遺品整理
何かしたい。
そう思ったのは受験生としての心構えとやらを受験生になる前から延々と言われ続けたからに違いない。
大学に進学する事がすっかり当たり前になってしまった今日、高校二年生でいられる一年間は何も考えないで自由に過ごす事の出来る最後の一年間であるはずだった。
四月に進級した時は何も考えずに遊んでやろうと思っていたのも束の間、始業式のその日に大学受験をする上でこの一年は大切な時期だと担任から脅され、そこから毎週のように模試があり、気が付けば一学期の終業式が終わっていた。
世の中にはとても多くの大学がある。
その中には何をしているのか全く分からないような学科もある上に果ては小学校でやるような分数の足し算やらを教えるという大学もあると言う。
専門学校も同様だ。
通った所で得られるスキルなんてものは知れていて、実際に少し働いて得られるようなものを数年間、高い金を掛けて買っているに過ぎない。
だから多くの人間にとって進学先一つで大きく人生が変わるなんてあるはずがない。
本当の意味でその先の人生を左右する程の意味合いを持つ決断を迫られる高校生など、ほんの一掴みもいないだろう。
おそらく自分は前者。
加えて、高校は義務教育ではない。
その気になれば学生なんてしがらみを捨てる事だって出来る。
それなのにそれをする人間がいないのは、自分も含めて担任の脅しをどこかで真に受けているから他ならない。
十年後には遅すぎた反抗期だったと自分で自分を笑うんだろうと容易に想像出来る。
それでも教師の必死の説得を振り切って、夏休み中にある高校の夏期講習を全て受講しないという荒業に出たのは担任の脅しがどこか嘘っぽく聞こえたというのもあるが、それでも何かしたいという気持ちが抑えきれなくなったからという意味合いの方が強い。
暑さで頭のネジが緩んでしまったのだろう。
教師陣の理不尽な顰蹙と引き換えにして文字通りの自由を得た一方で劇的に何かが変わるなんてドラマチックな展開はしかし、訪れなかった。
夏休み初日。
何をしようかとぼんやりと考える中、両親に連行される形で訪れた祖母の家で降って湧いたのが祖父の遺品整理だった。
ちょっとした資産を持っていた祖父が亡くなって三年、つまるところの三回忌の折に親戚が勢揃いして遺品整理を行う事になったのだ。
祖母がまだ健在で、祖父の遺言書には資産の諸々は祖母に託すと書いてあったのにも関わらず、祖母は今の内に自分が死んだ後の事を考えて遺産を配分してしまおうと言い出したのがきっかけだった。
「おい。あれはどこに行った」
「これは…捨てて良いだろう」
「ちょっと待って。要るから」
エアコンもないのに十人近くの人間が一つの部屋に集まってあれやこれやと話し合うのだから徐々にストレスが溜り、多くの親戚が苛ついていた。
掛軸はどうした。
壺もあるだろう。
土地の権利書はどこだ。
そんな物があったのか。
旧日本軍の秘密があるとか言ってなかったか。
そんなのはただの噂だ。
じゃあ明治の文豪の直筆原稿も噂か。
それならあそこにあるわよ。
ふとした拍子に発せられた一言で二、三人のいい歳のしたおっさん連中が群がり、そしてギャグかと思わせるくらい綺麗に互いに頭をぶつけた。
思わず溜息が出る。
遺品整理を始めてすぐに起きた金目の物の所有権を主張し合う醜態に辟易して、隣の居間に移動する。
そこは手伝いと称して集められた子供達の避難所兼祖母が担当する遺品整理の場になっていた。
戸を閉めると同時に一際大きな言い合いが聞こえ、うんざりしてしまう。
あんな大人にはなるまい。
避難所にいた子供達は一瞬、怪訝そうな顔をして静まり返り、祖母は顔に青筋が走ったと思ったらすっと立ち上がって今閉めたばかりの戸に手を掛けた。
戸を開けた先の醜い光景に祖母の表情が更に苦くなる。
