7-2
ミスター・ファーレンハイトの実家へは、上野から特急で行くことにした。待ち合わせ場所は上野駅の中央改札口。改札口に向かう途中、上野動物園に行くのだろうと思われる家族連れをたくさん見かけた。僕はぼんやり、幼い頃のことを思い返す。
待ち合わせ場所に辿り着いてすぐ、ひらひらした白いワンピースを着て、小さなブラウンのハンドバックを提げた三浦さんを見つけた。歩み寄り、声をかける。
「すごく女の子っぽい服着てるね」
「イメージは高原の避暑地に訪れたお金持ちのお嬢様かな。麦わら帽子を被るとパーフェクトなんだけど、アホと紙一重だから止めた」
三浦さんが服を見せつけるように、スカートをつまんで広げた。
「どう? かわいい?」
実に難しい質問だ。僕は困りながら答える。
「かわいいと思うよ」
「なに『と思う』って」
「僕は女の子に興味がないから『かわいい』が雑にしか分からないんだ」
「でも何となくは分かるんでしょ?」
「分かるけど、個体差があまりない。例えば、犬はかわいいよね。でも同じ犬種の犬がたくさんいる時、あいつが特にかわいいとかはあまり言わないよね。ブルドックならブルドックかわいいでまとめられちゃうよね。そんな感じで、アイドルグループの中で誰々が一番かわいいとか言われても、全員同じようにかわいい子だなとしか思えない。三浦さんだって同じぐらいかわいい子だと思う」
「……なんだろ。アイドル並にかわいいって言われてるのに、全然嬉しくない」
三浦さんがじっとりと僕を見る。そして「っていうか、なんでブルドックなの?」と不満の声を上げる。僕は「別に理由なんかないよ」と強引に話を打ち切り、そそくさとホームに向かった。
特急に乗り、二人掛けの席に隣り合って座る。三浦さんが窓際、僕が通路側。猛スピードで切り替わる街の景色を眺めながら、三浦さんが呟いた。
「なんか、『たびー!』って感じがするね」
「ボキャブラリーが貧困だね」
「いいねえ、その口の悪さ。やっぱり安藤くんはそうじゃないと」
僕は黙った。封殺された僕を見て、三浦さんが楽しそうに笑う。
「ところで今日、どうしてわたしを連れて来たの?」
三浦さんの笑みが、愉悦から慈愛に変わった。
「泣いてるところ、見られちゃうかもしれないのに」
泣いているところを見られる。それは多分――ない。
「僕は――」
シートに深く、背中を預ける。
「今日、泣かないと思う」
三浦さんの顔から、笑みが消えた。
「彼は自ら死を選んだ。理由は違うけれど、僕も同じことをしようとした。だから、どうしてこんなことをした、こんなことは間違っているって素直に思えないんだ。そういうこともある、そういう人もいるって、彼の死に納得してしまう。だからきっと泣けない。そして友達の死を前に涙一つ流すことが出来ない自分を、僕はまた嫌いになる」
列車が揺れる。呼応して、三浦さんの心が揺れているのが分かる。その揺れを抑えるように、僕は芯の通った声を発した。
「でも、三浦さんが一緒ならそうならない」
三浦さんに笑いかける。弱々しく、だけど確かに。
「三浦さんはどんな僕でも認めてくれる。全部さらけ出した僕を全部そのまま受け止めてくれる。そういう三浦さんと一緒なら、僕はどんな自分でも認めることが出来る。そんな気がするんだ。だから今日、三浦さんを連れて来た」
カムアウトの時、三浦さんは泣いていた。僕を好きな気持ちはどこに行けば良いのだと泣いていた。丸ごとの僕を恐れることも忌み嫌うこともせず、自分の想いが叶わないことを嘆いて、我が儘に泣いていた。
申し訳ないと思った。だけど――
嬉しかった。
「あのさ」
三浦さんが握った拳を、顔の前に掲げた。
「もし泣けなかったら、泣くまで殴ってあげようか?」
僕は開いた左手を顔の前で振り、苦笑いを浮かべた。
「遠慮しとく」
◆
プラットホームに降りた瞬間、潮の香りがした。
駅にはガラス張りの展望スペースがあり、真夏の陽光を跳ねかえしてスパンコールみたいに輝く太平洋が一望できた。三浦さんが地球を抱きしめようとするように両腕を大きく広げ、しみじみと感慨深げに呟く。
「なんか、『うみー!』って感じがするね」
「本当にボキャブラリーが貧困だね」
「じゃあ安藤くんの潤沢なボキャブラリーで代わりに表現して。さん、はい!」
「……『うみー』って感じだね」
「いい逃げ方だと思うよ。ボキャブラリーは貧困だけど、頭の回転は早いね」
手玉に取られている。僕の扱い方を心得て来ている。ムズ痒い。
「いいから、早く行こう」
「はいはい」
三浦さんを先導して駅を出る。駅前のレストランで昼食を食べ、ロータリーからバスに乗り、ミスター・ファーレンハイトの家近くのバス停で降りる。ギラギラ輝く太陽の熱気にやられそうになりながら、歩くことおよそ五分。教えられた本名の苗字と同じ表札が下がった二階建ての一軒家が、僕たちの前に姿を現した。
「ここだ」
表札下の住所とメモを見比べ、最後の確認をする。二人でインターホンの前に立つ。横の三浦さんが、家を見上げながらふーと細く息を吐いた。
