4-2


 ミスター・ファーレンハイトがメッセンジャーに現れなくなった。

 テスト前も、テスト期間中も、家にいる間はほとんどノートパソコンを起動させてメッセンジャーを監視し続けたけれど、ミスター・ファーレンハイトがオンラインになることは一度もなかった。治療が大変なのだろうか。それとも、人と話したい気分ではないのだろうか。心配しながらも踏ん切りがつかず、僕はメールを書いてはミスター・ファーレンハイトに送ることなく消すという行為を幾度となく繰り返した。

 三浦さんと話す頻度もグッと減った。たまに話してもただのクラスメイトだった頃よりずっとぎこちない。そうなっている原因は明白だったけれど、僕も三浦さんもそこには触れなかった。処置をしない限りその存在はがん細胞のようにどんどんと膨れ上がり、やがて手に負えなくなることは分かり切っていたけれど、それでも無視し続けた。

 金曜、中間テストが終わった。

 手応えは過去最悪。だけどテスト自体がもう僕にとってはどうでも良かった。帰りのホームルームが終わるや否や、学生鞄を担いで立ち上がる。テストの出来栄えやテスト後の打ち上げを語るクラスメイトに混ざらず、一人で廊下に出る。

「待って」

 女の声。振り返ると、三浦さんが鞄も持たずに立っていた。教室を出た僕を見て、慌てて追いかけてきたようだ。

「何か用?」

「今日の数学すごく良かったから、お礼言おうと思って。ありがとう」

「僕の力じゃない。三浦さんがちゃんと勉強したからだよ」

 嘘をついているつもりはない。なのに嘘くさい。下手な芝居を打っているよう。

「お礼に何か奢るから、これからどこか行かない? 明日の前哨戦みたいな感じで」

「ごめん。今日は予定ある」

 今度は明確に嘘をついた。三浦さんが目を伏せる。

「そっか。じゃあ仕方ないね」

 真偽は問われなかった。上手く騙せているのか、踏み込みたくないのか。おそらくは後者だろう。

「それじゃ、また明日ね」

 明日。ダブルデート。三浦さんが儚げに微笑む。

「本当に、楽しみにしてるから」

 良くない言葉が返ってくるのを避けるように、足早に三浦さんが去った。僕は再び廊下を歩き出す。ここそこで沸き起こっている解放感に満ちた喧騒が鬱陶しい。脳天気でいいよな。そんな僻みを覚えてしまう。

 ドン、と背中に衝撃が走った。

「純くーん。テストどうだったー?」

 ――脳天気オブ脳天気が来た。僕はちんぽこを揉みしだく亮平を引き剥がそうと右腕を抑える。しかし、いつになく強固に揉み続けて離れない。

「ちょ、亮平。離して」右腕を押す。ビクともしない。

「やだー、離さなーい」もみもみ、もみもみ。

「ヤダじゃなくて、離せ」気持ちいい。ヤバい。

「やだー」もみもみ、もみもみ、もみもみ、もみもみ。

「離せってば!」

 声を荒げ、亮平の胸に思い切り肘打ちをする。亮平が「ぐえっ」と短い悲鳴を上げ、ようやく股間から手が離れた。振り返ると、胸を抑えてうずくまる亮平と、そんな亮平を呆れたように見下ろす小野がいた。

 亮平が立ち上がった。そして僕に向かってへらへらと笑う。

「純くん、今日これから、ちょっと時間ある?」

「……ない」

「はい嘘。絶対嘘。食堂行こうぜ」

 亮平がスタスタと歩き出した。少し後ろをついて歩いていた小野が、振り返って僕をじっと見据える。「お前が来ないと終わらねえんだよ」。無言の重圧を受け取った僕は、仕方なく重たい足を前に進めた。


