23:全部返り討ちにしてやるわよ

「男にキスされたってうれしくねぇんだよあの変態……!」


 たとえ指先とはいえ嫌なものは嫌だ。リノルアースに完璧に化けているときはいたしかたないと割り切れるのだが、カルヴァの前ではもう半分以上素の状態だ。向こうもアドルバードと認識してやっているわけである。……変態だ。

 カルヴァとのダンスのあと、アルシザスの高官たちへの挨拶を終え、しばし歓談してからリノルアース姫は少し疲れたので、と理由をつけて兄とともに一度下がることになった。ここ数日体調を崩していた、ということになっているので誰も疑う様子はない。その隙に入れ替わっていた状態を元に戻そうというわけである。


「文句はいいから早く脱いでよアドル。ルイ、あんたは外で待っていなさい。間違っても覗かないでよ」

「覗きませんよ……」

 死にたくありませんし、という言葉が語尾についているように聞こえるなぁと苦笑しながらアドルバードは侍女たちの手を借りてドレスを脱ぎ始めた。その隣でリノルアースも惜しげもなく衣装を脱ぎ始める。

「……いくら双子の兄とはいえ異性の前でそんなに景気よく脱ぐのはどうかと思うんだ妹よ」

「アドル限定だから別にいいでしょ。あんたに裸を見られたところでなんとも思わないし」

 常識的にはどうなのだろうとは思うが、アドルバードもリノルアースを異性として意識するわけでもない。優しい兄として着替えているリノルアースを極力見ないようには心がけた。こういう場合も非常事態だから仕方ないと言い訳できるだろう。

 コルセットを外すと呼吸が随分と楽になる。シャツに袖を通しながら侍女たちが化粧を落としていく。重たいかつらは外されて少し汗でしっとりとした髪に櫛を通された。

 女性と違って男の着替えは楽でいい。深緑色の上着を羽織ればアドルバードの準備はほぼ完了である。腰には形だけ――と見せかけた剣を、上着の内側にはいくつか短剣を仕込んでおく。使わずに済むならそれでいい。ちらりとリノルアースを見ると、彼女はまだ髪を結い上げて化粧を施している途中だった。

「先に戻っていいわよ。私はルイと行くから」

 双子揃ってのお披露目はもうすんでいる。会場に戻るときまでべったり張り付いていなくてもいい、と言いたいのだろう。

「会場の様子も気になるし――レイのとこに行きたいんでしょ」

「いやおまえのことも一応は心配している」

「だからルイがいるってば」

 それに、とリノルアースはドレスの裾を持ち上げた。彼女が履いているのは白い靴だが、アドルバードが履いたものとは違う。細いヒールが凶器のように見えた。

「知っている? ヒールで思いっきり踏まれるとけっこう痛いのよ?」

 リノルアースに自衛の術はないと思っていたのだが、もしかしたらそれはアドルバードの勘違いだったのかもしれない。にっこりと微笑むリノルアースはやはりどう見てもか弱いお姫様ではなかった。

「――それじゃあ先に戻っているから。気をつけろよ」

 念を押すとリノルアースは鏡を見つめたままため息を吐き出した。

「アドルは心配性すぎるわ。むしろ私が一人のところを襲ってくるなら全部返り討ちにしてやるわよ」

(本当に返り討ちにできそうだから怖いんだよなぁ……)

 アドルバードは苦笑しながら扉を開ける。すぐにルイと目があった。

「リノル様は?」

 真っ先にリノルアースのことを問いかけてくるルイにアドルバードは笑った。こういう役目を最優先する姿勢は姉にそっくりだ。血のつながりはないのに不思議なものである。

「まだ準備しているから、俺は先に戻るな。リノルのことよろしく」

「はい、アドル様もお気をつけて」

 一人で戻ることを心配しているのだろう。ルイに「大丈夫だよ」と笑いかけてアドルバードは一人で来た道を戻った。


 会場まであと半分くらいのところで、アドルバードはその気配に耐えかねて口を開いた。

「……もしかして、セルウスいる?」

 部屋を出てからというもの、かすかに気配を感じるのだが、向こうからは声をかけてくる様子がない。

「……念のため殿下の護衛につけと、陛下が」

 声だけが律儀に返ってきたが、姿を見せるつもりはないらしい。カルヴァもなかなか過保護だな、とアドルバードは苦笑した。ドレス姿のときでさえ囚われた屋敷から抜け出すことができたのだ、元の動きやすい格好で二の舞は踏まない。

