26:勘違い、ですか

 すぐにその場は片づけられ始めるが、床に広がるおびただしい血の色は消えない。


「――陛下」


 その血の広がりを見下ろしながら立ち尽くすカルヴァに、エネロアがそっと歩み寄った。声をかけられたカルヴァは顔をあげて淡く微笑む。先ほどまでの冷酷な表情が消え去って、カルヴァは一人の青年の顔になった。

「ああ、エネロア。無事でよかった」

 いとおしげな声にも表情ひとつ変えず、エネロアは無言のまま手を振り上げると容赦なくカルヴァの頬を引っぱたいた。乾いた音が響く。

「なんですかあれは! 一国の王が! たかが秘書官のために命を投げ出そうだなんて! 馬鹿も休み休みしてください!」

 平手打ちを食らったカルヴァはいっそ清々しいほど楽しげに笑った。

「君は相変わらず手厳しいな。こういうときは『私を置いて死ぬなんて許さない』とか言って私の胸に抱きついてくれると嬉しいんだが」

「あなたが抱えた仕事を全部放り出して死ぬのは許しません」

 誰が後始末すると思っているんですか、とエネロアは目を吊り上げて怒っている。その光景にアドルバードはぽかんと口を開けて眺めていたが、アルシザスの衛兵や外交官たちは「また始まった」とでも言いたげに各々の仕事に戻っていく。どうやらいつもの光景らしい。

「ああいう場面では私なんてさっさと切り捨ててください。私とて覚悟はしています」

 無理難題を、と言いたげにカルヴァは苦笑する。愛しい女性を見殺しにしろだなんてできるはずがない。

「……私のために死ねると言うのかね?」

「……陛下のためではなく、国のためです」

 つんと顔をそらしたエネロアの反応にカルヴァはにこにこと嬉しそうに微笑んでいる。先ほどまでの殺伐とした空気が霧散していった。


「……アレのところに行ったら馬に蹴られそうだな」


 二人のやり取りを遠くから眺めながらアドルバードは笑った。和やかとは言えないが、張り詰めていた場がやわらいで呼吸が楽になる。

「大丈夫ですか、アドル様」

「うん? なにが?」

 レイが気遣わしげに問いかけてきたので、アドルバードは首を傾げた。

「……ああいう場を見るのは、初めてかと思いますから」

 ちらり、とレイの青い目が見たのは大きな血だまりだった。後処理でばたばたしていてそこまではまだ手が行き届いていない。遺体だけはすぐに運ばれていった。

「……ああ、うん、大丈夫だよ」

 剣の稽古をしているとはいえ、アドルバードが戦いの場に出るようなことはなかった。怪我を負った人が息絶える瞬間などは見たことがあったけれど、人が殺される、という場面は生まれて初めて見る。

 周囲にたちこめる血の匂いにも、耳の奥に残る最後の絶叫も、忘れられそうにはないが心に傷を作るほどのものでもない。想像していたよりもずっと、アドルバードは落ち着いていた。


「――そういえば、リノルは?」


 自分のことよりもリノルアースの方が心配だった。剣に触れるようなこともない彼女には、衝撃的だっただろう。くるりと周りを見てもその姿は見つからなかった。

「ルイが外へ連れて行ったみたいですね」

 落ち着かせるにもこの場に留まるのはよくないと判断したのだろう。

(それなら大丈夫かな……)

 リノルアースの性格上、何人にも囲まれて心配されると無理に強がってしまうだろう。ルイに甘えるなんてことはできないだろうけれど自分で自分を落ち着かせることくらいはできるはずだ。アドルバードは落ち着いてから様子を見て慰めればいい。

「……いやでもやっぱり俺も様子を見てこようかな」

 そわそわと落ち着かないアドルバードはリノルアースたちのあとを追いかけようかと悩む。さすがのリノルアースでも今回のことは堪えているかもしれない。

「ルイ一人で十分ですよ……むしろ少しは気を利かせてやってください」

 あんな光景を目の当たりにして参っているのだとすればアドルバードの過保護なまでの心配ぶりは鬱陶しいだろうし、そうでないとしてもせっかくの二人きりの機会を邪魔されたくはないだろう――と思うのはもちろんレイだけで、鈍感なアドルバードにはわからないのだろう。

