15:減るもんでもないのに

 脇腹の横に刺さったナイフを抜き取りながら、黒衣の男はすぐに表情を消して木の上から音もなくおり立つ。

「……まさか気づかれているとは思いませんでした」

「あんたらみたいな奴はうちにもいるし、気配を消してる人間には敏感なんだよ」

 アドルバードの傍にいるレイがまさしく普段から気配を消しているような人間なのだ。恋愛の機微には鈍感なアドルバードでも、そういうことには聡くなる。

 男からナイフを受け取りながらアドルバードは遠慮なく口を開いた。

「あんたら、俺のこと助けるつもりはなかったんだろ?」

 責めるわけでもなく、ただ確認するようにアドルバードが問いかける。そのセリフで男にもう一人いたことがアドルバードに知られている、と分からせるには十分だった。

「なぜそのように思われるのですか」

「俺があそこを出てすぐにあんたらの気配がした。ただ探していただけにしても早すぎる。屋敷の中にいたときから、目星をつけていたかいることに気づいていたかどっちかかなって」

 アドルバードが逃げ出した頃には既に屋敷の中は騒然としていた。外で様子を伺っていただけだとしても、それは伝わっただろう。

「――アルシザス王の指示?」

 アドルバードの問いに、男は答えない。沈黙は肯定しているのも同然だ。

(つまりあの野郎、俺が攫われるのも想定内だったし、利用する気満々だったってことだよな)

 深いため息を吐き出しながら、アドルバードは頭の中を整理する。カルヴァの思惑はおおよそ掴めた。これは確かに、リノルアース本人が来なくて良かった。あんなんでも可愛い妹なのだ。アドルバードのように護身術を身に着けているわけでも、ナイフを巧みに使いこなせるわけでもない。

「悪かったな、あんたらの計画を滅茶苦茶にして。でも男が大人しく囚われのお姫様やっていると思ったか?」

 嫌味を零しても、男は無反応だ。なかなか忠義な男である。

 少しずつ苛々しながらアドルバードは胸の前で腕を組んだ。情報をアドルバードには与えないつもりなのだろうか。この言い逃れができない状況で。

(あー……めんどくさい……)

 鬘をとって軽くなった髪をがしがしと掻きながらアドルバードは舌打ちをする。

「王宮まで俺を案内する気は?」

「向こうと連絡がつくまではなんともお答えできません」

 そうだろうな、とアドルバードは嘆息する。あと数時間もすればカルヴァのもとにアドルバードが逃げ出したことが伝えられるだろう。

「んじゃあ、向こうはどうなってるか知ってるか?」

「……それほど混乱はしていないようです。リノルアース姫がいらっしゃるそうで」

「は?」

 アドルバードは自分の耳を疑った。それほど混乱していないのならよかった、よかったんだが――。

「リノルが? へ? は? 本物?」

 目を白黒させるアドルバードに、男は若干憐れむようにもう一度繰り返した。

「……本物らしいです」

「なんであいつがアルシザスにいるんだよ! 俺の女装し損じゃねぇか!」

 あの妹のことだ、なぜかわからないがいるというのなら、いるんだろう。おそらくもとからこっそりついてくるつもりだったのだ。そしてアドルバードに気づかれずについてきたのだ。

(だったらなんで俺はわざわざあんなに苦労して前準備までしてここに来たんだよ! しかも誘拐までされて!)

 先ほどまではリノルアースが来なくて良かったと安堵したものの、さすがのシスコンでもこの理不尽に怒りは湧いてくる。

「あー……くそ……んじゃつまりはリノルアース姫はいなくなってないから、俺がすぐ戻ると混乱するってことだよな」

「……だと思いますが」

 なんだこの扱いは。もしや囚われのままのほうが丁寧に扱われていたんじゃないだろうか。

(でも、レイに謝らないとだし――)

 きっと生真面目な彼女のことだ。アドルバードが攫われたのは自分のせいだと思っているかもしれない。

(俺が油断したから悪かったのであって、レイのせいじゃないんだけど)

 アドルバードがそういっても、きっとレイは頑なに自分の責任だというだろう。そういう人だ。だから、早く帰らなければならない。

「……まぁいいや。追手は?」

「今のところその気配はありません」

 こういう質問には素直に答えるのか、と苦笑しつつアドルバードは立ち上がった。

「なら、もう少し進んでおこう。追いつかれたくない」

 追いつかれたところでアドルバードは少年の姿をしているわけだが、髪の色も目の色もリノルアースと同じだ。他人の空似といっても無理があるレベルで顔はそっくりだし、見つからないに越したことはない。

「で、あんた名前は?」

「……必要ないかと思います」

「呼び名がないと不便なんだけど」

「適当に呼んでいただければ」

 馬に跨りながらアドルバードは名前を聞き出すことを諦めた。

「あんたらみたいなのって秘密主義だよなぁ……」

 夜は更けていく。ここがアルシザスで良かった、とアドルバードは思った。たとえばハウゼンランドだったら、たとえ夏でも夜は冷える。シャツ一枚では風邪をひいたかもしれない。



