29:やられたらやり返せ
リノルアースがそろそろベッドに入ろうかと思っていた頃に、レイは突然やって来た。
「……レイ?」
明らかに普通ではないレイの様子にリノルアースは何かを察したのか、すぐに夜着の上にガウンを羽織り、侍女にお茶の用意をさせる。ついでにルイを呼んだ。既にリノルアースが寝支度をしていたので彼は別室に下がっていたのだ。
「ちょっとアドルのとこ行ってきて」
「ええと……はい」
アドルバードの護衛であるレイがここにいるのだから、その代わりが必要だ。バーグラス卿が起こした一件は落ち着いたとはいえ、用心に越したことはないだろう。
ルイはただならぬ様子の姉が気になったようだが、何も言わずにそっとアドルバードの部屋に向かった。
レイがおかしい。
普段の冷静な彼女は見る影もなく、顔は赤く染まったままその熱が冷める気配はない。こんな時間にどうしたの、と問うリノルアースにも口をぱくぱくさせて答えることが出来ずに困惑した目で助けを求めてきた。しかたないのでリノルアースはひとまず問い詰めることをやめて見守ることにした。
気分を落ち着けるために用意させたハーブティーはあたたかく、レイの強張った身体をほぐしていったようだ。
夜更かしは美容の敵だ。そろそろ寝ようと思っていたのにとんだ邪魔が……と普段のリノルアースなら怒るところだが、なんておもしろいネタが転がり込んできたのだろうと楽しみはじめている。
「……で? アドルに押し倒された? キスでもされた?」
ようやく落ち着いてきた頃に不意打ちのようにやってきた問いかけに、がしゃん、とレイの手の中からカップが落ちた。残りわずかだったお茶は適度に冷めていたので火傷の心配はなさそうだ。
「……図星ね」
どっちが当たったのだろう、とリノルアースは思いながらもあの兄に押し倒すほどの度胸はないだろうなと勝手に結論づける。
「ついにようやっと、というか……あの子も今までよく我慢したわねぇ……」
「ようやっとって……」
リノルアースは兄の所業に驚く様子はなく、むしろ感慨深そうにしている。
「アドルだって年頃の男の子なんだから、そりゃたまにはむらっとくることだってあるでしょうよ」
騎士団の男連中との付き合いもあるので、レイとて男性にそういう欲求があることは知っている。
「ですが、私の背を越すまでは主従でいると言ったのはアドル様で――」
「あらやだそんなこと言ったの? またまた見栄はって……理性が仕事しなかったくせに」
馬鹿ね、とリノルアースは呆れたように零しながらお茶を飲んだ。
「……だったらなおさら、就寝前に二人きりというのは問題あるじゃないですか」
独り言のように小さく零したレイに、リノルアースはやってられないとばかりにティーカップを置いた。中身は空になっている。
「いいからそろそろ戻りなさい。私はもう眠いの。このまま朝まで逃げたって明日には会わなきゃいけない相手なんだから」
嫌でも顔を合わせる相手だ。先延ばしにすればするほど居心地が悪くなるのは目に見えている。
「嫌だったっていうなら、横っ面ぶん殴ってやりゃいいのよ」
嫌でなかったときの対処法は教えてくれないまま、リノルアースは無情にレイを部屋から追い出した。
*
「……何しやがったんですか人の姉に」
ぼんやりと天井を見上げていたアドルバードの視界にルイが現れた。
「……ちょっと、理性がなくなった」
アドルバードを見下ろすルイの目が冷ややかになる。
「殴っていいですか? いいですよね?」
「殴られるならレイに殴られるわ」
拳を振り上げるルイにアドルバードはきっぱりと言い返した。ルイに殴れてやる理由はない。
「とてもそんな状態じゃなかったですよ、あんな姉さん初めて見ました」
走り去る直前、目があったレイは耳まで顔を真っ赤にしていた。普段から表情をあまり表に出さない彼女にはかなり珍しい。
「あー、あれ可愛いよね」
「可愛いよね、じゃないですよ。なんであんなことになったんですか?」
問いかけてくるルイに寝転んだままアドルバードは苦笑する。アドルバードが口を開きかけたところで、扉の開く音がした。
「――ルイ」
突然割って入ってきた声に、アドルバードは飛び起きる。
「レイ……!」
落ち着いたのだろうか、レイの表情は一見するといつもどおりである。
「姉さん、もう戻ってきたんですか?」
「リノル様から追い出されたからな、おまえも早く戻れ」
リノルアースは今ごろ既に眠っているかもしれないが、護衛としての役目が終わったわけではない。
