Track6:Somebody to Love

6-1

 僕の身体は、僕が思ったより傷ついていなかった。

 植え込みに背中から、受け身を取るように落ちたのが良かったようだ。右腕は完全に折れていたし、肋骨にも何本かひびが入っていたけれど、一ヶ月ほど入院すれば後は通院でどうにかなるらしい。「期末テストにも間に合うよ」。医者は、そう言って笑った。

 大部屋が空いていなかったから、入院は個室になった。そのうち大部屋が空いたら移る予定。昼の仕事を早退して病院に来た母さんは、ベッド脇のソファに座りながら「個室って高いのね。あんたの進学費用が吹っ飛んだわ」と笑った。

「大学は国立しか行かせないからね。自分のせいなんだから、我慢しなさいよ」

 僕は「分かった」と頷いた。会話が止まる。沈黙が生まれる。話すことが何もないから生まれる沈黙と、話したいことを塗りつぶすために生まれる沈黙は違う。僕と母さんの間に流れている沈黙は、明らかに後者。

 母さんが口を開いた。

「純くん、男の人が好きなんだってね」

 ヒビの入った肋骨に、鋭い痛みが走った。

「びっくりしたけど、ちょっと納得しちゃった。アイドルとか女優とか、全く興味無かったものね。少し変だなーとは思ってたから」

 母さんが、僕に向かって弱々しい笑みを浮かべた。

「彼氏はいるの?」

 ふるふると首を横に振る。母さんは「そう」と呟き、俯いた。そしててらてらと輝くフローリングの床に、ポツリと言葉を落とす。

「間違いないの?」

 何が言いたいのかは、すぐに分かった。

「誰にだって同性に憧れる時期はある。母さんも学生の頃、とても素敵な先輩の女性がいて、その人と話すことが本当に嬉しい頃があった。そういう風に人に憧れる気持ちを恋だと勘違いしている。もしかしたら、そうなんじゃないの?」

 とっくの昔に僕が検討して廃棄した仮説を、母さんが語る。そうであって欲しい。そうであってくれ。昔の僕と同じ、そういう気持ちで。

「彼女だって、ちゃんといたんでしょ?」

 ちゃんと。これが正しい。そう示すための言葉。

「――ふざけんなよ」

 一言言ってしまえば、もう止まらない。満杯に水が入ったペットボトルを、蓋を外してひっくり返したように、次から次へと言葉が溢れてくる。

「間違いないに決まってんだろ。ずっと悩んでたんだ。なにかの間違いなんじゃないかって、そのうち僕も女の子を好きになるんじゃないかって、僕が、僕自身が一番、期待しながら生きて来たんだ。男の人が好きな自分が嫌で嫌でたまらなくて、でもやっぱり男の人しか好きになれなくて、もがき苦しみながら受け入れたんだ。そういうの、分かってんのかよ。欲しくもない彼女を欲しがらなくちゃいけない。好きでもないアイドルを好きだと言わなくちゃならない。友達は何歳までに結婚したいとか子供は何人欲しいとかぼんやりした将来の話をしているのに、一人どっかのアパートで誰にも気づかれないで孤独死するリアルな未来が頭から離れない。そういう風に生きている僕の気持ちが、母さんに分かるのかよ。だいたい、母さんにだって責任はあるかもしれないんだ。同性愛は生まれつきのもので先天的要素が強いなんて言われているけれど、実のところはまだ明確には分かってない。仮に生まれつきだとしても、同性愛因子が発現に至るのは環境の影響が大きいという説もある。だから、母さんが離婚して僕から父親を奪うから、僕は父親の愛情を求めて同性愛者になった可能性だってあるんだ。母さんが離婚しなければ、僕は同性愛者にならないで、こんな苦しみを味あわないで済んだかもしれないんだ。なんで離婚したんだよ。なんで僕から父さんを奪ったんだよ。なんで――」

 両目から、ポロリと涙が零れ落ちた。

「なんで、僕なんか産んだんだよ」

 もう、イヤだ。

 こんな人生はイヤだ。リセットしたい。無かったことにしたい。どうして僕がこんなに苦しまなくちゃならないんだ。僕は生まれて来ただけ。ただそれだけなのに。

「なんで、僕は、まだ生きてるんだよ」

 シーツをギュッと掴む。ポタポタ落ちる涙を見つめる。声は上げず、肩を震わせることもせず、ただ水滴を落として薄いシミを広げる。

 ふんわり、柔らかい匂いが僕を包んだ。

 母さんが僕の頭を守るように抱く。細い手がゆっくりと僕の頭を撫でる。子猫の毛づくろいをしてやる親猫のように、優しく撫で続ける。

「ごめんね」

 穏やかな声が、頭の上から聞こえた。

「ごめんね」

 視界がぼやける。もう、何も見えない。僕は母さんの胸に顔をうずめた。そして止まらない涙を服で拭いながら、小さな子どもみたいに「うん」と頷いた。


    ◆


 入院二日目、亮平と三浦さんがお見舞いにやってきた。

 クラスのみんなでお金を出し合って買ったという、フルーツゼリーの詰め合わせを持って来た。ベッド脇の丸椅子に座って貰い、三人で三個、その場で開けて食べる。亮平は美味い美味いと言いながら一個目のオレンジのゼリーをあっと言う間に食べきり、物欲しそうな目で僕を見ながら言った。