「騒がしい! 全員で見つけたなら話し合いで決めな! 決まんなきゃどこぞに寄付するよ。隠れてるのがどこからか出てきたんなら私に言いな。見つけた奴に悪くならないように持ち主を裁定してやるよ」
祖母の一喝も虚しく、いい歳をした親戚たちは静まる事を知らない。
夏の暑さに加えて、もしかしたら目も眩むようなお宝が出てくるかもしれないという期待からヒートアップしっぱなしの空間をどうにかする事を早々に諦めた祖母が疲れたような顔で引き返してきた。
戸を閉めると気持ち静かになる。
祖母は定位置に戻ると、書類の整理を再開した。
上は成人して幾何か経つの社会人から下は小学校に上がったばかりの従弟達は隣で起きている遺品整理など気にも留めず好きなように過ごしている。
一台だけある扇風機の近くにひっそりと移動してぼんやりする。
テレビは子供向けの番組が流れていて見てもあまり面白いとは思えない。
かと言ってする事もないので、ぼんやりと部屋の壁を見渡す。
壁にはいくつもの写真や祖母がボケ防止に作ったという編みぐるみの数々が掛かっていた。
写真のいくつかを見ていく。
この間撮った親戚の集合写真では皆が笑っている。
孫を抱く祖母は相変わらずの表情だったが、鼻の下が伸びている。
家の近隣を空から撮影したという航空写真はいつ撮ったのかも定かではない白黒のものと自分が生まれるよりも少し前に撮られたというカラーのものが二枚並んでいる。
魚の編みぐるみは少し色褪せたように見えるし、その隣には最近作ったのか、鮮やかな黄色が映える虎が魚を見つめていた。
「基兄ちゃん、暑いから」
中学校に上がり、生意気の度合いに拍車に掛かる従妹の恵理に言われ、渋々ながら扇風機の前を退かざるを得なくなる。
「ばあちゃん。何してんの」
「見れば分かるでしょ」
あまりにも暇なので、もしかしたら何か出てくるかもしれないと期待しながら黙々と作業する祖母を観察する事にしたが、これもやはりあまり面白くない。
書類を出しては検め、そして脇に退ける。
ずっとこの繰り返しだった。
書類の内容は様々だったが、保険の契約書や家電の保証書などのものばかりだった。
そんな中、祖母がろくに見もせずに積もる紙の束とは別な場所に一枚の紙切れを置いた。
「それは?」
「見れば分かるでしょ」
見ても分かんないよと言って会話を広げるべきか、確かに見てみないと中身が分からないと納得して紙切れを覗き込むべきかという二択を天秤に掛けた結果、後者を選択する事にした。
紙切れは色褪せている。
綺麗な裁断面が見て取れる一方、手で千切ったような辺もあり、その上コンパスの針でほじって作ったような歪な穴が空いているなど、他の書類とは一線を画す物が大切に保管されている事が妙に引っ掛かった。
「ん?」
よく見ると紙切れには短く文章が書かれていたが、その意味はよく分からない。
不思議な紙切れだなと何の気なしに思いながら、紙切れを引っ繰り返した時、運命的なものを感じた。
「これ、捨てるの」
「ゴミだからね」
こちらに視線を向ける事もなく祖母が言う。
「捨てるくらいなら貰うから」
「基もあの人に似て変な所があるね」
祖母が呆れたように言ったのをスルーする。
「おばあちゃん、何してるの」
そう言って祖母に新たに絡みだしたのは妹の千誉だった。
「見れば分かるでしょ」
祖母の返事は相変わらずだ。
「じゃあこれから言おうとしている事、私の顔を見て分かる?」
小学生のくせに随分とませた言い方をする奴である。
「…分かんないね」
「でしょう? ね、おばあちゃん。お願いがあるの」
「言ってみな」
「あのね、畑を貸してくれないかな。自由研究でね、観察日記を作りたいの。野菜を育てて、出来た野菜がどんな味なのか調べたいの」
「面白そうだね。良いよ」
どれだけ仏頂面で肝っ玉が座っていても、千誉のお願いを二つ返事で引き受ける辺り、祖母が孫達にどれだけ甘いかが分かる。
「お父さん達、旅行に行くでしょ」
「一週間だっけ。千誉がこっちにいるのは」
「夏休みが終わるまでいるよ」