「……そうですね、そうします」
ルイはわずかに迷いを見せたものの、レイの様子を見て納得したようだった。
「――ああ姉さん、アドル様は姉さんには大人しく殴られるそうですからどうぞ存分にやってください」
部屋を出る直前、思い出したかのようにルイは言い残して去って行った。
「……リノル様といいルイといい、どうしてこう私にアドル様を殴らせたがるんでしょうね」
(まぁ、殴られるようなことはしたしな……)
アドルバードとしても一発殴られるわくらいは覚悟している。むしろ殴ってから逃げられてもおかしくはなかった。
「今日は戻ってこないかなと思った」
「私に野宿でもしろと?」
リノルアースに追い出されたレイには行き場がない。ここがハウゼンランドならいくらでも逃げ場はあったが、ここはアルシザスだ。
「そういうわけじゃないけど……いでっ」
レイは何も言わずに拳骨をアドルバードの頭に落とした。
「な、なにすんだよ!」
不意打ちだったので思わず涙目になる。
「リノル様にもルイにも殴れと言われたので、とりあえず。手加減したんですが本気でやったほうがよかったですか?」
レイに本気で殴られたらたぶん顔が腫れる。さすがにそれは、と首を横に振りながらアドルバードはおずおずと問いかけた。
「えーと……嫌だった……?」
「論点はそもそもそこではなくて、アドル様が背が伸びるまではと条件をつけておいてああいうことをするのはおかしいでしょう?」
アドルバードの問いをばっさり切ってレイに正論を突きつけられる。
(……男としては嫌だったかどうかも正直すごく気になるんですけど)
だがそれを問いただせる雰囲気ではないことくらいアドルバードにもわかる。
「いやでもほら、恋人でなくても親しい間柄ならありえなくも――」
「友愛の意味なら文句は言いませんけど、そうではないでしょうしアレは友愛の範囲を超えてます」
「はい、ソウデスネ……」
弁解の余地もない。
がっくりと肩を落として、アドルバードはハッと顔を上げる。
「……って友愛なら他の男にされてもいいのか!?」
「なに馬鹿なこと言っているんですか。アドル様以外の男にあの距離は許しませんしそんなことがあれば蹴り倒します」
真剣な顔でレイが即座に否定してくるので、アドルバードは瞬間的に顔を真っ赤にして声を荒げた。
「だからっ! おまえは突然そういう心臓に悪いことをさらっと言うな!!」
手を出してはならない状況でこちらの理性を試すどころかぶち壊すことを言わないでほしい。
「
レイが不服そうに呟いているが、ただの人誑しと特定の人間限定で無自覚に誑かすのではどちらがより罪深いのだろう、とアドルバードはため息を吐いた。
「はぁ……もういいから、俺が悪かったし今後はちゃんと我慢するよ、そろそろ寝――」
さすがにあんなことのあとで着替えを手伝わせるわけにはいかない。さっさと夜着に着替えて寝ようと会話を終わらせようとしたところで、言葉が飲み込まれた。
唇に触れるやわらかなそれは、ついさっきも感じたぬくもりだ。
(――へ?)
ほんの一瞬触れただけのそれに、アドルバードは目を丸くする。
「それじゃあ私も休みますね、おやすみなさいませアドル様」
レイは何もなかったかのように立ち上がり部屋から去ろうとするが、アドルバードが何が起きたか理解してすぐに慌てて呼び止める。
「ちょ、レ、レ、レレレレレイ!?」
「なんですか?」
首を傾げるレイにアドルバードは食いかかる。
「おま、なんですかって……! ダメだって言ったのはおまえだろ!?」
「仕返しです。やられたらやり返せと教育されているので」
「んなっ」
(やり返せっていうのはこういうことには適用されないと思うんですけど!?)
不意打ちに動揺してアドルバードも頭が動かない。心臓がばくばくと鳴ってうるさいくらいだ。
「……そうですね、同盟の件がうまくいったらご褒美にもう一度してあげますよ」
くすりと笑みを残して、レイは隣の控えの部屋に下がった。アドルバードは呆然としてただただレイが消えていった扉を見つめている。
たった一枚の壁の距離が憎い。すっかり形成逆転されてしまった。
この機会を逃したら、チャンスが巡ってくるのはいつだろう。
あー、もう、とアドルバードはベッドに横たわって踊らされている自分におかしくなってくる。
「……がんばりますかぁ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。