7-3

 目的の『QUEENⅡ』はミスター・ファーレンハイトの部屋に置いてあるということだった。部屋は仏壇を置いた以外、全て亡くなった時のまま保存してあるらしい。片付ける気が起きない。母親は、そう言っていた。

 母親の先導で二階に上がり、廊下を歩く。薄茶色の板に銀色のドアノブがついた扉の前で母親が足を止める。そしてドアノブを掴むことなく、すっとその扉の前からどいた。

「こちらです」

 お前が開けろという無言の圧力。僕は促されるまま一歩前に出て、ドアノブを掴む。

 ずっと、会いたいようで会いたくなかった。

 僕にとって君は神様だった。誰にも言えない僕の悩みを真正面から受け止め、生きる道を示してくれる神様。だから君が息を吸い、物を食い、人と話しているところを想像したくなかった。人間の男女から生まれた普通の人間なのだと思いたくなかった。

 その偶像崇拝を、今、断ち切る。

『開けるよ』

 脳内にチャットウインドウを展開し、ノック代わりにメッセージを送る。返信はすぐに送られて来た。

『どうぞ』

 誰にも気づかれない程度、ほんの僅か頷く。ドアノブを捻り、扉を思い切り開く。

 線香の匂い。

 強烈な死の香りに僕は顔をしかめた。部屋をぐるりと見回す。水色のシーツがかかったベッド。ノートパソコンの置かれた学習机。僕の部屋と大差ない。部屋の一番奥で声高に存在を主張する、黒々とした仏壇以外は。

 一歩、足を進める。仏壇の遺影がよく見えるようになる。「やあ」という爽やかな呼びかけが聞こえてきそうな、屈託ない笑顔を浮かべるミスター・ファーレンハイトと視線がぶつかる。

 僕は、動けなくなった。

 ――そんな。

 部屋をもう一度見回す。質素で飾り気のない、僕の部屋によく似た雰囲気の部屋。だけど一つ、大きく違う点がある。本棚に納まっているたくさんの薄い本。僕もその本を持っている。だけどもう読んではいない。物置にしまった。

 確かに、君はそういうところがあった。

 斜に構えて、気取った物言いをして、それを僕は格好いいと感じたけれど、君に影響された僕の言葉を聞いた三浦さんは違う感想を抱いていた。僕はあの時、「言われてるぞ」なんて思った。君のことを知らない三浦さんが君を雑に理解していると思った。三浦さんの方が正しいなんて、全く思わなかった。

『言ったはずだよ』

 真っ白になった頭に、文字が浮かぶ。

『僕の言葉なんて全部嘘かもしれない、と』

 僕の傍で、三浦さんが譫言のように呟いた。


「……中学生?」


 母親が、わっと声を上げて泣き出した。ずっと我慢していた。少しでも感情を漏らせばそこから全てこぼれてしまうから抑えていた。それが分かる悲痛な泣き声。

 よろよろと仏壇に近寄る。あどけない顔で笑う少年の遺影を左手で持ち上げる。本棚に納まっている中学の教科書を開き、二次方程式やら素因数分解やらを学ぶ姿がとてもよく似合いそうな、幼さの中に賢さを感じさせる顔立ち。

「……そういえば、言ってたね」

 自分の声に促されるように、眦から涙がこぼれた。

「高校、行ったことないって」

 ――馬鹿野郎。

 心からそう思えた。全く納得なんて出来なかった。こんな話、納得してたまるか。

 君は馬鹿だ。大馬鹿野郎だ。利口ぶって、差し出されたテストをさらさらと解いて時間内に提出して、まだみんながうんうん悩んでいる教室から得意気に出て行ったつもりかもしれないけれど、その解答は零点だ。

 時間を使って確かめることがあった。迷うべきところがいくらでもあった。

 僕にあったように、君にだってあったはずだ。

 生きていて良かったと思える出来事が、絶対にあったはずなのに。


「……なんだよ」


 真に恐れるべきは、人間を簡単にする肩書きが一つ増えることだ。

 人間は、自分が理解出来るように世界を簡単にしてしまうものなのさ。

 自分だけは、自分を簡単にしても許される。


「ずっと、憧れてたのに」


 女子高生から不惑を過ぎた男性まで手玉に取るなんて、君も魔性の男だな。

 僕たちは優秀なセンサーを一つ、身体に備えているじゃないか。

 ペニスが勃つ「好き」と、勃たない「好き」だ。


「格好いいなって、思ってたのに」


 もうこれ以上失うものがない人間ほど、他人に偉そうに説教を垂れるものさ。

 君にとって「普通のセックス」とは、いったい何なんだ?

