不真面目な王様と有能な彼女
輝く宝石。
着飾る姫君。
夕焼け。
咲き誇る花々。
空に輝く月と星たち。
綺麗だと思えるものは世界に溢れているし、日々はうつくしいものとの出会いで満ちている。
それが全て幻だと思うようになった。
――この世で一番うつくしいひとに、彼女に出会ってしまったから。
大陸屈指の大国である南国アルシザスの王になったのは、ほんの数年前こことだ。父が死んでしまったので――なんて順当な話ではなく、堕落した父は十年前叔父に殺され、その叔父は女にのめり込んで国を傾けた。だからカルヴァは叔父を殺し、空いた玉座に座った。内戦といっていいその日々のなかで、この世の汚い物を見尽くしたと言ってもいい。
正統な王位継承者であることなどアルシザスでは問題ではない。なんせ身内同士で争い幾度となく王の血脈は変わっている。誰が正統かなどと考えるのも馬鹿馬鹿しい。
人間は綺麗な生き物じゃない。
人間は欲にまみれた汚い生き物だ。
そう思って人間不信になり気味だったのは、即位してしばらく続いた。
信じていた者にもいつか裏切られるかもしれない。いつか生まれる我が子に殺されるかもしれない。疑心暗鬼になって誰かを信じるなんてとてもじゃないが出来なかった。
それが一変した。
世界が光を取り戻した。
その人は唯一思い通りにならない人だった。
どんな女も国王という立場だけで簡単に甘えてきた。媚を売るその仕草に吐き気がするくらいに慣れたものだった。
女なんて口説けば皆、喜んで擦り寄ってくる。そう思っていた。
「これほどうつくしい人は見たことが無い。太陽も月も、貴女の前では霞んで見えてしまうな。貴女のお名前を聞いてもよろしいか?」
手を差し出し、慣れた口調でそう問いかけた。
相手はお世辞にも綺麗なんて言えなかった。髪は少しの乱れも無く一つに纏められ、この南国では病的だと思えるほどにきっちりと露出の少ない質素なドレスを着ている。
「……」
彼女は無言だった。むしろ冷ややかな目でこちらを見ていた。
「こら! きちんと陛下にお答えしないか!」
彼女を紹介した大臣が慌てたように彼女を急かす。するとようやく、大きな瞳が真っ直ぐに自分を見た。
「いかにも見え透いたありきたりの口説き文句だったので、馬鹿馬鹿しくて答える気にもなりませんでした。無駄な口をいちいち開かないでくださいますか、陛下」
大臣がみるみるうちに青くなっていくのが視界の隅に見えた。
「お、おまえはなんていうことを!」
「黙れ」
慌てて彼女を叱り始めた大臣を短く黙らせる。
彼女の声を途切れさせたくない。今まで聞いたどんな音楽よりも綺麗な響きだった。
「――失礼。では名前を聞かせてもらえるかな。有能なお嬢さん」
いつものような甘い響きはない。緊張で口の中がからからに乾いていた。
「有能かどうかはこれから判断してください。……エネロア・カルゼンと申します、陛下」
「エネロア」
ぴったりだと思った。
甘く、可愛らしく、うつくしい名前。
「ではよろしく、エネロア。君は今日この場を持って私の秘書官だ」
それが、彼女との出会い。
ようは――単純に言ってしまえば、一目惚れだった。
*
隣国からやってきた彼女は、大臣の紹介を得て私の秘書官を務めることになった。アルシザスにおける地位はなくとも隣国では貴族の端くれになるらしい。しかしエネロアの立ち居振る舞いは高貴な姫君にも劣らないほど凛としてうつくしかった。
「陛下、こちらの書類にサインをしておいてくださいと言いましたよね?」
「……エネロアがどうしてもと言うのなら頑張ろうかな」
未だ処理の終わっていない書類の山を前に首を傾げて微笑んでみせても、彼女には通用しない。
「――陛下」
エネロアの声が低く響く。
怒っているな、と苦笑しながら机に向かう。束になった書類に次々とサインを書きながら、何気なく問いかける。特に深い意味なんてなかった。
「エネロア、この世で最もうつくしいものはなんだと思う?」
彼女は一瞬だけちらりとこちらを向いて、すぐにまた仕事を始める。
「一概には申し上げられません。美的感覚は人それぞれですから」
模範解答のようなそれに、くすりと笑う。相変わらず、生真面目を絵に描いたような人だ。
「では、エネロアは何が一番綺麗だと思う?」
「考えたことがありません。でも、そうですね……朝焼けは綺麗だと思いますよ」
ああ、赤く染まるあの空を、エネロアもうつくしいと思うのか。
青空も当然ながらうつくしい、と思うがそれが移ろい赤く染まる時は確かに格別だ。
「夕焼けではなく?」
けれど赤い空、というのであれば一般的に二つある。わざわざ朝焼けというのには意味があるのだろうか。
「確かに色彩は似ていますけど、一日の始まりと終わりでは始まりの方が綺麗だと思えます」
「なるほど? 考え方の違いだな。私はどちらでもうつくしいと思えるが」
くすくすと笑っていると、早くサインをして下さいと急かされた。抜かりない。
「……陛下は、何が一番綺麗だと思うんですか?」
