8-4

 僕が電車を降り、駅前ロータリーに着いた時、待ち合わせ相手はまだそこに居なかった。

 時間はもう数分過ぎている。来たらなんて言ってやろうかと、意地悪なことを考える。だけどその答えが出る前に、顔を赤くして息を切らした待ち合わせ相手が現れてしまった。

「お待たせ」

「遅い」

「ごめん。せっかく安藤くんに会うんだからお洒落していこうと思って、あーでもないこーでもないってやってたら、つい」

「そんなお洒落されても伝わらないってば」

「いいの。自己満足だから」

 待ち合わせ相手――三浦さんが笑った。遅刻するほど悩んだ結果、服装は池袋に行った時のワンピース。原点回帰。

「そう言えば、亮平に今日のこと話したでしょ。待ち伏せされたよ」

「そうなんだ。告白された?」

「だから、亮平はホモじゃないってば」

「BL星的には絶対ホモなんだけどなあ」

 いつも通り、下らない会話を交わしながら道を歩く。駅前のこみごみしたエリアを抜けて、大通りに出て、すぐ目的の四角い建物に辿り着く。自治会館。三浦さんの絵が展示されている場所。

 案内に従って展示会場に向かう。展示会のテーマは『私の好きな景色』。会場には、煌びやかな夜景だったり、穏やかな河川敷だったり、自分の好きな人たちが笑い合っている光景だったり、そういうものを描いた絵があちこちに貼り付けられていた。僕たちはそれらを眺めながら会場を歩き、やがて、一枚の絵の前で足を止める。

 少年の横顔。

 儚げな目で遠くを見つめる少年を淡い色使いで描いた水彩画。彼が見ているものを僕は知っている。ペンギンだ。似合わない真面目な話をして、疲れてしまって、すいすい泳ぐペンギンをぼんやり眺めて心を癒している。そこを写真に撮られた。

 タイトル。

 ――『恋に落ちて』。

「恥ずかしいタイトルだね」

「別れた彼氏の絵が展示されてる時点で死ぬほど恥ずかしいんだから、今更でしょ」

「展示されてる僕も死ぬほど恥ずかしいよ。家族だって見に来るんでしょ?」

「うん。見に来た。お父さんが『やっぱりこいつに会わせろ』『会わせないなら自分で会いに行く』とか言い出してさ。全力で止めたんだから感謝してよね」

「……それは、本当にありがとう」

「どういたしまして」

 三浦さんがくすくすと笑う。僕は絵を見つめる。僕は絵を描けない。どういう絵が上手い絵なのかなんてさっぱり分からない。だけどこの絵を描いた人間が、この絵に描かれている少年のことを本当に愛していることは、しっかり伝わる。

「色々、あったよね」

 そうだね。色々なことがあった。色々なところに行った。君は僕のことが好きで、僕は君のことが――やっぱり、好きだったと思う。

「濃い四か月だったなあ。なんかもう、しばらく男はいいわ」

「極端な経験を一個積んだだけなのに、百戦錬磨みたいなこと言うね」

「だって疲れちゃったんだもん。しばらくはBL星で生きる」

 BL星。人口比率が極端に男に偏っていて、男は老いも若きも同性愛者だらけで、同性愛者でもただ気持ちが揺れ動くだけの恋を実らせることが出来る。そんなハチャメチャで意味不明で夢のような星。

「僕はもうしばらく、地球で生きるよ」

 返事はない。二人で黙って絵を眺め続ける。沈黙を先に破ったのは、三浦さん。

「ねえ、安藤くん」

「なに?」

「いつか安藤くんが、種の保存には不利な同性愛者がなぜこの世に生まれるのか分からない、みたいなこと言ってたでしょ。あれわたし、分かったかも」

 僕はギョッと目を剥いた。三浦さんが思わせぶりに尋ねる。

「答え、聞きたい?」

 僕は「聞きたい」と頷いた。三浦さんが「じゃあ教えてあげる」と前かがみになり、僕を上目使いに覗き込む。

「あのね――」

 柔らかな唇を綻ばせて、三浦さんが子どもみたいに笑った。

「神様は、腐女子なんじゃないかな」

 カミサマハフジョシ。

 ――ああ、確かにそれなら、男の方の説明はつく。神様はビタミンBLが必須栄養素の特異体質で、本当は地球をBL星にしたくて、だから僕たちのような存在を生み出した。そしてその恋模様を天界から眺め、例えば僕とマコトさんの恋愛については「年の差萌えー!」とか「切ない恋萌えー!」だとか叫びながらゴロゴロ転げまわっている。なるほど。分かりやすい。だけど――

「……クソみたいな神様だね」

「うん、わたしも思いついた時、そう思った」

「女性の同性愛者はどうなるの?」

「百合好き男性神とホモ好き女性神のペアなんじゃない?」

「最低最悪の創造神ペアだ」

「確かに」

 三浦さんがおかしそうに笑った。そして顔の下半分だけに笑顔を残したまま、目線を寂しげに横に流す。

「ねえ、安藤くん。今日はここでお別れしようか」

 お別れ。三浦さんが顔を伏せた。

「綺麗にさよなら出来る気がするから」

 本当はさよならなんてしたくない。だけどするなら今ここがいい。そういう想いが、痛いほどに伝わる。

「分かった。そうしよう」

 返事を聞き、三浦さんがグッと顔を上げる。上半分も笑顔になっていた。満面の笑みを浮かべながら、僕に右手を差し出す。

「ジュン」

 愛し合おうとした時、たった一度だけ呼ばれた呼び方。僕は三浦さんの右手を自分の右手で掴んだ。あの時と同じように、体温がお互いの身体を行き来する。

「今までありがとう。わたしはホモが好きで、ジュンのことが好きだよ」

「こっちこそありがとう。僕は男が好きで、サエのことが好きだ」

 手を離す。きっとここは、僕から去るべき場面。僕は三浦さんから身体を背け、そして最後に一言、ずっと気になっていたことを告げることにした。

「そういえば一つ、言っておきたいことがあるんだ」

「なに?」

「あんまり人前でホモホモ言わない方がいいよ。ゲイにした方がいい。ホモはそういう人たちにとって軽く侮蔑の意味が入った言葉なんだ。僕は気にしないけど、気にする人は気にして嫌な気分になるかも」

 ハトが豆鉄砲を喰らった顔。

 本日二回目。自分自身も含めると三回目の顔だ。知っていて使っているのかとも思ったけれど、どうやら知らなかったらしい。僕がガンガン使うから全くそういう発想も湧かなかったのだろう。

 三浦さんが、顔を赤くして叫んだ。

「そういうの、一番最初に言ってよ!」

 僕は笑った。笑いながら三浦さんに背を向けて「じゃあね」と手を振り、足早にその場を去った。

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