18:覚悟してね?
その日から王宮のなかではじわじわと噂が流れ始めていた。
リノルアース姫の姿が見えない。
毎日国王と顔を合わせていたようなのにそれもぱったりとやみ、晩餐の席にも現れない。女官が部屋を訪ねてみても騎士に対応されるばかりで、姫を一目見ることはおろか、その声を聞くこともできていないのだという。
「リノルアース姫はご病気なのでは?」
とまっとうに案じる声もあるが、噂話のなかには不穏なものも混じり始めていた。
「――リノルアース姫が王宮にいないから、姿が見えないのでは?」
陛下が姫に無理やり迫って逃げられたのだとか、アルシザスの若者と恋に落ちて王宮から逃げ出したのだとか、好き勝手にリノルアース姫は物語のヒロインになっていく。
大半の人間は慣れない異国で体調を崩されているのだろう、と素直に受け止めていたが、物語的な噂は物珍しさもあって瞬く間に広がった。
そうして最後には誰もが言うのだ。
「それでは、夜会はどうなるのだ?」
レイが集めてきた噂話を聞きながらリノルアースは楽しげに笑った。
「どこの人間も噂は大好きよねぇ。好き勝手に言ってくれているわ」
もともとリノルアース姫は注目の的だった。くしゃみひとつですぐにリノルアース姫は風邪をひいたなんて言われてもおかしくないくらいだ。こちらからおもしろくなりそうなネタを提供すればこうなるのはわかっていた。
「これでレイの姿もなかったらきっと今頃は騎士との駆け落ち騒動になっていたでしょうね」
長椅子にだらしなく転がりながら笑うリノルアースが散らかしたものを拾い上げながらレイは「そうでしょうね」と相槌をうった。
リノルアース姫が病気にしろ王宮から逃げ出したにしろ、もともと夜会の主役であったリノルアースの注目は今やうなぎのぼりだ。リノルアースは現れるのか、現れたとしたら今まで姿を見せなかったのはなぜか、それを聞き出すチャンスは夜会しかない。
注目が集まれば集まるほど、誘拐犯はほくそ笑んでいるに違いない。彼らはリノルアース姫が王宮にいないと思っているのだから。夜会のその日まで、リノルアース姫が帰還するのをのんびり王宮の周囲で妨害すればいい。
そうして最もカルヴァの醜聞になりうる噂を真実であるかのように吹聴して彼の失脚の足がかりにする。おそらくリノルアース姫が国王に襲われたなんて言っているのは連中の仲間だ。
「夜会は明日ですよ、準備は大丈夫ですか?」
リノルアースは自分の容姿の価値を理解している。日頃から手入れは欠かさないが、夜会などの前は特に念入りだ。小さな花弁のような爪は丁寧に磨き上げて、白い肌には傷はもちろん少しの肌荒れも許さない。金色の髪はより艶やかに、ドレスや装飾品の確認も抜かりない。
「ふふん、誰に言っているの? レイ」
「リノル様ですね」
「確かめる必要があって?」
「わかっていても確認は必要ですよ」
「レイのそういうところ好きよ。アドル達は王都にもういるんでしょう?」
「そうですね、ただ王宮に入るのは明日になりそうです」
リノルアースは部屋から一歩も出ていないので、カルヴァとの意思疎通はほとんどレイを通している。リノルアースの出番は最初から夜会までないのでカルヴァに会わずともなんら問題はなかった。
「何事もなければいいんですけどね。アドル様はトラブルに巻き込まれやすい方なので」
レイが傍にいれば、危険には巻き込まれないようにそっと導くことができるし、たとえ予測不可能なことが起きても守ることができる。久々に丸一日以上顔を合わせていないという現状は、小さな不安も少しずつ膨らませていった。
「――本当にレイはアドルのことが大好きよねぇ」
笑いを滲ませながらもしみじみとリノルアースが呟いたので、レイはきょとん、と目を丸くした。そんなことを言われるような流れではなかったはずだ。
「……突然何を言い出すんですか」
