祖母と孫

「本当にありがとうございました」

 バスを降りると彼女は荷物を地面に置き、両手を揃えて丁寧に頭を下げた。

 その仕草がやけに綺麗で、どういたしましてという一言すら出てこない。

 彼女は荷物を手にしてからもう一度だけ頭を下げ、それから歩き始めた。

 白い後ろ姿はゆっくりと小さくなり、気が付くと陽炎の中に消えていた。

「惚れた?」

「馬鹿言うんじゃありません」

 笑いながら聞いてくる千誉にふざけて答える。

 どれだけおどけて言ってみせても実際はどうなんだろう。

 幻想的で理想的。

 ともすれば今まで一緒にいたのはお前が勝手に作り出した理想の女性だと言われても納得してしまいそうな気分ではあった。

「やっぱり惚れたんじゃない? 綺麗だったもんね」

「行くぞ」

 恋バナに興味を持ち始めた年頃の妹の追及は面倒臭く、何を言っても都合よく解釈を歪められると相場が決まっているので、取り合わないでさっさと歩き出す事にする。


 近道も兼ねて一本道を曲がると、木陰の多い道が姿を現す。

 道と言ってもアスファルトで舗装もされていない地面が丸裸になったようなものだ。

 緑の匂い、虫の音、足に伝わる凹凸、無限に広がる青。

 駅前以上に何もない場所だったけれど、個人的には都会よりもこんな風な何もない方が好きだった。

 汗は止まらないが、歩いていて気持ち良い。

「あちー」

 なんて事を呟きながら夏を堪能していると、妹との距離が開いていた。

 キャリーバックを引く妹は見るからに疲弊している。

「お兄ちゃん」

 どれだけ頭が切れようとも、おませさんだろうともまだ小学生だ。

「じゃんけんだな」

 目の前に丁度良い木陰が見えてきたので、そこまで歩いて一息ついてからじゃんけんをした。

 少し重くなった身体から噴き出す汗の量が増える。

「キャリーバックじゃなくても良かっただろうに」

 流石に疲れてきて愚痴ってしまう。

「だって使いたかったんだもん」

 修学旅行があるから新しく鞄を買おうという話になった時にコロコロするあれが欲しいと言って聞かなかった妹の姿はまだ記憶に新しい。

 修学旅行まで我慢すればいいものをと思いながら汗を拭う。

 緩やかな坂道を登りきり、ふと顔を上げると畑と民家が見えてきた。

 ここから再び舗装された道になり、幾分か歩きやすくなる。

 キャリーバックを妹に返して数分も歩くと、祖母の家が見えてきた。

 誰か来ているのか、見慣れない車が一台止まっている。

 やっと着いたという達成感を感じながら道路を渡って敷地の中に入ると祖母の家から男が出てきた。

 線が細く、少しうっとうしいくらいの長髪が特徴的だった。

「いやー、ですからね、何か知っている事があればと思ったんですが」

「知らないよ。さっさと出て行っておくれ」

 口調はそれほど怒っていないが、箒を使って男の足元を忙しなく掃いている所を見るに、さぞ迷惑なのだろう。

「分かった。分かりました。それじゃあこれで失礼しますよ」

 移動する度に迫ってくる箒に根を上げたのか、男は逃げるように車に乗り込むと去って行った。

 すれ違いざまに見えた男の表情は諦めきれない悔しさが滲み出ているように見えた。

「まったく…おや、千誉じゃないか。よく来たね。基も汗だくじゃないの。さっさと入んな」

 先程までいた男の事などまるで初めからいなかったかのような口調で祖母が出迎えてくれた。

「うん。ただいま」 

 一瞬だけ千誉と顔を合わせると、千誉が朗らかに言って中に入っていった。


 よく冷えた麦茶を一気に飲み干し、生き返ったと思わず言ってしまう。

「昼は食べたのかい」

 言いながら祖母はそうめんとつゆ、そして人数分の箸と器を載せた盆を運んできている。

「まだだよ。そうめん?」

「これくらいしかなくて悪いね。来るのが分かってたから買い物に行けば良かったんだろうけど、変な奴が押し掛けてきてね」

「いただきます」

 申し訳なさそうに言う祖母を余所に千誉が美味しそうにそうめんを啜る。

「おいしー」

「それでさっきの人は?」

「知らないよ」

 代わりに祖母の言葉に反応すると、そんな返事が返ってきた。

「名刺をもらったけど捨てちまったしね」

 このままだと千誉が全部平らげかねないペースで食べていたので、負けじとそうめんを啜る。

 そうめんはつるりとした食感としっかり効いた出汁が相まって確かに美味かった。

「何とかって雑誌の記者って言ってたかな」

黙々と食べ続けていると、何か思い出したように祖母がぽつりと漏らした。

「何とかって?」

 次のそうめんを拾いながら千誉が聞いた。

「聞いた事もないような名前だよ。都市伝説とか言ってたっけね」

「胡散臭いな」

「だろう?」

「どんな事を聞かれたの?」

 祖母と二人で胡散臭いと話している中、千誉は興味を持ったようだった。

「何だったかな…。えっとね…。旧日本軍の兵器がどうとか」

 千誉に尋ねられた祖母は期待に応えようと必死に思い出して言った。

「増々胡散臭いな」

「それ以上に不謹慎だよ」

「お昼から畑に種まいて良い?」

 忌々しく言う祖母の顔で何かを察した千誉が話題を変えた。

「良いけど折角だから耕すところからやってもらおうかね」

「草むしりは?」

「やっておいたよ」

「そっか。残念」

「やりたかったのかい」

「だってそこから初めてこそ畑作りでしょ」

「変なところに拘るね」

「先生が言ってたんだ。昔の人は大変な思いをして食べ物を作ってたって。自由研究なんだからそういった事も自分で感じないと駄目かなって思って」

「はぁ、偉いもんだよまったく。基も見習いな」

「へいへい」

「そんな事より基はどうして来る事にしたんだい」

「んー…」

「お兄ちゃんも自由研究だって」

 宝探しだとは言い辛く、何と答えたものかと思案すると千誉がそう答えていた。

「自由研究? 高校にもなって自由研究なんかあるのかい」

「この村の郷土史について個人的に研究したくなったの。じいちゃん、昔から日記とか書いてただろ。そういうの残ってない?」

 この際、自由研究で良いかと納得する。

「先週集まった時に仕分けしちまったからね。処分する物の中に何かあるかもね。まだ捨ててないから後で奥の部屋を覗いてみな」

 あの中からあるかどうか分からない必要な物を引っ張り上げるのかと思うと若干うんざりしてくる。

「それから暇なら洗い物は頼んだよ。あと、晩はカレーでも作るから後で買い物に行っておくれ。野菜だけはあるから肉とルウだね。自転車はいつもの所にあるから」

「マジか」

「それじゃ千誉。始めようかね。着替えておいで」

 人使いが荒いというよりも可愛い孫と一緒に農作業がしたくて仕方がない様子だった。

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