 変えるのは君自身じゃない。君の中の「普通」だ。


「お前――」


 ジュン。

 好きだよ。


「ただの、中二病かよ」

 遺影を胸に抱く。溢れ出る涙が止まらない。僕は嗚咽を上げながら、声にならない声で彼の本当の名前を、何度も、何度も呼び続けた。


    ◆


 母親から『QUEENⅡ』を受け取った僕たちは、すぐに家を立ち去った。僕の知らないミスター・ファーレンハイトについて、聞きたいことが無いわけではない。だけど聞いてはいけない。目を真っ赤に泣き腫らした母親を見て、そう思った。

 家を出て、ミスター・ファーレンハイトの恋人が眠る墓地に向かう。ひどく暑いのに歩いてもあまり汗が流れなかった。肩を並べて歩く三浦さんが、俯き言葉を落とす。

「安藤くん、生きてて良かったね」

 頷く。帰ったら母さんに謝ろう。そう思った。

 目的の墓地は、近くのバス停からバスに乗り、停留所を三つ過ぎたところにあった。僕たちはまず墓地の管理所に行き、線香の束を買った。それからミスター・ファーレンハイトの恋人の名前を告げて墓地の場所を聞きだし、そこに向かう。立ち並ぶ無数の墓石を眺めながら、三浦さんが呟いた。

「なんか、『はかー』って感じだね」

「気にいったの?」

「うん」

 下らない会話を交わしながら歩く。やがて、ミスター・ファーレンハイトの恋人の苗字が刻まれた墓石の前に辿り着いた。AIDSで亡くなった同性愛者が下に眠っているなんて全然分からない、何の変哲もない灰色の石碑。

「亡くなった人にこういうことを言うのもアレなんだけど」

 三浦さんが、複雑な表情で口を開いた。

「この人がまだ義務教育も終わってない子に手を出してこうなったと思うとさ、ちょっと考えちゃうよね」

「BL星人の中には、生徒に手を出す中学校教師とか結構いたけど」

「……BL星の男子は十歳になると慣習的に成人と見なされるから」

「無茶苦茶な星だね。犯罪率も高そうだ」

 おちょくる。三浦さんがむうと頬を膨らませた。

「安藤くんは全く気にならないの?」

「まだ高校生なのに妻子持ちの中年男性と付き合ってる僕に、そういう倫理的なものを咎める権利があると思う?」

「……ないね」

 三浦さんが口を閉じた。僕は左手で墓石を撫でる。ひんやりとした感触が伝わる。

「この人はきっと、自殺した彼のことが告白される前から好きだったんだよ」

 世界は簡単じゃない。同じ同性愛者だから気持ちが分かるなんてことはない。顔すら知らない人間の想いを死後好き勝手に推察するなんて、おこがましいにもほどがある。

 だけど、語らせてほしい。

「僕たちの恋愛は普通、好きになってもいい人を探すところから始まるんだ。そういう人相手じゃない、ただ気持ちが強く揺れ動くだけの恋は、たいていは実らない」

 終業式の日、僕を駅まで追いかけてきた少年。あの子の恋もきっと実らない。想いの深さとか、積極性とか、そういうものとは無関係に。

「だから、ずっと密かに好きだった相手から告白されるなんていう奇跡が起きたら、自分で自分を抑えきれないぐらいに心が揺らぐのは、少し分かる」

 そういうことですよね。墓石を撫でながら心の中で問いかける。三浦さんが髪を掻き上げながら、大人びた声でしっとりと呟いた。

「そんなに好きだったのにどうして、死の間際は離れて行っちゃったのかな」

「きっと自分を忘れて、一人で生きる力を手に入れて欲しかったんだよ。自分が満足して死ぬ道じゃなくて、愛する人を生かす道を選んだんだ。結果的には、裏目に出ちゃったのかもしれないけど」

「……そっか」

 三浦さんが線香にマッチで火をつけ、その半分を僕に渡した。まずは僕が線香を供えて黙祷し、その後に三浦さんが同じことをする。黙祷を終えた後、三浦さんはハンドバックから『QUEENⅡ』を取り出し、僕に差し出した。

 差し出された『QUEENⅡ』を受け取る。黒を背景に黒い服を着て目を瞑り佇むメンバー四人が、どこか幻想的な雰囲気を醸し出すジャケット。それを墓石の前に置く。

 これで、約束は果たした。

「帰ろうか」

 物憂げに呟く。すると三浦さんが、はあーと盛大な溜息をついた。

「それはないでしょ。ガックリきたわ」

「どうして。もう用事は終わったよ」

「ここに来る話をする時、最初、わたしをなんて言って誘ったのか忘れたの?」

 温い風が吹いた。三浦さんが、僕を挑発するように笑う。

「海、行くんでしょ?」

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