レイは平静を装って、しかしリノルアースの顔を見てそれが失敗したことに気づかされた。弧を描くリノルアースの唇が何もかも見透かしているとでも言いたげだった。
「だってレイの頭の中ってアドルでいっぱいなんだもの。妬けちゃうくらい」
「どちらに妬いているんですか?」
半ば自棄になってレイが嫌味を零せば、リノルアースはころころと笑う。
「どっちにも」
潔いくらいきっぱりと即答されると、こちらも少し気分がよくなる。こういうときのリノルアースは裏がなくて素直だ。
「相変わらずリノル様は欲張りですね」
くすりと笑うレイの横顔を見つめながらリノルアースは「そうね」と微笑んだ。
「だから、私は逃がすつもりないの。覚悟してね? レイ」
不敵に笑うリノルアースを、レイは青い瞳でじっと見つめ返した。
「王族として生まれた以上は、生まれながらに背負っている責務がある。それは理解しているつもりよ? でもね、だからといって私は私やアドルの個人の幸せを放棄するつもりはないの」
ハウゼンランドの王家はそれほど身分にうるさいわけではない。けれど、本当にうるさいのは貴族の連中や、アドルバードを蹴落としてあわよくば王座に――なんて考えている公爵家の従兄弟たちである。現状、アドルバードはレイと結婚することは難しいだろう。だからレイは、結婚という道をはじめから諦めて主従をとった。
「アドルは誰がなんと言おうと王になるし、王妃になるのはあなたよ、レイ・バウアー。私が誰がなんと言おうともあなたを王妃にする」
迷いのないリノルアースの瞳に、レイは目を細めた。この双子は、ときどき眩しすぎて目が潰れそうになる。欲しいものを欲しいと素直に言えることも、汚れを知らぬほど真っ直ぐに信頼を寄せてくることも。
真っ白な雪原に太陽が現れたときのようだ。焼けつくような暑さはない。ただ肺腑に沁みてくるのは清涼な冷たい空気だけなのに、あちこちから太陽の光が反射して、目が眩む。
「――今回のわがままのそのせいですか?」
苦笑交じりのレイの問いかけに、リノルアースは笑みだけを返した。白く細い指を交差し、その上に顎を乗せてレイを見上げる。
「大国との同盟を持ち帰った王子の評価は上がるでしょうね?」
天使というか、小悪魔というべきか。 そんなリノルアースの微笑みはレイには通用しない。
「……本当にリノル様はアドル様に負けず劣らずの
一見、リノルアースのわがままとも思える今回の入れ替わりの目的はアドルバードの王子としての評価をあげるためだなんて誰が思うだろう。おそらく気づいているのはレイと、そんな無茶を許したハウゼンランド王くらいだろう。
きらきらと波打つリノルアースの髪にそっと触れながらレイは櫛で梳かしはじめた。癖のある髪はふわふわとしていてやわらかく、そのおかげで少し絡まりやすい。リノルアースは猫のように寝そべってされるがままだ。
「ふふ、
幼い頃からリノルアースは、自分のわがままのなかに巧妙に仕掛けを混ぜる。だからアドルバードは一向に真実に気づいていない。さすがに今回のことで気づくといいのだが。
「けれどリノル様、私とアドル様を結婚させるおつもりだと、自分の恋路も茨の道になりますよ」
レイはやめろとは言わない。けれど諭すようにやめておいたほうがいい、と告げてきた。おそらくアドルバードは気づいていないであろうリノルアースの恋心を暗に示して。
「ご心配ありがとう。でもレイ、自分が言ったことを忘れては駄目よ?」
レイの指摘はリノルアースだってとっくの昔に気づいている。きっと気づいていないのは男たちだけだ。
「私は、欲張りなの」
見上げてくるリノルアースの瞳は獲物を見つけたときの獣のようにきらりと輝いている。
「どっちも、諦めるつもりなんてないのよ?」
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