「ねー、純くん。もう一個食べていい?」

「いいよ」

「ありがとー。純くん、大好き」

 亮平が二個目のピーチに手を伸ばす。三浦さんが、呆れた顔で言った。

「お見舞い品を自分でおかわりする人、初めて見たわ」

「いやー、純くんの顔見たらなんか安心しちゃってさー」

 あむとゼリーを頬張りながら、亮平が僕に尋ねる。

「どんぐらいで学校来れるの?」

 一瞬、誤魔化すかどうか悩んだ。だけど言うことにする。

「もう行かないかも」

 亮平と三浦さんが、揃って大きく目を見開いた。

「母さんの親戚の家が大阪にあるんだ。そこに身を寄せる形で転校する話が出てる。まだ決めたわけじゃないけどね」

 戻りたくないなら戻らなくていい。辛いなら逃げてもいい。何があっても絶対に見捨てないから安心してくれ。

 母さんはそう僕に語った。僕はすぐに答えを出せず、「考えさせて」と返事をした。母さんは「いくらでも考えなさい」と言った。「考えているうちに考える暇も無いぐらい忙しくなっちゃうのが一番いいかもね」と言いながら、笑った。

 三浦さんが眉を大きく下げ、僕に語りかける。

「安藤くん。大丈夫だよ。何かあったら、わたしや高岡くんが絶対に守る」

「ありがとう。でも、そんな甘えるわけにはいかないよ」

「甘えたっていいだろ」

 亮平が、少し強めに言葉を発した。

「甘えろよ。純くんはいつも、それが下手くそなんだ」

 分かってるよ。僕はきっと甘えるのが下手で、だから思いきり甘えたくて、年上の恋人を選んでいる。自己分析は出来ている。

「そうかもね」

 さらりと流す。流された亮平が不満そうに口を尖らせる。そしてゼリーを一息に食べきるといきなり椅子から立ち上がり、三浦さんに告げた。

「三浦、オレ、ちょっと席外すわ」

「え?」

「頼んだぞ」

 亮平が個室から足早に出て行く。ポカンと呆ける僕と三浦さんが後に残される。やりたいことは分かるけれど、唐突過ぎてついていけていない。

「……えっと」三浦さんがたどたどしく話し始めた。「わたしね、個人的に、お土産持って来たんだ」

 三浦さんが学生鞄を膝の上に置き、ごそごそと漁り出した。そしてずっしり重たい紙袋をベッドの上に置く。中を覗くと、ブックカバーのかかった本がたくさん。

「なにこれ?」

「BL本」

 僕は、紙袋を覗いたまま固まった。

「入院中、暇かなと思って。安藤くんのために年の差モノ中心にセレクトしたから、良かったら読んで。読んだら感想教えてくれると嬉しいな。なかなか、本物の人にそういうこと聞く機会ないから」

 三浦さんが椅子から立ち上がり、僕の左側に回った。仰々しく固められた右腕とは対象的に、何の装飾も施されていない左腕を両手で掴み、僕の左手をそのまま自分の胸の上に持って行く。

「安藤くんに知ってもらいたいの」

 ぷにぷに。おっぱいの感触が伝わる。

「わたしが安藤くんを知ったように、安藤くんにもわたしを知ってもらいたい」

 ドクドク。心臓の鼓動が伝わる。

「わたしのこと、分かって。どういう人間か理解して。それから、ちゃんと話をしよう」

 僕の左腕から三浦さんの手が離れた。支えを失って、手がベッドに垂れる。

「高岡くん呼んでくる。BLの話は内緒にしてね」

 三浦さんがBL本の紙袋をベッド脇のラックにしまい、個室の出入り口に向かった。だけどその途中、何かに気づいたようにピタリと足を止めて振り返る。

「言っておくけどわたし、まだ安藤くんと別れたつもりないから」

 三浦さんが右手のひとさし指と親指で銃の形を作り、僕に銃口を向けた。

「そう簡単には逃がさないよ」

 バン。

 銃を撃った反動みたいに、三浦さんがひとさし指を軽く上に向ける。そして個室から出て行く。撃たれた僕は、死んでいなかった。死んでいなかったけれど、確かになにか、熱い、弾丸のようなものが、胸の中に残っていることは感じていた。

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