    ◆


 食堂のテーブルに座ってからしばらく、亮平は自分のテストがどれほど壊滅的だったかを滔々と語った。

 特に理系科目が全滅。数学は二十分で解けるところは全て解いてしまったから、あとは裏面に絵を描いていたらしい。亮平は「絵が素晴らしく上手なのでプラス八十点ですとかねーかなー」とぼやきながらテーブルに突っ伏し、ちらりと僕を見た。

「やっぱオレも純くんに教えて貰えば良かったわ。まあ、ラブラブカップルの邪魔は出来ねえけど。今宮から聞いたけど、純くんの家で二人っきりで勉強したりしたんだろ」

 本題の気配。僕の顔を下から伺いながら、亮平が口を開く。

「ヤったの?」

 僕は首を横に振った。亮平は「そっか」と呟き、むくりと身を起こす。そして隣でふてぶてしく腕を組む小野に、話を振った。

「小野っち、大人の階段を上った先輩として何か一言」

「あるわけねえだろ」

「……だよなー」

 亮平が溜息をついた。そして少し言い辛そうに尋ねる。

「なんでヤらなかったの?」

 ――勃たなかったからだよ。

 素直に言ったらどうなるのだろう。退いてくれるのだろうか。それとも逆に距離が縮まるのだろうか。緊張して勃たないことってあるよな。気持ちは分かるよ。小野がそんな風に理解を示して、亮平がそれに乗っかって、いつの間にか抜けるAVの話になって盛り上がる。異性愛者の男同士の会話は、そんな風になったりするのだろうか。

「亮平。もう止めろよ」

 小野が、亮平を険しい声で制した。

「お前はお節介なんだよ。安藤と三浦の問題は安藤と三浦で解決すれば良い。俺たちが口出すようなもんじゃない」

「それは、ちょっと冷たいだろ」

「冷たくねえよ。お前や今宮の方がおかしいんだ」

 小野が立ち上がった。冷ややかな目線で僕を見下しながら、冷ややかに告げる。

「自分がどうしたいかも分からない程度の気持ちなら、さっさと別れりゃいい。好きでもない女と付き合ったってしょうがねえだろ」

 体裁を取り繕わない、正直な言葉がグサグサと胸に刺さる。小野の言っていることは何も間違っていない。間違っているのは、僕の方だ。

「じゃ、俺、先に部活行ってるから」

 小野が食堂から出て行った。人気のないがらんとした空間に僕と亮平が取り残される。亮平が小野の出て行った先を見ながら、口を尖らせた。

「小野っち、彼女とヤってからずっとああなんだよな。超エラそうなの。童貞卒業すると人間って変わるんだな」

「自信がついたんだんだろ。悪いことじゃないよ」

「セックスなんて、まともな人生送ってる人間ならいつかはすることだろ。遅いか早いかだけで、大したことなくね?」

 その大したことないことを出来なかった奴が目の前にいるんだぞ。じゃあ僕はまともな人生を送っている人間じゃないのか。そう言いたいのか、お前は。

「早いなら、すごいだろ」

 学生鞄を持って立ち上がる。亮平がきょとんと僕を見上げた。

「どこ行くの?」

「ごめん。今日、本当に用事あるんだ」

 亮平が澄んだ瞳で僕を見つめる。僕は亮平を見つめ返す。教えてくれ。僕の瞳はお前にはどう映っている? 濁った嘘つきの瞳だと見抜いてるのか?

「――分かった。変なこと聞いて、悪かったな」

 亮平が、無邪気な笑顔を僕に向けた。

「純くんは昔から溜めこむタイプなんだから、困ったらちゃんと誰かに相談しろよ。そういう相手、いるのか?」

 一人いる。僕の顔も声も知らない、だけど誰よりも僕を知っている大切な友達。

「いるよ」

 僕は、亮平にくるりと背を向けた。

「いたよ、かもしれないけど」

 背中でガタッと椅子が動いた。亮平が立ち上がった音。僕はわざとらしくスマートフォンを取り出して時間を確認し、まるで用事に遅れそうな素振りを出しながら駆け足で食堂から離れた。

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