃないですか? ずけずけと偉そうに説教してくるし、大木さんなんかをかばうし。大木さんとは関係ないんですよね?」

「ないですよ」

 男性は、あっさり否定した。

「でも、元・介護職員が現役介護職員をかばって、何が悪いんですか」

 女子達が一瞬、静まり返った。

 その一瞬の間、大木の脳内に疑問符が浮かんだ。

 介護職員だったの? それなのに、今は学生? 学校に入り直したのか?

 大木が考えていたことと、女子達が思っていたことは違った。

「あのですね、うちらは悪いことしてませんよ? 大木さんには現実に目を向けてもらう良い機会だし、学生さんにも世間の生の声を知ってもらえるし、一石二鳥じゃないですか?」

 そう言った子は、すでに酔っている。酒にも、自分にも。

 別の子が、店員からグラスを受け取っていた。

「ジン・トニック、3人分来ましたー……あー」

 店員が低い位置で出してくれたジン・トニックを、受け取った子は持ち直して立ち上がった。

 そのグラスが180度傾いた。

 ジン・トニックの雨が、大木に降り注ぐ。3杯分、ライム付きで。

「大木さーん! コントじゃないんだから、察して逃げないと!」

 笑い声と手を叩く音が大木の耳にこだまする。

 集団で逃げ場をふさいで、馬鹿にして、けなして、おとしめて、制裁を加える。

 彼女達がそんなつもりでいたことは、大木にも最初からわかっていた。

 でも、少しくらい理解してもらえるかもしれないと期待してしまった。

 期待した自分が愚かだった。

 彼女達に弱みを見せたくなかった。

 逃げたくない。泣きたくもない。

 しかし、どちらか実行しないと、大木は壊れてしまいそうだった。

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