「リノルが弱っているところにつけこんでルイが襲いでもしたらどうする!」

「そんな甲斐性があるなら苦労しないんですけどね。姉としてそれは万が一にもありえないと断言しておきます。たとえ弱っていてもルイに襲われるような人じゃないでしょう、リノル様は」

 わざと襲われて責任をとれと迫ることならありえそうだ、とレイは心のなかで思いつつも声には出さない。さすがにこの状況下でリノルアースにそんな元気があるとは思えない。

 ヒールは武器になるんだと見せつけてきた妹を思い出してアドルバードは「確かに……」と納得した。

(襲われる、といえば……)

 アドルバードは白い脚を思い出して火を噴くように赤くなった。

「……レイ。おまえ、さっきみたいなの他の奴でやるなよ」

 じとりと睨みつけながら忠告するが、いかんせん顔が赤いのでまったく迫力がない。

「……さっき……ああ、ナイフのことですか」

 一瞬レイは首を傾げて、レイはゆっくりとアドルバードの顔が赤い理由を悟る。

「……あんなこと、アドル様以外でやるわけがないでしょう」

(だからそういうのさああああ!)

 さらりとアドルバードだけが特別なのだと匂わせる言葉に一喜一憂させられる身にもなってほしい。

「さすがにドレスの下のナイフを取れだなんて、ルイにだって言いませんよ」

「いやおまえ、ルイじゃそもそも隠れるのが無理だろ……」

 レイよりも背の高いルイがいくらドレスの陰とはいえ身を屈めても隠れるのは難しいだろう。あの場でアドルバードだったから出来た、といえばその通りだ。

「ていうかさ、そういう言い方されると勘違いしそうになる」

 依然頬を赤く染めたまま、アドルバードは呟いた。

 主人として特別なのはわかっている。けれど、アドルバードとレイは幼馴染でもあるせいか主従なのか友愛なのか境があやふやになっているところが多々あった。

(……だから、わからないままなんじゃないか)

 レイの言葉ひとつひとつ、それは、主人へのものなのか、それともアドルバード個人への言葉なのか――わからなくて、アドルバードは素直に喜べない。

「勘違い、ですか」

「……そうだよ」


『……あなたに私が必要なんじゃない、私にあなたが必要なんです。私が私という――レイ・バウアーという人間であるために、あなたがいてくれなくては、困るんです』


 あの言葉の意味すら、まだ聞いていないのに。

 アドルバードが唇を尖らせて、レイから目をそらした。

「……私は、あなたにだけは嘘は言いませんよ」

 まるでアドルバードの心のうちを見透かしたかのようなタイミングで、レイが囁いた。

「どんな形であれ、あなたの傍にいられるのなら私はしあわせです」

 アドルバードはくしゃりと髪をかき上げて唸る。まるで、勘違いしてくれとでも言いたげな態度にじわりじわりと心が嬉しいと跳ね上がる。

(……さすがに、ここまで言われてわからないほど馬鹿じゃないんだけど)

「……どうしてって理由を聞いたら答えてくれるのか」

「アドルバード様がお望みならば」

 どうして、傍にいてくれるのか――いたいと望んでくれるのか。明らかに特別だとわかるそれらは、主従の範囲では少々手に余る。

「今は……っていうかおまえからは言うな。俺が言おうって決めたら言うから……レイ、今身長いくつだ?」

 アドルバードは隣に並ぶレイを見上げて問いかける。普段履かないヒールを履いているからだろうか……デカイ。

 つい先ほど、アドルバードに扮したリノルアースと並んでいる姿を思い出してアドルバードは眉間に皺を寄せた。

「身長ですか? ……一七〇センチくらいだったかと思いますけど」

「……おまえの背を越したら言う」

 レイの背が高いことが嫌というよりは、せめて自分が彼女と並んでも似合いだと思えるくらいに成長してからでなければ納得できない。身長も、精神的にも、まだまだアドルバードは相応しいとは思えなかった。

 幸いアドルバードの成長期はまだ始まったばかりだし、これからどんどん背が伸びるはずだ。遺伝的には問題ないはずなのだ。

「では私は何年待てばいいんでしょうね?」

「嫌味か? それ嫌味だよな?」

 ふて腐れたように唇を尖らせるアドルバードを見てレイが微笑む。


「……早く、伸びてくださいね」


 ――待っていますから。

 耳元をくすぐるように囁かれた言葉にアドルバードは撃沈した。


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