27:仕事しろ!!

 会場の外に出るまでは決してリノルアースのそれを見せないようにと自分の身体で隠しながら、小さな手を引く。本当は抱き上げてしまうほうが早いかもしれないがリノルアースの足取りは思っていたよりもしっかりしていた。たおやかな令嬢なら失神してもおかしくないが、リノルアースの強がりはこんなところにまで反映されてしまうらしい。

「リノル様、こっちへ」

 庭にある噴水の縁に座れるよう手巾ハンカチを敷く。リノルアースを座らせてからルイはその肩に自分の上着をかけた。寒いわけではないだろう。けれど、かすかに震える肩にルイはそれくらいしかできなかった。

 俯いたままのリノルアースの表情は、立ったままでは伺い知ることができない。

 噴水の水は月光を浴びてきらきらと落ちている。そのうつくしさに見惚れるような余裕はなく、けれども清涼な空気は肺に沁みこむような血の匂いを洗い流しているくれるような錯覚を覚えた。

「……大丈夫ですか?」

 ルイはリノルアースの足元に膝をつき、見上げるようにしてその顔を見た。うっすらとリノルアースの瞳が涙ぐんでいるのは見間違いではないだろう。

 まだ十五歳の女の子なのだ。愛されて守られて、今まで人が人が斬り合うような場面は訓練でしか見たことがないだろう。当然人が斬り殺される瞬間も、その断末魔も、知るはずのないものだったはずだ。知らないままでいるはずだった。


「……怖いですか?」


 ――怖かったですか、ではない。

 聡明なリノルアースは、その問いかけの意味にすぐに気づいてしまう。

 顔色ひとつ変えずに人の骨を砕き、人を斬り伏せる俺が。その剣で人を殺せる人間おれが――怖いですか、とルイは問いかける。


「怖くないわ。怖くなんかない」

 即答だった。


 ルイが思わず笑ってしまうほど、迷いなくリノルアースはきっぱりと答えた。その質問の意図を理解しているのに。

「……無理しなくてもいいですよ?」

 怖いはずだ。人を斬り伏せたあとで、まるでなにもなかったことのように微笑むことのできる自分が。怖くないはずが、ないのだ。

「馬鹿にしないで。それは私にもあんたにとっても侮辱よ。あんたの剣は誰のためにあるの」

 睨みつけてくる青い瞳に、ルイは自然とこうべを垂れた。

 こみ上げてくる感情は、喜びのようでもあって、真白の雪の上を汚してしまった罪悪感にも似ていた。


「――我が姫のために。リノルアース様」


 レイのように剣の誓いをたてたわけではない。けれどルイにとっての仕える主人はただ一人だ。この強くうつくしい姫君に、とっくの昔に身も心も捧げてしまっている。

 リノルアースは静かにルイを見下ろした。月の光はリノルアースを慰めるようにやさしく彼女を照らしている。

「私は、私のために振るわれるその剣を、拒んだりしないわ」

 毅然とした声にルイは微苦笑する。

 恐怖が消え去ったわけではない、それでもリノルアースはその目の縁に涙を溜めながら、一滴たりとも零したりしない。甘えてほしいとルイは願うのに、甘えてくれない。

 許されるなら、思い切り抱きしめて思い切り泣かせて、その涙を拭ってやりたいのに。


「守ってくれてありがとう、ルイ」


 ――本当の意味では、ちっとも守らせてくれないくせに、と思ってルイはやりきれなさを笑顔で隠した。



 翌日は、昨夜の騒動が嘘のような穏やかな日だった。


 けれどもアルシザスの事務官たちは後処理に追われている。本来ならば今日帰国の途につくはずだったアドルバードは、同盟の件で数日滞在が延長となった。

「意外に女性の好みは地味だと思っただろう? だがしかしエネロアは普段はああだが髪を下ろすとかなり印象が変わる。実はかなりの美人だ。禁欲的ともいえる普段の姿もまた良いが、出会ったときのドレス姿なんて女神のようで」

惚気のろけはいいから話し合い! 進めさせろ!」

 カルヴァから同盟について話をまとめよう、と呼び出されて赴いたにも関わらず、彼の口から溢れてくるのは同盟なんてまるで関係のないものばかりだ。アドルバードはもう何度目かになるかわからない軌道修正を図るが効果はなかった。

「まてまてそう焦るな。なぜ彼女を妃にしないかだって? 働く姿がうつくしいのに後宮に閉じ込めてしまってはその姿が堪能できないではないか。断じて相手にされていないからではないぞ。今はまだ秘書官という彼女を見守っているのだ。いろいろ訳ありでね、そう簡単にことが進まな――」