陛下あいつの護衛のほうが重要だと思うんだけどな」

 狙われているのは第一にカルヴァで、第二にリノルアースだ。アルシザスの人間にとってアドルバードはぽっと突然出てきた人間に過ぎない。

「そちらには、殿下の騎士殿がおられますので」

「ああ、レイの腕は確かだけどさ」

 なんせ剣聖と呼ばれるハウゼンランド一の騎士に幼い頃から鍛えられている。アドルバードはもちろん、ルイですら勝てないだろう。騎士団の若い連中はかなりレイに揉まれているはずだ。

 会場が見えてきたところで、アドルバードは声の聞こえるほうをちらりと見上げる。

「もう大丈夫だ、ありがとな」

「――いえ」

 ふぅ、と息を吐き出してからアドルバードは会場へ入る。一人で戻ったアドルバード王子にも、やはりちらちらと視線は集まってきた。アルシザスにおいて未婚の女性はほとんど社交の場に出てこない。こうして会場にいるのは既婚者がほとんどだ。目があった夫人にアドルバードが微笑み返すと、嬉しそうに頬を染めている。

(こういう容姿が好きな年増って多いもんなぁ……)

 リノルアースほどでないにしろ、アドルバードは自分の容姿の売りを理解している。

 真っ直ぐにカルヴァのもとへ行くと、カルヴァはわざとらしくレイの腰を抱き寄せた。わずかにレイの眉が動いたのをアドルバードは見逃さなかった。

(我慢しているけど、レイはこういう野郎大嫌いだもんな)


「リノルアース姫はまだ休んでいるのかな?」

「ええ、やはり少し体調が悪いようで」


 にっこりとカルヴァに歩み寄りながら答え、そして迷いなくレイに手を差し出した。珍しく驚いたように目を見開くレイと、愉しそうに笑うカルヴァ。


「そちらのレディの顔色が悪いようですが、よければ少し外に行きませんか」


 レイはわずかに逡巡したあと、しょうがないな、と言いたげにアドルバードの手を取った。

 カルヴァが「ダンスに誘わなくていいのか」と言いたげな目をしている。それはもちろん、こんな機会はそうそうないだろう。二年前まではレイも貴族の令嬢として夜会に出ることはあったが、その頃のアドルバードはまだ子どもでダンスに誘うことはできなかった。アドルバードが誘えるような年齢になったときには、レイはドレスを脱ぎ去り騎士服を着ていた。

(だったらなおさら、こんなところでレイと初めてのダンスをしてたまるか)

 熱気に包まれた会場を出てすぐ、夜風を感じるバルコニーへ出るとレイの髪がふわりと揺れる。


「――その格好、びっくりした」


 綺麗だよとか似合っているよとか言うべき言葉は他にもあったが、一番に出てきたのはそんな言葉だった。

「申し訳ありません。リノル様からアドル様には言うなと言われていたので」

「いや、びっくりしたけどうれしい。綺麗だよ」

 するりとアドルバードの口から出てきた賛辞に、レイはくすぐったそうに笑う。その姿はとても男になんて見えない。

「……こんな格好で喜んでいただけるなら安いものですね」

「レイは綺麗だからどんな格好していてもいいけど、そういう格好は久しぶりだからなおさら綺麗に見える……髪も昔に戻ったみたいだ」

 髪が長かった頃、たいていは一つに結ばれていたのでこんな風に下ろしたままというのは珍しい。揺らめく髪を切り落としたあの日を思い出してしまうのは仕方ないだろう。

「アドル様が鬘が重いと言っていた理由がわかりました。重いですね」

「だろ? 髪ってそれだけ長いと重いよな」

 くすくすと笑いながらアドルバードは頷いた。

「ええ、ドレスも髪も正直邪魔ですね」

「……綺麗なんだけどな」

 ついぽろっとアドルバードは声に出してしまってから、だんだんと恥ずかしくなってきた。

(俺さっきから綺麗綺麗って言い過ぎだろ……!)

 あの軽薄なアホ王とまではいかなくても、もう少し気の利いた褒め言葉は出てこないものだろうか。

「アドル様は長いほうが好きですか?」

 レイが首を傾げて問いかけてくる。好きかどうかってレイのことは大好きですけど、とアドルバードは顔を赤く染めながら口籠もった。

「え、いや、別にレイなら短くても長くてもいいんだけど……長いほうが、好きかな」

「それなら、また伸ばしましょうか」

「えっ」

 思わずうれしそうに声を上げたアドルバードに、レイはくすりと笑う。

「長い髪は手入れも面倒ですし邪魔なんですけど……もう二年も男みたいに短くしていましたし、アドル様が喜ぶなら」

(いやもう、そういう可愛いことさらっと言うのやめてくれ……!)

 この短時間で何度アドルバードの心臓を壊すつもりなのか。

 アドルバードが顔を真っ赤にして言葉を探していると、会場から聞こえた何かが割れる音と、夜空を切り裂くような悲鳴が響いた。

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