自由研究
次の日は七時に目が覚めた。
居間に行くと誰もいない。
食事の時にだけ出るテーブルがまだ出っぱなしになっており、その上に書置きが置かれていた。
おばあちゃんと畑にいます 午前五時 ちよ
書置きを見て、欠伸が出る。
随分と早起きをしたもんだ。
昨日のカレーを温め直しながら顔を洗う。
今日は何をしようかな。
カレーを食べながら考える。
とりあえず資料の写真を撮ろう。
それから本格的に宝探しだ。
でも、その前にスタミナ削んないと。
今日の予定を組み上げると、カレーをかきこむ。
少し眠たいのを我慢しながら着替えて行動に移る。
資料の撮影はすぐに終わった。
ついでにスマホゲームをしてから外に出る。
まず向かうのは畑だ。
仄かに漂う鶏糞のせいで緑の臭いは感じられないが、朝露で湿った緑が輝いているのが見えると途端に目が覚めてきた。
「ばあちゃん。行ってくるから」
「あいよ。昼までに戻んな」
「お兄ちゃん、何しに行くの」
「自由研究」
「行ってらっしゃい」
真っ黒く汚した手を元気に振る千誉に応えてから自転車で出発する。
気温はまだそれほど高くない。
太陽は朝の色をしていて、空は雲が多いものの晴れ間が清々しい。
始めに何をするか。
鉄治に会いに行くか、それとも祖父の当時の生活をなぞるか、はたまた紙切れの謎を解くか。
時間は八時過ぎ。
人を尋ねに行くには少しだけ早い。
謎解きをするにしてもあの文章の意味がまるで分からない。
結局のところ、まずは情報が欲しい。
そう考えて祖父がどんな少年時代を過ごして来たのかをなぞる事にした。
船坂鉄治と式口ナツ。
祖父はこの二人とよくいた。
日記から推察すると、この二人としか一緒にいなかったのではないかというくらい友人の話と言えば彼らが頻繁に登場していた。
具体的に三人が何をしていたのかは分からないものの、山や林に川といった遊ぶにはうってつけの場所や神社にはよく行っていたようだった。
勝手に考える昭和の少年少女が遊びそうなスポット三選プラスアルファではあったが、こういうイメージが現実とそう違わない事を考えると、真偽の程が定かではないメディアもそう馬鹿にできない。
「綻ぶ春、先祖一人が立ち尽くす、来たる秋を待つのだろう。綻ぶ…林から行くか」
写真に収めたものの、謎の文章は毎日のように紙切れを眺めていたからすっかり覚えてしまった。
林を調べようと思ったのは綻ぶという言葉と植物の相性が良いように思った以外に明確な理由はない。
どの道、全ての場所を訪れる予定なのだ。
どこから調べても同じだが、折角なので何かありそうだと思った場所から調べる方が気持ち的にわくわくする。
自由研究なのだ。
やりたいようにやっていこう。
ろくにスピードの出ない自転車を漕ぎながら、どこか見覚えのある風景の中を進む。
当時の民家は姿を消し、主要な道は均され個性を失った。
残っているのは道端の草木と土地が持つ空気という不確かなものだけ。
それでも昔からある、それでいて見慣れない風景に触れるだけで懐かしいと感じられる感性があるというのは不思議なものだ。
「日本人だからなんかね」
ゆっくりと一時間も自転車を漕ぐと、村の中心部を抜け、その先にある山道に差し掛かっていた。
山というには貧弱で、丘と言うには勾配のきつい坂道を必死に進む内に汗が噴き出してくる。
すぐに自転車を漕ぐ事が困難になり、歩いて坂道を登る事を余儀なくされる。
息を切らしながら坂を登りきると平坦な道になり、向こうに橋が見えた。
一瞬だけ強く吹いた風が身体から熱を奪っていく感覚が心地良い。
橋から見える風景は五感全体に訴えてくるような何かがあり、ディスプレイ越しに見る絶景よりも格段に綺麗に見えた。
橋を渡り、右折すると下り坂に差し掛かる。
下り坂を一気に突き抜けるスリルと爽快感を味わうべくサドルに腰掛ける。
ペダルを踏まなくても進む事にかこつけてしばらく何もしないでいたが、速度が出ているなと思ってブレーキを掛ける。
ところがブレーキが利かない。
嘘だろと思ったのも束の間、身体が重力から解放された。
時間の感覚がスローモーションになる。
地面。
生い茂る緑。
境界が曖昧な青と白。
背中に衝撃を受けると時間がいつも通りに動き出した。
痛みが急激に全身に走り、身動きどころか呼吸すらまともに出来ない。
何とか身体を動かして自転車を見ると、自転車は無事なようだった。
「ちょっとちょっと。大丈夫」
声が聞こえたが、人の姿が見えない。
それもそのはずで、声の主はガードレールを乗り越えて姿を現した。
「ってあれ。あんちゃんかよ。何、コケたの? だっせー」
ケラケラと笑い声を立てながら咲が言った。
ダサくないと言ってやりたかったが、上手く声が出ない。
「え、あれ? 本当に大丈夫?」
動けないでいると本格的に心配し始めたのか、咲が身体を起こして背中をさすってくれた。
「痛いの痛いの飛んでけー」
赤ん坊をあやすような声色とその優しい手つきに不甲斐なくもほっとする。
「俺は子供じゃない」
「泣きべそかいてたくせに」
「かいてない」
痛みが引き、呼吸も楽になると、起き上がる事が出来るようになる。
自転車の方を見ると、道路に抉れたような窪みがあった。
咲を見ると、種類は違うもののTシャツに短パンという昨日と似たような服装で今日は首にタオルを巻き、手には釣竿、脇にはなぜか段ボールを抱えている。
「そこから登って来たのか」
咲が姿を現した方を指差す。
「そうだよ」
近寄り、覗き込んでみると雑草が生い茂っていた。
そこは間違いなく傾斜が掛かっているはずで、この状況ではどれほどのものか確認のしようもない。
「よくここを通って来たな」
「派手にコケてたからね。自転車から飛んで一回転した人なんて初めて見たよ」
「どこで釣りしてたんだ?」
「あっち」
指差す先に砂地があった。
バケツが置かれているのは釣った魚を入れるためのものだろう。
そしてその場所は川を渡った先にある。
咲も軽い調子で言っているが、わざわざ川を渡ってまで助けに来てくれたのだと思うと、素直にありがたいと思う。
「そっか。とにかく助かった。ありがとう」
「それじゃ、あんちゃんの自由研究に混ぜてよ」
「…まあ、うん。断れないわな」
言うと、咲がガッツポーズをして喜んでいた。
「それにほら、郷土なんとかを調べるんでしょ。だったら地元の人間がいた方が良いもんな」
「絶対後付けだろ」
「まあまあ。それより話、聞かせてよ。あそこで待ってるから」
バケツの方を指差して言うと、咲は抱えていた段ボールをひょいと投げ、ガードレールを飛び越えた。
ひゃっほー。
そんな歓声と共に咲が段ボールをソリ代わりに雑草の上を滑っていく。
「あいつ、確か女だよな」
田舎だと現代人もああなってしまうのか。
あそこまで行くと野性児だな。
元気よく元いた場所に帰って行く少女の姿をしばらく眺めてから自転車を拾い上げる。
どうやって向こうまで行ったものかと坂道の先に視線を移していくと、ずっと先に小さな橋があり、そこを通って行けば咲がいる場所まで行けそうだった。
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