02:お願いがあるんだけど


 それは、とある昼下がりのことだった。アドルバードが休憩をかねてお茶を飲んでいたところで、妹はやってきた。


「ねぇ? お願いがあるんだけど」


 にっこりと、それはそれは誰もが見惚れるほどの可愛らしい笑顔を浮かべた妹にアドルバードは嫌な予感しかしなかった。咄嗟に逃亡を考えたものの、逃げ道はリノルアースの背後の扉のみである。

「……お、おまえが俺を兄と呼ぶときはろくでもないことを考えているときだって決まっている」

 お兄さま、と猫撫で声で呼ばれたときの背筋が凍るような感覚はこれまでの体験に基づくものだ。本能が全力で逃げろと警告を発している。

 じりじりと後退するアドルバードを見て、リノルアースぷっくりと頬を膨らませた。

「ひどい言い草ね。アドルったら可愛い妹をそんな風に思っていたの?」

「まずおまえの過去の所業を振り返ってくれ」

 いったいどれだけアドルバードがリノルアースに苦しめられてきたか。両手でも数えきれない。

「だって……頼れるのはアドルだけなんだもの……大事な兄妹、半身みたいに思っていたのは私だけなのね。アドルは私の貞操なんてどうでもいいのよね」

 憂い顔でそう零したリノルアースに、アドルバードは顔を赤くしたり青くしたりと大忙しだった。

「ててて……!? 馬鹿おまえ何言ってんだ!」

 未婚の女性からさらっと出てくる言葉ではない。少なくともごく普通の姫君ならば恥じらって口にも出せないはずだ。

「ずっと一緒にいた可愛い妹っていってもそこまで大事じゃないのよね。私はアドルのことを半身みたいに思っているけど、私の独りよがりってことよね」

「おまえはその大事な半身を常に危険な場所へ放り込んでいると思うんだが」

 演技がかったリノルアースの仕草に頭も冷えてくる。アドルバードが呆れたように言い返すと、リノルアースは悲しげに目を伏せた。

「ひどい……私はいつだってアドルのことを思って……」

 青い瞳からぽとりと落ちる水滴は偽物ではない。いやでも騙されるな、あいつなら涙くらい自在に流せるぞ、と考えつつもちくちくと良心が痛む。

 リノルアースの涙にぐらつくアドルバードの心の内を見透かすように、レイが呆れるような顔でアドルバードを見ていた。やめろ、まだどうにか持ちこたえているだろ。

「アドルが迷惑しているなんて思わなかったの、ごめんなさい……もうやめるし……今回のことも自分でどうにかするわ」

「えっ……い、いや別に相談くらい……俺にできることならなんだってするし」

 ぐすぐすと泣きながら部屋を出て行こうとする妹の後ろ姿に、ついつい甘い兄の顔が出てしまった。

「……ほんと?」

 潤んだ瞳で見上げられて、「もちろん」とアドルバードは安請け合いしてしまった。このときレイが小さくため息を吐き出したことに、残念ながらアドルバードはこれっぽっちも気づかなかったのだ。

「本当だって。何があったかくらい――」

 言ってみろよ、と言った瞬間、アドルバードは表情を凍りつかせた。

 つい先ほどまでしくしくと泣いていたはずのリノルアースが、にっこりと微笑んでいた。涙のあとなどどこかへ消え去るくらいの、晴れ晴れとした笑顔だった。

「男に二言はないわよね? 

(しまった、やっぱりこれは聞いたらいけないタイプの話だった……)

 前言撤回を見逃してくれるような妹ではない。それは十五年、一緒に成長してきたアドルバードが痛いほどよく知っていた。


「ちょっとね、めんどうな招待状が届いていて」


 心底めんどくさそうにリノルアースは顔を顰めた。リノルアースの美貌は近隣諸国ではかなり有名で、近年はあちこちから求婚がひっきりなしに申し込まれているらしい、ということはアドルバードも知っている。今回のそれもその類だろうか。