「楽しみだね。基も来れば良いのに」
「やっぱ行くわ。一週間だけお願い」
そこで一瞬の間があった。
え、来るの、というような視線が向けられる。
「あらま。珍しい事もあるもんだね。折角だから休みが終わるまでいれば良いじゃない」
「友達と約束があるから、一週間だけ」
「それでね、こっちに来た時に種をまいて夏休みが終わるまでに収穫できそうなのってある?」
会話を元にもどすと千誉は段取りを決めて行く。
「大体一月くらいか…小松菜なんか良いんじゃないかね」
「へえ、小松菜…ラディッシュは?」
自分の嫌いな野菜の名が出てきた事で顔を顰めた千誉がこっちを見て、余計な事を言うなよというような顔をした。
「あんだって」
「えっと、赤くて、小さくて…」
「二十日大根かい。それも良いね」
「それ! それ育ててみたい!」
祖母と千誉の会話を聞きながら、失くさないようにとポケットに潜めた紙切れを弄る。
向こうも早くに終わらないだろうかと視線を向けると、戸の向こうからそれならこれは家が貰っていくって事で良いだろうという声が聞こえてきた。
その一言を皮切りに、向こうの部屋が更にうるさくなってくる。
「今日は仕分けだって言ったのに…おや、もうこんない暗い」
祖母は立ち上がると戸を開ける。
「あんた達、いい加減にしな。子供達が飽きてるよ。今日は要る物と要らない物を分けるだけって話だったろう。どうして今から壺やらを持って帰ろうとしてるんだい。戻しておきな。それはまだ私の物だよ」
祖母の一喝を食らって、戸の向こうにいる大人達はしんと静まり返った。
「解散するから片付けな」
ぱんぱんと手を叩いて親戚を焚きつけてから、散らかり放題になった部屋から祖母が戻ってくる。
「私の目の黒い内に金になりそうなものを分配できれば妙な事にならないと思ったのに。こんなんじゃ先が思いやられるよ。死んでから遺産相続で身内が汚い争いなんかしてるって知ったら悲しいよ、まったく」
千誉は賢い。
この中で誰が一番偉くて、その人が何に弱いのかをしっかり心得ているのだ。
独り言なのか、あるいはこれから大人になる孫達に向けて言ったのかは分からないが、隣にいる妹が祖母の言葉を受けてがうんうんと頷いている。
それを見た祖母は眩しそうにしながら千誉の頭を撫で、それからすっと立ち上がる。
我が妹ながら末恐ろしいと思う一方でよくやったと褒めてやりたい。
祖母は引き出しから何かを取り出したと思ったら孫達に小遣いを渡し始めた。
「千誉は本当に良い子だよ」
「えへへ。ありがと」
千誉が満面の笑みを浮かべて言う。
「基も千誉を見習いな」
「へいへい。ありがとう」
憎たらしくも誇らしい妹を見習うのは少し難しいと思いつつもお小言と共に新たな紙を受け取る事が素直に嬉しくもある。
これ貰った。
お礼は言ったの。
また今度来るからね。
そんないつもの会話をしてから親戚達が帰路に着く。
暗くなり始めた帰りの道中、親が運転する車の中で一枚の紙を取り出す。
「何それ」
「何でも良いだろ」
千誉が興味を示したように言ったのを素っ気なくあしらうと、ふーんと言って窓の外に目を向ける辺り、単純に暇だから気まぐれに聞いただけなのだろう。
祖母がゴミだと言って捨てようとした紙切れ。
それを見て、高校生として自由に遊び尽くせる最後の夏にはうってつけだと思った。
子供じみてはいるが、これくらいの方が好みでもある。
文字を読むには難儀するが、その文章はすっかり頭に刻まれていた。
綻ぶ春 先祖一人が立ち尽くす 来たる秋を待つのだろう
どんな意味かまでは分からない。
紙切れを裏返す。
そこに書かれた一文の意味は明白で、そして暗がりの中でも輝いて見える。
宝の地図 孫に渡す
胸が高鳴った。
何かしたいと思っていた。
宝探し。
これだ、と思った。
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