28:だから警戒しろって言ったんだよ

「だー……つかれた……」


 アルシザスでの滞在が延長されて数日。ようやくその日が終わると、力尽きるようにベッドに倒れ込んだアドルバードを見てレイが苦笑する。

「随分とお疲れですね」

 いつものレイなら行儀が悪いとか服に皺がつくからと怒るところなのだが、今日は大目に見てくれるらしい。夜着に着替える気力すらない。

「疲れたもうやだ帰りたい」

「明後日には帰れるじゃないですか」

 同盟の件はカルヴァがエネロアという見張りのもと真面目に話し始めるとなかなか長い話になった。外交官を交えてあれはこれはと話が広がり、もともとなんの準備もなかったアドルバードは話についていくので精一杯だ。けれどもカルヴァは手加減せずにアドルバードに話をふってくるものだから、アドルバードは気が抜けない。始終頭をフル回転させているようなものだ。脳に糖分が足りない。


「ほら、早く眠れるように着替えてください」


 子どもに言い聞かせるようなやわらかい声に、アドルバードはレイを見上げた。引き起こそうと伸ばされた彼女の腕を掴み、不思議そうに首を傾げるその瞳を見つめる。


 ――いつになったら、この人に相応しくなれるだろう。


 心も身体も、まだまだアドルバードが理想と掲げる姿には程遠い。それがよりアドルバードを焦らせる。カルヴァとのやりとりは自分の不勉強さを叩きつけられるようだった。

(まだ、全然ダメだ)

 たった二歳の年の差が途方もなく遠く感じる。


「……アドル様?」


 レイがアドルバードの顔を覗き込むように顔を近づける。長い銀の睫毛まで綺麗に見えるその距離に、アドルバードは頭が痛くなった。


「おまえな……もう少し警戒しろよ」


 ほんの少しどちらかが動けば唇が触れてしまうだろうというくらいの距離だ。常識的に考えて、異性としては近すぎる。腕が立つからだろうか、ときどきこうして、レイはおそろしいほど無防備になる。

「何を言うかと思えば……昔は私が添い寝しないと眠れない子どもだったじゃないですか」

 呆れたように零しながらレイはベッドに腰掛けた。子どもの頃の話を持ち出されて、アドルバードは跳ね起きて反論する。

「そ、それは本当に小さい頃の話だろ!? 俺はもう十五歳だぞ!?」

 確かに小さい頃はリノルアースと揃ってレイがいなくちゃ嫌だと駄々をこねるほど彼女に懐いていた。乳母や母が呆れるのも気にせず二人でレイの両手にひっついて離れないくらいには、べったりだったけれど――それももう何年も前に卒業している。

「もう子どもでないとおっしゃるなら、身長なんて気にしなければいいじゃないですか」

「気になるんだよ男としては!」

 くだらないプライドだと言われればそうなのかもしれない。けれどアドルバードは祖国でもどこでも、未だ「可愛らしい王子」という評価から抜け出せずにいる。


「いつもいつもおまえに守られて、助けられて、支えられて、俺はおまえになにもしてやれてないのに」

「……何度言えばわかるんですか」


 怒っているような、悲しんでいるような、そんなレイの声が落ちた。

「そのままでいいんです、ただ傍にさえいてくれれば。それだけで私はすくわれているんだから」

 ――守ることも、助けることも、支えることも、ただ私がやりたくてやっているだけなんだから。

 そう小さく告げて、レイはアドルバードの肩に額を押し付けた。レイが泣いているように感じた。泣かせてしまった。涙は流れずとも、レイは今きっと泣いているのだ。悲しいとか辛いとか、そういう感情ではない。だとしたらこの見えない涙の意味はなんだろうか。

 ただ、傍にいてくれと乞う彼女に、アドルバードはなにができるだろう。

悩んだ末にアドルバードはそっとレイを抱きしめた。傍にいる、と伝えるために。

 勇ましく剣を振るう姿は想像もできないくらいにその身体は細い。完全無欠にも思えるレイにも年相応の弱さがあって、彼女は巧みにそれに蓋をして隠してしまう。けれど時々、彼女が自らの弱さを押し込めた蓋が開いてしまう。開けているのは、きっとアドルバードだ。

