Track4:The March of the Black Queen

4-1

 嘘だ。

 ミスター・ファーレンハイトと知り合ってから、HIVについて色々と調べた。だからHIVのことはよく知っている。治療をすればAIDSを発症せずに長生きできると、もう死に直結するような病気ではないと至るところに書いてあった。だから、嘘だ。

 だけど僕は、ミスター・ファーレンハイトのこともよく知っている。

 彼は、こういう嘘をつく人間ではない。

『予感はあったんだ。ずっと身体がダルくてね。それがこの間、確定した。黙っていてすまない』

 指先が震える。心臓が波打つ。少しでいいから、前向きな話がしたい。

『でも今は、AIDSを発症してから何十年も生きる人だっているんでしょ』

『そうだね』

『だったら『残り少ない命』は止めてよ。僕は君に長生きして欲しい』

 まばたきもせずにモニターを見つめる。眼球が乾く。視界がぼんやり霞む。

 ボケた視界に、新しいメッセージが浮かんだ。

『少し、自分語りをしていいかな』

 僕のメッセージを全く無視した返信。どうして君はいつも、僕の前向きな言葉は全てスルーするんだ。歯痒い。

 だけど――この頼みを断れるわけがない。

『いいよ』

『ありがとう。じゃあ僕が呼びかけるまでの間、黙ってメッセージを読んでいてくれ』

 僕は『分かった』と返信を送った。両手をキーボードから離し、膝の上に置く。

『僕にHIVを伝染した恋人は、僕の従兄弟だ』

 始まった。一文字たりとも見逃すまいと、じっと目を凝らす。

『彼はカムアウト済みのゲイだった。僕はカムアウトしていないゲイ』

『彼はゲイを理由に親族とはギクシャクしていた。でもとても頭が良くて、優しくて、僕は彼が大好きだった』

『兄弟のいない僕は、一回り以上年上の彼を本当の兄のように慕った。近くに住んでいたからちょくちょく会いに出かけた』

『彼は僕に色々なことを教えてくれた。QUEENもその一つだ』

『ある日、彼は僕に『QUEENⅡ』を渡した。一番好きなアーティストの一番好きなアルバムだから、良かったら聞いてくれと』

 QUEENⅡ。二作目にしてQUEEN最高傑作と評するファンも多い、独特の世界観からなるコンセプトアルバム。

『聞いて虜になった。魂が震える感じがした』

『それを伝えたら彼は大層喜んで、持っているQUEENのCDを全て僕に渡した』

『そして自分はCDを買い直した』

『僕はお金をあまり持っていないから、年長者の自分がまた揃えるとね』

『君がQUEENの新しいファンになってくれるのであれば、これ以上に有意義な買い物はない。そう言っていたな』

 僕とミスター・ファーレンハイトの間に横たわる唯一の存在、QUEEN。それは、亡くなった彼から受け継いだものだった。

『うだるように暑い夏の日、僕は彼に告白した』

『彼は最初、僕を受け入れようとしなかった。だけど押して、押して、押しまくって、どうにかこうにか抱いてもらった』

『例の感染した一回だ。まあそんなわけで、僕は君のことを偉そうに説教出来るような立場ではない。あの時は悪かったね』

 気にしてないよ。そうタイプしかけて止めた。まだ呼びかけられていない。

『それから、僕と彼は付き合い出した』

『幸せだったよ。だけど知っての通り、そんな時期はそう長く続かない』

 僕はごくりと唾を呑んだ。話の流れが、変わる。

『彼はAIDSを発症してHIVに気づいた。免疫力は既にとんでもなく低下していて、分かった時には既に末期と言える状態だった』

『分かってすぐ、僕は彼に連れられてHIVの検査に行った』

『結果は、まあ、ご存知の通り』

 感染の発覚。そして、全てが明るみに出る。

『両親に打ち明けたら、母は嘆き、父は怒った』

『二人とも、僕を彼の被害者だと認識した。HIVに感染したことは勿論、同性を愛するようになったことまで、彼によって僕が変えられたと騒いだ』

『元から男が好きで、僕から告白したんだと言っても、全く理解して貰えなかった』

『僕は彼との接触を禁止された。彼はいつの間にか引っ越して、メールやら電話やらの連絡手段も全て断たれた』

『そして一人になると、彼への恨みが沸々と湧いて来た』

 恨み。殺したいほど憎かった奴が死んだので、愛することにしました。

『彼の方から僕に接触することは出来る。でも彼は来てくれない』

『僕をこんなにも苦しめて、なのに苦しんでいる僕を助けに来てくれない』

『そんな彼のことを心底憎んだ。気晴らしにブログを始めたのはその頃だ』

『そんなことをしているうちに、彼があっさりと死んだ』

 死。心を抉る文字が、残像になって視野に残る。

『訃報を聞いた僕は、ひたすらに泣いた。恨みなんか綺麗さっぱり消えた』

