2-2

 翌日の朝、三浦さんは僕の机に来なかった。

 久々の読書タイムを満喫する。朝のホームルームを終え、一限目は体育。男子は着替えのため、三階の空き教室に向かった。

 空き教室で皆が制服から体育着とジャージに着替える。男子高校生の半裸見放題。マコトさんみたいな人からしたら天国なのだろうけど、僕的にそこまで感じ入るものはない。さっさと着替えようと制服のシャツを脱ぎ、肌着をたくしあげた。

 胸の両突起に、鋭い刺激が走った。

「チクビーム!」

 嬌声を抑え、一度上げた肌着を思い切り下げる。僕の乳首をつまんだ犯人の亮平が、目の前でへらへらと笑っていた。

「亮平。そろそろ本当に、そういうコミュニケーションの取り方は止めよう」

 僕を差し置いてゲイだと思われているぞ。そこまでは言わない。亮平は「えー、いいじゃん」と全く堪えず、僕の前で着替えを始めた。

 亮平が制服のシャツを脱ぎ、肌着を脱ぐ。うっすらと乗った脂肪の下から固い筋肉の輪郭が覗く。さすがバスケ部。引き締まっている。年上好きの僕にもちゃんと、その身体は魅力的に映る。

 僕は亮平と付き合いたいと思ったことは一度もない。だけど亮平とセックスしたいと思ったことは何度もある。この感覚を異性愛者は絶対に分かってくれない。彼女にしかちんぽこが勃たない男なんて、むしろおかしいと思うんだけど。

「ところで純くんさー、連休の初日、暇?」

 亮平が着替えながら、着替え終わった僕に問いかける。近い質問をつい昨日、別の人間から聞いた。僕はその時と同じように尋ね返す。

「どうして?」

「何人かで遊園地行こうって話があってさ。富士急ハイランド。純くんも来ない?」

「富士急って静岡でしょ。なんでそこまで行くの?」

「超デカいお化け屋敷あるじゃん。あれに行きたくて」

「面子は?」

「男はオレと小野っち。女は今宮と三浦と小野っちの彼女」

 聞き捨てならない名前が一つ、紛れ込んでいた。

「何でそんな話になったの?」

「発案はオレと小野っちと今宮。後は小野っちが彼女誘って、今宮が三浦誘った。純くんが来てくれれば男女三対三ですげーバランスいいでしょ。だからさー、来てよ」

 今宮さんはバスケ部の女子マネージャー。そして三浦さんとはとても仲が良い。流れとしては不自然ではない。けれど――

「――今は予定ないけど、入る可能性はある」

「それは先着優先だろ」

 だよな。その通りだ。お前が正しい。

「分かった。じゃあちょっと、確認して来る」

 僕はスマホを手に教室から出た。人気のない廊下の奥まで行き、マコトさんの電話番号を呼び出す。そして一つ大きく息を吸って、吐く。

 僕は普段、マコトさんに電話をしない。SNSアプリも携帯メールも使わない。迂闊な証拠を残さないため、お互いにフリーメールのアドレスを使ってやり取りをする。僕といない時のマコトさんは佐々木誠。四十過ぎの妻子持ち男性。注意を払って払い過ぎることはない。

 いきなり電話なんかして怒られないだろうか。嫌われないだろうか。不安を胸によぎらせながら電話をかける。マコトさんは、コール三回ほどで出てくれた。

「もしもし。どうした」

 声が固い。これは仕事モードだ。早急に要件を済ませよう。

「いきなりごめん。聞きたいことがあって」

「なんだ?」

「友達にゴールデンウィークの初日、空いてるかどうか聞かれてるんだ。でもマコトさんと会えるならそっちを優先したい。どう?」

 会えるなら会おうよ。そんな言葉を用意して返事を待つ。だけど、使わなかった。

「難しいな。連休は、家族で旅行に行く予定だから」

 家族旅行。

 当たり前の展開だ。別にショックを受けるようなことではない。こんなことでいちいち腐れていては、僕たちの関係はとてもやってられない。例え友達との遊び話を口実に普段はかけない電話をかけて聞いてしまうぐらい、期待していたとしても。