珍しくエネロアの方から話を始めた。それが嬉しくてまた笑っていると、何故か睨まれる。
「エネロア」
「何です?」
「だから、エネロアだ」
「……?」
分からないと言いたげに彼女は首を傾げた。頭は良いのにこういうところでは鈍感なのだ。
「私にとって一番はエネロア・カルゼンだ。君がこの世で一番綺麗だ」
その姿形だけでなく、その心までも。不正を許さず、揺ぎ無く、誇り高く、凛とした存在そのものが。
彼女はしばらく無言のまま、固まっていた。脳に言葉が届くまでにいつも以上の時間を要しているらしい。
「……何をおっしゃるかと思えば……お世辞は嫌いですと言いませんでしたか?」
「お世辞ではなく本気だから言っている。君にこれ以上嫌われたくはないしな」
軽薄な男は彼女がこの世で最も嫌う部類の人間だ。そして今まで装ってきた自分がまさにそれだった。
「それは勘違いですよ、陛下。人間はこの世で最も汚い物ですから」
ああ――その意見には賛成だ。
珍しく意見があったと微笑むと、エネロアは睨んでくる。よく睨まれるのはなぜだろうか。
「それをそう言い切れてしまう君が、私は綺麗だと思うんだよ。勘違いというのは失礼ではないかね? 美的感覚は人それぞれだと言ったのは君だ」
悔しそうに、彼女は言葉を詰まらせた。
ああ、意外に――いや、予想通り、負けず嫌いらしい。
「やっぱり、陛下は変なんですね」
「一国の王に向かって堂々とそう言える君は潔くて美しいな」
「……頭は大丈夫ですか?」
「心配には及ばない。正常に機能しているとも」
君の姿も見えてるし、君の声もきちんと聞こえてるからね。
そう言ったらエネロアは呆れたように黙り込んだ。何を言っても無駄だと思ったのだろう。
「秘書官など辞めて玉の輿に乗るつもりはないかい? 一生苦労はさせないよ?」
「謹んでお断りいたします。真面目に仕事をしない男と結婚するつもりはありません」
「君からのご褒美の一つでもあるなら世界征服できるくらいに頑張れるのだがね?」
「冗談はいい加減にしてください」
苛立った――というよりも、困惑した彼女の腕を掴む。
これだけは訂正しなくてはいけない。
「冗談なんて一つもない。君に関しては、ね」
男慣れしていないのだろう、彼女は顔を真っ赤にして黙り込む。その様子が可愛らしくて、いとおしくて掴んだ腕を離せなくなる。
そんな彼女の顔を見るのが好きで何度も何度も甘いセリフを囁いた。
どれもが本当に本気だった――残念なことに、今ではすっかり慣れてしまったようだが。
*
「――愛してるよ、エネロア」
そして今日も暇を見つけては彼女を口説く。
大抵時間にすると深夜か朝日も昇らない朝方だ。残念なことに二人きりになれるのがこんな時間帯しかない。もちろんベッドのなかなどではなく執務室でお互い仕事をしたままだ。
由緒ある貴族の馬鹿共が北国の姫君……に扮した王子を巻き込んだ一件も無事に解決した。王子は美しい騎士と共に帰国してしまった。今頃は北の大地で相変わらず進展したりしなかったりしているのだろう。そのうち手紙でも書かねば。同盟の件についてそのうちまた来てもらわねばならないし、そのついでにでも。
「そういうことは机の上に溜まっている仕事を片付けてから言ってください」
「君を考えていると仕事も手につかないんだ」
「では私は退出しますので」
「そばにいないと尚更だ」
「そばにいてもやらないでしょう」
「君の美しさが眩しくて書類なんて見えない」
陛下、と彼女が低く呟く。
ああ、そろそろ限界か。
もう何年も毎日のように繰り返しているやり取りなので引き際は完璧だ。
「――それで? 君は新しい書類を持ってきたんじゃないのかい?」
「……机の上に置いてあります」
ありがとう、と囁いて大人しく机に向かう。
「喉が渇いたな。何か持ってきてくれるかい?」
「かしこまりました」
口説いた後の彼女は普通よりぎこちない動きになる。それを見分けられるのはおそらく自分だけだろう。
くすくすと笑いながらエネロアを見送る。
また徹夜になってしまいそうだ。彼女も無理に付き合う必要はないというのに、仕事だと言って付き合ってくれる。肌に悪いだろうに、彼女のうつくしさは以前よりましている。
「エネロア」
ちょうど部屋から出ようとしている彼女を呼び止めた。
「今から真面目に仕事をするから、後で一緒に朝焼けを見よう」
「……書類の山を一つは片付けてくださいね」
彼女は振り向きもせずにそう言って、部屋から出て行く。
分かりやすい照れ隠しに、もう一押しかなと苦笑する。
「さて、やらねばな」
目の前の書類を手に取り、一度伸びをする。
たまにご褒美を要求しないと、どこぞの国の王子よりも進展が遅い。
君が世界で一番綺麗だという朝焼けを見ながら、世界で一番綺麗だと思う君を見つめよう。
夜明けは、もうすぐだ。
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