 遡ること、数時間前。

 王宮ではルイがアドルバードのもとへ向かおうとしているところだった。

「のんびりしている暇なんてないんだからさっさとしなさいよ」

 荷物を確認しているルイに、リノルアースが急かすように告げた。なんだかんだでアドルバードが心配で仕方ないのだろう、とルイは解釈した。

「わかってますよ……着替えてからすぐに発ちます」

 下男の格好は動きやすさには問題ないが野宿になる可能性がある以上しっかりと準備はしておきたい。攫われたアドルバードは着の身着のままなのだから、救出後のことも考えるとこちらがある程度用意が必要だ

「……なのでリノル様、着替えますから部屋から出てもらっていいですか」

 ここはリノルアースのための部屋ではなく、その隣にある侍女や護衛のための部屋である。

「私がいて問題ある? お姫様の着替えでもあるまいし」

「むしろリノル様がお姫様なんだから問題なんだと思うんですけど」

 裸を見られたところで女性のように恥じらうわけでもないが、リノルアースにそんな姿を見せるわけにはいかない。レイに叱られるくらいじゃすまないだろう。

「ほら、出てってください」

「なによ、減るもんでもないのに」

 ぷくっと頬を膨らませながらリノルアースが出ていくのを見てルイは疲れたように肺の中の空気を吐き出す。シャツを脱ぎながらリノルアースの傍若無人っぷりにはすっかり参っていた。

「あ、ルイ」

「うわあああ!?」

 なんの躊躇もなく扉が開いて、リノルアースは顔をのぞかせる。

「リリリリノル様! 着替えてるって言ってるじゃないですか!」

「何女の子みたいな反応してんのよ。アドルを見つけたら渡してほしいんだけど……それ、傷跡?」

 封筒らしきものを手にリノルアースはまて部屋に入ってきた。半裸の異性がいて、仮眠用のベッドまであるようなところにどうしてそんなに無防備に入れるのかと頭を痛めながらリノルアースの視線に気づく。

 ルイの左の肩、というよりは肩甲骨の上のあたりには古い火傷のあとがある。

「これですか? 火傷ですよ。父さんに拾われる前にはあったらしいので俺も覚えてません」

「……痛くはないのね」

「痛くないですよ。乾燥していると、たまに痒かったりしますけど」

 物心つく前に負ったものだ。なぜこんなところを火傷したのか理由も知らないし、痛むわけでもない。

「ふぅん……それで、これ。アドルを見つけたら渡して?」

「なんですかその手紙」

「あのアホ王に用意してもらった招待状。これからアドルバード王子もくるって設定だから」

「ああ、なるほど」

 シャツに袖を通しながらルイは納得した。リノルアースは結局、用件が済んでも部屋を出るつもりはないらしい。それならもうこちらも気にせずさっさと着替えをすませてやる。上着を着て、その内側には短剣などの武器を仕込んでおいた。もちろん腰には剣を。

 普段着ている騎士服ではないが、下男の姿のときよりは上等な服だ。肩周りなど動きやすさを確認してルイの準備は完了した。

「それじゃあ……大丈夫だとは思いますけど、姉さんと二人で暴走しないでくださいよ?」

 いつものレイならそんな心配もいらないのだが、今はアドルバードがいないことで不安定だ。

「……悪いことにはならないと思うわよ?」

 しばしの間のあとでにっこりと笑うリノルアースに、ルイは嫌な予感しかしなかった。本当に大丈夫だろうか、と顔を引きつらせたが、リノルアースを前にしてそれは口にはできない。

「ねぇ、ちょっとそこに膝をついて」

「はい? 跪けってことですか?」

 くい、と袖口を引っ張られてルイは素直にリノルアースのすぐ足元で膝をついた。

「それで、なんです……っ」

 顔をあげたルイの前髪を、リノルアースの白い手がそっとかき分けて現れた額に柔らかな唇が触れた。リノルアースの唇である。

「…………へ?」

「……なによ」

 目を丸くしたルイを、リノルアースが少し照れ臭そうに睨みつけた。その白い頬がほんのりと赤いのはルイの見間違いだろうか。

「…………へ?」

「だからなによその顔。おまじないみたいなもんよ」

 ペチッとルイの額を叩き、リノルアースは腰に手をあてた。

 そこにいるのは、いつもの堂々としてうつくしいリノルアース姫だ。

「――いい? ちゃんとアドルと二人で戻ってきなさいよ」

 命令だからね、と念を押すリノルアースに、ルイは笑う。

「はい、リノルアース様」

 素直じゃない主人はこれでも自分のことを心配してくれているらしい。


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