「……言っておくけど、前言撤回はしないからな。早くおまえの背を追い越してやる」

「……どうしてそこまでこだわるんですか」

 拗ねたような声にさえ、アドルバードは頑なに意見を変えない。

「俺が俺自身に納得できないからだ」

「……一度言い出したら聞かないのは昔からですね。なら、私も言いません。女に言わせるような男ではないでしょう?」

 待っています、といじらしい答えにアドルバードは心臓を鷲掴みにされたように苦しくなる。いつだって主導権はレイにあるのに、時々こうして可愛らしくなるから凶悪だ。


「……と、いうことで。これはあくまで私を慰めてくださったと解釈しますからね? 異性と二人きりになるなとも言われておりましたし、そろそろ私は下がりますから」

「へ!?」


 あっさりと切り替えて腕の中から逃れようとするレイを、アドルバードは必死で食い止めた。

(まてまてまて!? こんだけいい雰囲気だったのに!?)

 もう少しこう、余韻を楽しむくらいはしてくれてもいいのではないか。いくらなんでも切り替えが早すぎないか。

「警戒しろとおっしゃったのはアドル様でしょう」

「確かに言ったけど!」

「アドル様の背が伸びるまではあくまで私たちは主従ですから、この体勢はおかしいと思うんですが」

「確かにそうなんだけど!」

 離れようとするレイをさらに強く抱きしめると、レイが困惑するようにアドルバードの腕の中でぽつりと呟いた。

「……まったく下心がないというのなら、私も譲歩しますけど」

(下心満載だけどさぁ……!)

 レイの言うことはいちいち正論すぎて反論もできない。しかし夜に男と二人きりになんてなるな、というのはつまりアドルバード以外の男に隙を見せるなと言いたかったのであって、そこにアドルバードまで適用されると辛い。せっかくのレイとの二人きりの時間が削られる。

(……ほんとに傍にいたいって思ってるのかこいつ)

 本当なら可能な限り傍にいたいと思うのではないか。少なくともアドルバードはそうだ。下心だってあるに決まっているじゃないか。だってアドルバードは、もうずっとずっと前からレイが好きなのだから。


「……おまえがそのつもりなら、俺にだって考えがあるぞ」


 ゆるりと拘束を解くと、レイは不思議そうにアドルバードを見てきた。 深い海のように青い瞳に自分の姿が映っていることに、アドルバードは満足気に笑う。

「アドル様?」

 なめらかな頬にそっと触れる。そのまま耳元まで撫でるように指を動かして、銀の髪へたどり着く。

「だから警戒しろって言ったんだよ」

 こんなときでさえ、レイは無防備だ。

 怒ったように低く呟いたあとで、問いかけようとしたレイの唇を塞ぐ。反射的に逃げようとするレイの腕を片手でしっかりと掴んだまま、頬に触れていた手を首の後ろに差し込む。さらりとした銀髪を撫でながら角度を変えて唇を貪った。


 年下だ、子どもだと侮っているからこうなる。アドルバードだって男なのに。お預けされればされるほど反動は強くなるし、我慢にも限界がある。

まだ何もしてないのに逃げられるくらいなら、逃げるための理由を与えてやる。

 唇にかかる吐息すら甘い。


 どん、と胸を押されて、ぬくもりが去っていく。

 目を開けると、レイが顔を真っ赤にして言葉を探すように唇を震わせている。あの唇にキスしたのか、とどこか冷静に思ったあとでアドルバードは我に返った。

(――しまった、やりすぎた)

「レ――」

 アドルバードが名前を呼ぶ前に、彼女は飛び出すように部屋から出て行った。頭の処理が追いつかなくて、物理的にアドルバードから逃げたんだろう。

 この程度で揺らぐような脆い信頼関係ではないけれど、アドルバードはベッドに横たわって天井を仰ぐ。


「あー……」


 やっちまった、と呟く声は虚しく寂しげに部屋に響いて夜の闇に飲み込まれていった。

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