「人の話聞いてんのかこの野郎。同盟の件で話があるって言ったのはそっちだろ! なんで外交官もいなくておまえとルイだけなんだよ!」

 カルヴァの声を怒鳴り声で強引に遮る。そう、呼び出された部屋には本来いるはずの外交官も書記官もいなかった。

「男同士、恋愛話を楽しもうと思ってな?」

「仕事しろ!!」

 恋愛話なんてしている暇はないのだ。少なくともアドルバードは王子としての務めを果たすためにアルシザスに残っているのだし、一緒に帰る予定のリノルアースは暇を持て余して苛立っている。

「――かれこれ三十分似たようなやりとり続けてますよ」

 取り出した懐中時計を見ながら、はぁ、と呆れたようにルイがため息を吐き出す。

「おまえもなんとか言えよ!」

「なんとかって……一介の騎士になにを求めてるんですか」

 さすがにアドルバードのように国王相手に馬鹿だのアホだのとぽんぽん言えるはずがない。

「だいたい恋愛話って……そんなのものに俺を混ぜないでくださいよ。お二人でどうぞ」

 ルイが浮かない顔で戦線離脱を宣言すると、カルヴァは「むむ」とつまらなさそうに眉を寄せた。

「む? 君はあれだろ、リノルアース姫にあれなんだろ?」

(あれってもうちょいマシな言い方ないのかこいつは……)

 直接的に言うことを避けているにしても、もう少しうまい言い方があるだろうに、とアドルバードが叫び過ぎた喉を潤すために冷えた紅茶を飲む。その冷たさが叫んだあとの喉には気持ちいい。

「百歩譲ってそうだとして、俺には惚気るネタなんてありません」

「あったら俺が驚くわ」

 リノルアースに関して惚気られるような話なんて誰の口から出てきても驚くに決まっている。あの捻くれ者がそんな話題になりそうなネタを提供するとは思えない。

「アドル様も兄ならもうちょっとどうにかしてくださいよ……強がりってレベルじゃないですよ……」

 がっくりと項垂うなだれるルイに、アドルバードは心当たりがあって「あー」と苦笑する。昨夜、戻ってきたリノルアースは目は赤かったが泣いたような一切痕跡はなく、いつも通りに振る舞っていた。

「でもまぁ、リノルも昨日はレイを連れ込んで一緒に寝ていたみたいだから、もう溜め込んではいないと思うけど」

 レイもリノルアースの様子を察して昨夜ばかりはアドルバードよりも彼女を優先した。きっとリノルアースは存分にレイに甘えたのだろう。

「姉さんはアドル様の騎士でしょ……一応俺はリノル様付きの騎士なんですけど」

「年季が違うって。リノルは昔からレイに一番に甘えるんだから」

 リノルアースは、小さい頃から泣くのを堪える子どもだった。双子の兄ですら滅多に泣くところを見せないのに、ルイ相手ならなおさらだろう。レイが例外なのは、幼い頃から植え付けられた絶対的な信頼からだろうか。同性ゆえの気軽さからか。とにかく限界にはレイを連れ込んで泣きつくのだ。兄の出番はいつだって用意されていない。

「だからって……別に、泣くくらいしたっていいじゃないですか。怖いなら怖いって言っていいんですよ、無理に強がっているほうが痛々しいってなんでわからないかな」

「わかっているけど、それ以上に泣き顔を見せたくないのがリノル」

 彼女の強がりは標準装備だ。きっぱりと言い切るアドルバードに「ですよねぇ……」とルイはますます項垂れた。

 アドルバードとルイの会話にカルヴァは「ふむ」と興味深げに呟いた。


「……惚気ではないが立派に恋愛話になってるぞ?」


「し、しまったつい! 同盟しごと!」

 カルヴァの腹の立つ惚気なら全力で反発するところだが、妹のことでもあったのでついつい真面目に話し込んでしまった。これではカルヴァの思うつぼである。

「いやいや楽しくなってきたところだろう? 続けようではないか。面倒なことは優秀な外交官にまかせればいい!」

 さぁさぁと嬉しそうに話の続行を望むカルヴァにルイは鬱陶しそうに目を逸らしていた。


「――一体なんの話をなさっているんですか?」


 ひやりとしたその声は、楽しげなカルヴァに冷や水を浴びせるようだった。

「……エ、エネロア」

 さすがのカルヴァも冷や汗を流しながら振り返る。そこにはにこりともしないエネロアがカルヴァを冷ややかに睨みつけていた。その迫力にアドルバードも思わず姿勢を正した。

「真面目にやるとおっしゃったのはどの口でしょう。陛下、あなたの仕事はたんまりとたまっているんですが私がそれを片付けている間あなたは遊んでいらっしゃったんですか?」

「い、いや! 今まさに討論が白熱していたところで――」

「では詳しく内容をお聞きしても問題ありませんよね?」

(いや、問題あります)

 いたずらがバレた子どものような心境でアドルバードは心の中で答える。エネロアにはもちろん聞こえないそれも、カルヴァの表情を見れば彼女には一目瞭然だったらしい。


「真面目に、やって、ください」


 強調するように言葉を区切るエネロアに、カルヴァとアドルバードは小さくなって「……はい」と答えるしかなかった。


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