『せめて通夜には参列したい。僕は両親にそう申し出た』

『勿論、許されなかった』

『だから無理やり行くことにした』

 物語が、大きく動く気配がした。

『父だけが通夜に参列し、母は家に残って僕を見張っていた』

『僕は二階の自室の窓から、衣服でロープを作って降りた』

『携帯も財布も全部没収されていた。靴も取りに行けなかった』

『だから厚手の靴下を履いて、後払いで済むタクシーを捕まえて葬儀場まで行った』

『だけど中に入るより前に、警戒していた親族に見つかった』

『僕は逃げ出した』

『目的を果たすことも出来ず、夜の街を靴も履かずに彷徨い続けるのは、それなりにしんどかった』

 情景が頭に浮かぶ。胸が締め付けられて、苦しい。

『僕の住む街は海沿いにあるんだ』

『葬儀場も海岸近くにあった』

『気がついたら僕は、砂浜に寝転んでいた』

『海風も波音も優しかった』

『空を埋め尽くすように満天の星空が広がっていた』

『綺麗だったな』

『明日、僕の愛した人が灰になってしまう』

『そんなこと、絶対に思えないぐらいに綺麗だった』

 淀みなく流れていたメッセージが、ピタリと止まった。僕は膝の上の手を握りしめ、次の言葉を待つ。

『ジュン、君に頼み事をしたい』

 呼びかけ。素早くキーボードをタイプする。

『なに?』

『ガンズ・アンド・ローゼスのアクセル・ローズが『オレが死んだらQUEENⅡのアルバムを棺に入れてくれ』と言っていたという逸話は知っているかな』

『知ってる』

『それと同じようなことをしたい。僕が死んだら、僕が彼から貰った『QUEENⅡ』を彼の墓に供えてくれ』

 僕がミスター・ファーレンハイトの私物を受け取り、彼の恋人の墓に供える。唐突で突拍子のない願い。

『生きている間に僕が供えろと言わないでくれよ。僕の命が尽きた後、運命のように持ち主に戻るから意味があるんだ。どうかな』

どんな願いだろうと、返事は決まっている。僕はメッセージを打ち込んだ。

『分かった。まだまだ先の話だと思うけど、任せてくれ』

 まだ死ぬことは認めていないぞと抵抗を示す。ミスター・ファーレンハイトは、やっぱりそれもスルーした。

『ありがとう。最初に君がメールをくれた時のアドレスはまだ使えるかい?』

『使えるよ。今も恋人との連絡に使っている』

『わかった。なら、その時が来たらそこに詳細を連絡する。恋人からメールが来たとぬか喜びさせるのは悪いけれど、我慢してくれ』

『了解。連絡が来ないことを祈るよ』

 再び抵抗。当然のように、スルー。

『僕がHIVに感染していると分かった日、彼は、自分は死んでもフレディには会えないだろうと言った』

 AIDSを発症して亡くなったフレディに、同じ死に方をしても会えない。僕は黙って言葉の続きを待つ。

『僕にHIVを伝染したから、自分は地獄に行くそうだ。フレディも同じようにHIVを伝染しているけれど、彼は大勢の人間を音楽で救っているから許されて天国に行ける。だから会うことは出来ない』

 地獄。他人の人生を狂わせた罪と罰。

『僕は天国に行けるだろうから、ライブがあったら代わりに行ってくれと言われた。僕は分かったと頷いた。でも本当は断りたかった。彼があまりにも寂しそうに自分が死んだ後の話をするから、断れなかったんだ』

 本当は断りたかった。その真意が、すぐ後に続く。

『一人でそんなもの聞いたって、何の意味もないのに』

 部屋中の空気がずっしりと重たくなった。指が動かない。動いてくれない。

『ジュン。僕はもう夕飯だ。そろそろ退席するよ』

 待ってくれ。僕は君に言いたいことがある。上手く言葉に出来ないけれど、スルーして貰いたくない想いが確かにあるんだ。

 モニターから離れ、目を擦る。胸に手を当てて深呼吸をする。その間に、パッと新しいメッセージが浮かんだ。

『ジュン』

 キーボードに手を乗せる間もなく、短いメッセージが続く。

『好きだよ』

 ミスター・ファーレンハイトが、チャットから退席した。

 メッセンジャーを閉じる。僕はしばらくぼんやりと天井の染みを眺めた後、音楽再生ソフトを起動させた。そして迷うことなく、一つの曲を選んで流す。

 アルバム『QUEENⅡ』より『マーチ・オブ・ザ・ブラック・クイーン』。

 ミスター・ファーレンハイトが一番好きな曲だ。

 椅子の背に身体を預け、目を閉じる。旋律が何度も何度も激しい転調を繰り返し、幻想的で邪悪で美しい世界が瞼の裏に広がる。

 ミスター・ファーレンハイトの彼も、この曲が好きだったのかもしれない。

 ふと、そんなことを考えた。

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