「めんどう?」

 首を傾げるアドルバードに代わり、隣にいたレイがリノルアースの差し出したその件の招待状を受け取った。先に中身を確認したレイは、珍しく眉を寄せる。

「……ああ、なるほど。これは確かに」

 めんどうですね、とレイが言うほどならばよほどのことだ。

「どんだけなんだよ……」

 不安になってレイが持ったままの招待状を覗き込む。そしてアドルバードはその差出人に気づいて「は?」と間抜けた声を出した。

「アルシザス? あのアルシザス? なんでまたそんなとこから招待状なんて届いてんだよ!?」

 リノルアースのもとに届く招待状や求婚はせいぜいハウゼンランドの近隣の国からのものだ。しかしアルシザスは遥か南の大国である。大陸中央の砂漠を越えた向こう側、行くとなれば砂漠を渡るか海路を使うかしかない。港のないハウゼンランドにとってはどちらも気軽に行けるような国ではなかった。

「私の美少女っぷりがそこまで知れ渡っているってことじゃない? アルシザス王は無類の女好きって有名だし」

 遠い北国の小国とはいえうつくしい姫君がいるともあれば黙っていられなかったのだろう、とリノルアースは己の顔を謙遜することもなくけろりと美少女と評した。

「読んだからわかるだろうけど、アルシザスに来てみないかってお誘いなのね。さらによくよく読んでみればわかるけど、遠回しの求婚じゃないかって感じなの。だってそもそもうちの国に興味があるならアドルを招待すればいい話だし」

「……まぁ、そうだよなぁ」

 跡継ぎはもちろんアドルバードだし、外交となれば王子や外交官が務めるのが普通だろう。北方の国々では王女も王子とほぼ同等に扱われるが、未婚の姫――婚約者も決まっていない姫が国外へ出ることはそうそうない。あるとすればそれこそ婚約に関わる場合のみ、だ。

「迂闊に行ってみたら押し倒されて既成事実作られて向こうの後宮に入れられる――なんて冗談じゃないもの。でも、なんの理由もなく断るのもまずいじゃない?」

「…………まぁ、そうだよなぁ」

「だから、招待を受けて私の代わりにアドルが行けばいいと思うの」

「…………まぁ、そうだよなぁ……ってなるわけないだろ!?」

 名案だと言わんばかりのリノルアースの笑顔にアドルバードは全力で否定した。

 ハウゼンランドには後宮制度はない。だが南国のアルシザスやその周辺にはごく当たり前に存在しているし、リノルアースの話はありえないものではない。アルシザス王が噂通りの女好きのクズならば。この常識はずれな招待状からして、噂はあながち間違っていないような気もする。

「おまえ宛の招待状だぞ!? 俺が行ってどうするんだよ!」

 断れば断ったでのちのち面倒なことになるだろうが、姫を招待したのに王子がやってきたりしたら――アルシザス王の怒りを買いかねない。

「あら。誰がアドルバードとして行けって言ったの?」

 リノルアースは何を馬鹿なことを、と微笑んでいた。アドルバードの背後でレイがやっぱり、と言いたげに目を伏せる。理解できていないのはアドルバードだけだった。

「……は?」


に、として行けって言っているのよ? お兄さま?」


 リノルアースが首を傾げると、ゆるく波打つ赤みがかった金の髪が揺れる。

(リノルの代わりに、リノルとして?)

 頭のなかで繰り返して、ようやくリノルアースの言葉を理解した。さぁぁ、とアドルバードの顔から血の気が消えていく。

「むむむ無茶言うな! 俺は男だそ!?」

「昔はよく入れ替わって遊んだじゃない? あれと同じよ」

「それもおまえが無理やりやったんだろ!? もう十五歳だぞ!? 入れ替わりなんて無理だろ!」

「どう思う、レイ?」

 リノルアースは黙って話を見守っていたレイに意見を求めた。幼い頃からこの双子と一緒にいたレイのことならば、アドルバードもリノルアースも素直に聞くことができる。

 レイはじっとアドルバードを見下ろして口を開いた。

「身長はそれほど差がありませんし、アドル様は小柄な方ですし、言うほど無茶ではないと思いますよ」

 それは非情なまでに現実をアドルバードに突きつける。声変わりはすんだとはいえ男としては高めの声であり、身長はリノルアースと数センチしか変わらない。双子なので顔もとてもよく似ている。つまり、入れ替わりは不可能ではない。

「主を売るなああああああ!」

 アドルバードが泣き崩れるのも無理はなかった。この場に味方はゼロだ。

「可愛い妹のためだもの。やってくれるわよね? アドル」

 なんでもするって言ったわよね? と暗に告げてくるリノルアースの表情は、アドルバードには悪魔の微笑みにしか見えなかった。



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