「分かった。変なこと聞いてごめん。それじゃ」

 電話を切ろうとする。だけどそれより早く、艶めかしい声が鼓膜に届いた。

「ジュン」

 背筋に、ぞくりと震えが走った。

「連休が終わったらたっぷりかわいがってあげるから、それまで我慢しなさい」

 下半身に血液が集まる。僕は「うん」と甘えた声を出して頷いた。マコトさんの息子をやっている時の声。マコトさんは「いい子だ」と呟き、電話を切った。

 会話が終わり、静寂が広がる。火照った身体から熱が発散して沈黙に溶ける。僕はゆっくりと廊下を歩いて空き教室に戻り、扉を開いた。

 瞬間、ジャージ姿の亮平が僕に飛びかかってきた。

「純くーん。どうだったー?」

 いつものように亮平が僕の股間を揉みしだく。いきなりすぎて、回避出来なかった。亮平が怪訝そうな顔で僕に尋ねる。

「なんで、ちょっと固いの?」

 僕は笑った。笑いながら、亮平の頭をパンと叩いた。


    ◆


 家に帰ると、昼の仕事が休みだから思いきりくつろいでいる母さんがいた。

 すっぴんで、ぼさぼさの髪で、だぼだぼのパーカーを着て、トドみたいなポーズでソファに寝そべりながらテレビを見ていた。化粧をして、髪を整えて、ドレスを着ている母さんしか見たことのないスナックのお客さんがこの姿を見たら、間違いなく百年の恋も冷めるだろう。そもそも母さんに恋をしている客がいるかどうか知らないけれど。

「ただいま」

「おかえり」

 冷蔵庫を開け、中からペットボトルのお茶を取り出して飲む。テレビでは『今からでも間に合う、大切な人と行きたいゴールデンウィーク穴場特集』とやらをやっていた。僕はお茶を飲み込み、何気なく口にする。

「母さん。僕、ゴールデンウィークの初日、出かけるから」

「どこ行くの?」

「遊園地。富士急ハイランド」

「遠いじゃない。デート?」

「――違うよ」

 溜めを作ってしまった。母さんはそれを見逃さない。ソファから身を起こし、目を輝かせながら声を弾ませる。

「なに? 純くん、本当にデートなの?」

 母さんは僕のことを「純くん」と呼ぶ。亮平と同じ。いい年して恥ずかしいから止めて欲しいと思うこともあるけれど、いつかテレビで専門家が「母子家庭の母親は子どもに依存していつまで経っても自分の子どもをあだ名で呼んだりする」としたり顔で講釈を垂れているのを見て無性にイラッと来たので、放っておくことにしている。

「一緒に行くのは友達だよ。亮平とか」

「女の子は?」

「……それは、まあ、いるけど」

「なに、その反応。やっぱり彼女なんでしょ」

「違うってば」

 これ以上つき合っていてもいいことは無さそうだ。お茶を冷蔵庫に戻し、部屋に逃げ込む。背中から、僕を茶化す母さんの明るい声が届いた。

「母さん、孫は早い方がいいからねー」

 背中を向けていて良かった。掛け値なしに、そう思った。

 部屋に入る。学生鞄を置いて、ブレザーだけを脱いで、ベッドに寝転んで天井を見上げる。僕がうんと小さい頃からある人型のシミを見つめながら、全身の力を抜き、水に浮かぶ自分をイメージする。溜まった疲れを溶かすために。

 母さんのことは好きだ。昼も夜も一生懸命に働き、いつだって僕のことを大切にしてくれる母さんを嫌いになれるわけがない。だけど僕はなるべく母さんと話したくない。母さんと話すのは、他の誰と話すよりも圧倒的に疲れる。

 もし母さんが、僕が同性愛者だと知ったらどういう反応をするか、何度も考えた。だけど全く答えは浮かばない。浮かばないまま、絶対に教えるわけにはいかないという結論だけが残る。なぜシリカゲルを食べてはいけないのか僕は知らない。だけど食べない。そういう風に、それは良くないというのが、理屈を超えて理解出来る。

 ――孫、か。

 スマホを手に取り、SNSアプリを開く。フレンドリストから、最近追加したばかりの三浦さんを探す。

 僕は男。三浦さんは女。僕はでっぱっていて、三浦さんはへこんでいる。

 僕たちは、家族を築くことが出来る。

 送信メッセージ欄に『今ひま?』と入力する。だけど送信はしないまま、アプリを閉じる。彼女は僕なんかの何が好きなのだろう。考えてみたけれど、結局、答えが出てくることは無かった。

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