彼女の名前

 退屈な一日を過ごすと、翌日はうっすらと雲が掛かっているものの、晴れ間も見えるくらいまで天気が回復していた。

 だからという訳ではないが、ダウナーな気分も少しは上昇傾向にある。

 雨上がりで畑がぬかるんで危ないという祖母の過保護な一声によって朝の土いじりは中止になったようで、起きると居間に祖母と千誉がいた。

「おはよう」

 祖母の挨拶に寝起き特有の擦れた声で返事をする。

 顔を洗い終えると食事の準備が完了していた。

 起きるのを待っていてくれたようだ。

 誰かを真似したような元気さでもって千誉がいただきますと言うと、祖母が静かに手を合わせた。

 同じように手を合わせて食べ始める。

「今日はどうするんだい」

 味噌汁を啜りながら祖母が聞いてきた。

 問われて考える。

 どうするんだろう。

 こっちに来て今日で五日になる。

 厳密な予定を立てている訳ではないから粘って数日こちらに滞在する事もできるが、それでもあっという間に高校生としての生活に戻らざるを得ない。

 一人でも宝探しを進めるべきなのは分かっている。

 だが、何をするのだという問題が残る。

 今しなければならないのは鉄治から話を聞き出す事だ。

 残る一枚の紙切れを手に入れないと詰みの状況は抜け出せない。

 これをクリアするにはどうあってもナツと咲の問題を解決しないと話にならない。

 一昨日のあれがあるというのにナツは大丈夫だろうか。

 咲は鉄治と険悪な仲になっていないだろうか。

 この状況で宝探しが無事に進められるとは到底思えない。

「どうするかなー」

 一通り考えて、曖昧な返事をした。

「千誉はどうするんだい」

「おばあちゃんと一緒」

「それじゃあ、少ししたら草むしりだね」

 さっさと朝食を食べ終えると、洗い物を押し付けて祖母と千誉が外に繰り出して行った。

 コマーシャルになったら洗い物に手を付けようとぼんやりと考えていると、チャイムが鳴った。

「まだ朝っぱらだって」

 ぼやきながら対応すると、チャイムを押したのは咲だった。

 いつもの短パン小僧チックな服装ではなく、デニムのスカートに深い緑のワイシャツという出で立ちだった。

 スカートを着用しているにも関わらずボーイッシュな雰囲気を残しているのが咲らしい。

「おじいが呼んでる」

 俯いて表情を隠そうとしている辺り、まだ不機嫌なのだろう。

 朝から鉄治にお使いに出された事に対する不満もあるのかもしれない。

「洗い物をしたらな」

 この咲とは話したくないと思い、とりあえず家に上げてから逃げるように台所に向かう。

 すると咲も付いて来て洗い物の手伝いを始め出した。

 驚いて咲を見るが、彼女はこちらと目を合わせる事はしない。

 日に焼けた髪とつむじが自然と目に入って来る。

 何も言わずに淡々と手を動かす辺り、会話をするつもりはなさそうだ。

 茶碗を手に取り、乾いたデンプンを落としていく。

 一昨日のだらだらしているところを見て、家事全般が苦手なものと思っていたが、洗い物をする手付きは意外にも手慣れている様子だった。

「ナッちゃんもおじいも何も教えてくれないの」

 食器があらかた泡で包まれると、咲がおもむろに口を開いた。

 その一言で咲が昨日何をしていたのかが容易に想像出来た。

「ちょっと。一昨日、二人は何をしてたの」

 棘を生やしたちょっとという一言とは毛色が違った。

 ちょっと心配なんだけど、ちょっと聞きたいんだけど、そんな感じだ。

「見つめ合ってた」

「は?」

 咲の手からスポンジが落ちた。

「冗談じゃないって。二人で向かい合って、見つめてたんだよ」

「それだけ?」

「それから、お前、本当にナツかって聞いてたな。ナツさんは何も言わなかったけど。そしたら納得してどっか行っちまったよ。咲が来たのはその後すぐ」

「それだけ?」

 水を出して泡を落とす。

「それだけ。俺だって訳分かんないの」

 それから箸の束を掴んで泡を落としていく。

 そうとも。

 こっちだって訳が分からないのだ。

 その訳がこれから行く旅館で明らかになれば良い。


 洗い物が終わるとすぐに家を出た。

 置いていかれないように必死にペダルを回す身からすれば大変ありがたい事ではあったが、道中の咲は珍しく無言だった。

 息がすっかり上がる頃、旅館ふなさかに到着した。

「あんちゃんさ、少しは鍛えたら?」

「お前…試しにこのチャリ乗ってみろや」

 息を切らしながら言うと、絶対に嫌という無情な一言が帰って来た。

 呼吸を整えてから中に入る。

 玄関口には誰もいなかった。

「不用心だな」

「田舎の宿だしね。ナッちゃん以外に客はいないから。あ、靴もそこに置いといて良いよ」

 こっちだよと案内されるままにとある一室に通される。

 部屋の中には鉄治とナツが向かい合って座っていた。

「来たな。まあ、座れや」

 腕を組んでいる鉄治が重々しく言い、ナツの隣に座るように言う。

「お前も向こうだ」

 自分の隣に座ろうとした咲を向こうに追いやり、老人と少年少女が向かい合う形になった。

 対面に座る三人を一人ずつじっと見据えてから鉄治は組んだ腕を解いた。

「お前ら、一体、何者だ」

 鉄治は自分に視線を向けて言った。

 お前から名乗れ。

 そう言われているようだった。

「遠藤基、です」

「ノブ…遠藤信人は誰だ」

「祖父です」

 そう言うと満足そうに鉄治は頷き、同じ事を咲にも聞いた。

 おじいの孫だよ、と当然の返事を聞き、ナツにも同様の事を聞いた。

 しかし、ナツはその問いに答えようとしない。

 どうしたんだろうと思い隣を見るとナツの隣に座る咲と目が合った。

 咲もナツの事が気になったのだろうが、当のナツは俯いたまま黙っている。

 鉄治は宿帳を出すと、ある一ページを開いてナツに見せた。


 式口夏


 宿帳にはそう書かれていた。

「何か事情があってこの名前を使ったんだろうよ。名前に漢字を使う辺り愛嬌もあるし、少しくらいは大目に見なくちゃと思ってはいたんだがな。流石にその面でちょろちょろ嗅ぎ回られちゃあ堪っちゃもんじゃないんだ」

 言葉は厳しいが、それを発する鉄治の表情からは怒りの感情は見えない。

 ナツは未だ何も言わない。

「冗談抜きで聞いてんだ」

 その一言でナツが顔を上げた。

 二人が見つめ合った。

「…聞いてた通りだ」

 再び俯くと独り言のように呟いた。

 ナツが再び顔を上げた。

 憑き物が落ちたようにすっきりとしていて、それでいて目にはこれまでの淑やかさがどこに行ったのかと思わせる力強さが宿っていた。

 鉄治が一瞬だけ目を見開いた。

 ナツの様子を見て、こちらも思わず生唾を飲み込んでしまう。

「環奈。沓沢環奈。それが私の名前です」

 彼女の口から真実が語られようとしていた。

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