「三浦さん。貧困なボキャブラリーで今の気持ちを表現して」
「……『いえー』って感じ」
「ありがとう。下らなすぎて勇気出た」
インターホンを押す。
ピンポーンというどこか間の抜けた電子音の後、「はい」とくぐもった女性の声がスピーカーから届いた。母親だろうか。一人っ子だと言っていたからその可能性が高い。
「あの――」
ミスター・ファーレンハイト。仕込みはOKだね。信じるよ。
「息子さんのCDを取りに来ました」
沈黙。言葉を付け足したい衝動を堪えながら、ギブスの中の右手に汗をにじませ、じっと相手の反応を待つ。やがてスピーカーから、声が届いた。
「分かりました。少々お待ちください」
通じた。すぐに玄関の扉が開き、中からロングスカートを履いた女性が現れる。この人がミスター・ファーレンハイトの母親。若い。そして――
――細い。
というより、やつれている。骨に貼りついた肌。どこを見ているか分からないギョロリとした目。生気も感情もまるで感じない。人形――いや、人型の模型だ。
「ジュンさん、ですよね。ネットで知り合った友達だと、話は伺っております」
母親が深々とお辞儀をした。声も固くて冷たい。
「隣の方は、どなたでしょうか」
母親が三浦さんをちらりと見やる。三浦さんは堂々と答えた。
「彼女です」
「ジュンさんは同性愛者だと息子から聞いていますが」
三浦さんが硬直した。僕は左手を額にやる。当たり前だ。知らないわけがない。
「えっと、彼女というか元彼女というか、いや、別れ話はしていないんで、わたしは彼と別れたつもりは全くないんですけど、とにかくそういう関係で、わたしは彼が同性愛者であることもちゃんと知ってて……」
「三浦さん。ごめん。ちょっと黙って」
しどろもどろになる三浦さんを制し、代わりに前に出る。
「僕は確かに同性愛者です。だけど異性愛者になりたくて、彼女と付き合うことで自分を変えようと試みました。結局その望みは叶わず、色々な出来事があって、僕も彼女も僕がどうしたって同性愛者であると思い知りました。それでも彼女は僕の傍にいてくれる。僕たちはそういう関係です。僕にとってとても大切な人だから今日は来て貰いました。彼女のことは、息子さんも知っています」
真摯に真実を告げる。母親は眉一つ動かさず、淡々と呟いた。
「なぜ、望みが叶わなかったと言えるのですか」
予想外の質問。僕はグッと怯んだ。
「女性と付き合い、それほどまでに大切な女性と思うのであれば、異性愛者になったと言ってもいいのではないですか」
異性と付き合い、異性を大切に想う。そういう僕はもう異性愛者になっている。女性を愛する気持ちを手に入れている。
「――ありえません」
僕は、強く言い切った。
「僕が好きな男性を想う気持ちと、彼女を想う気持ちは、全く違います」
三浦さんが目を伏せた。母親は動じない。無機質な態度から無機質な言葉を放つ。
「治らなかったのですね」
来週ギブスが外れる予定の右腕に、折れた直後のような痛みが走った。
「治るとか治らないとかじゃないんです。ただそういう風に生まれて来ただけ。理由も原因も無いから治療なんか出来ません。出来るなら僕は――」
出来るものなら――
「――とっくに、やっています」
言葉は力なく、囁くようになった。三浦さんと正反対だ。この人と話していると、自分をどんどん嫌いになる。
母親が「そうですか」と平坦な声で呟いた。そしてまるで景色を見るように僕をじっと見据えながら、大きく口を開いた。
「私と夫は、あの子を治そうとしました」
ざわっと、全身が総毛だった。
「一度感染したHIVウィルスが身体から消え去ったという話は聞かない。だけど生きているうちに自然と性的嗜好が変わったという話ならいくらでもある。現代の医学ならばHIVは死に至る病ではなく、体外受精で子どもすら作れる。だから今からでも十分にまっとうな人生は送れる。そう、二人揃って熱弁しました」
まっとうな人生。お前は間違っている。そういう宣言。
「息子は私たちの言葉に全く耳を貸しませんでした。『宇宙人と話しているみたいで疲れる』と私たちを邪険にしました。そんな息子に夫は『親に向かってその態度は何だ!』と怒り、私は『あなたはどうして私たちをこんなに苦しめるの』と泣きました。そんなことを、毎日のように繰り返しました」
理解の無い両親、それをあしらうミスター・ファーレンハイト。やがて家族はどんどんと溝を深め――取り返しのつかない結果を呼ぶ。
「でも――」
母親の眉がほんの少し下がった。初めて見せる感情らしきもの。
「一番苦しんでいたのは、あの子だったんですよね」
重たい沈黙が流れる。母親が僕たちに背を向けた。そして玄関の扉を開いて抑えながら振り返り、僕を見つめる。
「ジュンさん」
固い声が氷の刃となって、僕の心臓に突き刺さった。
「あの子に会ってやって下さい」
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