5-4
六限目になる。
梅雨なのに空はカラカラの快晴。絶好の運動日和。分かっている。神様という奴はとんでもなく性格が悪い。そうじゃなきゃ僕のような人間は生まれない。
ジャージと体育着を入れた袋を持って空き教室に向かう。中のわいわいと楽しげな雰囲気が扉から漏れてくる。自然に、さりげなく。自分に言い聞かせ、深呼吸をしてから扉を開ける。
会話が、ピタリと止まった。
誰かが黙る。話している奴のボリュームが相対的に大きくなる。目立つからそいつも黙る。そういう沈黙の連鎖が一瞬で広がった。僕は誰の顔も見ないまま教室の奥に行き、みんなに背中を向けながら、夏服シャツのボタンを一つ外す。
左肩を、物凄い力で引っ張られた。
仰向けに尻もちをつき、床に手をついて上半身を起こす。冷徹な目で僕を見下ろす小野と視線がぶつかった。小野は自らの要求を、端的に、分かりやすく告げる。
「出てけよ」
小野は続けて、要求の理由をこれまた分かりやすく告げる。
「ホモがいると着替えらんねえだろ」
僕はゆっくりと立ち上がり、パンパンと身体についた埃を払った。
「どうして」
「お前のオカズになる気はねえんだよ」
「そんなことしない」
「変態ホモの言うことなんて信用出来るわけねえだろ」
うるせえ、ナルシスト。お前は女なら無条件でちんぽこ勃つのかよ。だいたい、仮に僕がお前をオカズにしたとして、それの何が悪いんだよ。お前だってタイプの女子をオカズにして抜いたことぐらいあるだろ。
小野が僕を睨む。僕は小野を睨み返す。緊迫した雰囲気の中、亮平が間に入った。
「小野っち! 本当にいい加減にしろよ!」
小野が、やれやれという風に肩を竦めた。
「俺はみんなが思ってるけど言えないことを代表して言ってるだけだぞ」
「ふざけんな! オレはそんなこと思ってねえよ!」
「本当に?」
小野が亮平を見つめながら、僕を指さした。
「お前はコイツのこと、本当に気持ち悪くねえの?」
亮平が顎を引く。勢いが、明確に削がれた。
「男のチンポが好きで、男に自分のチンポ勃たせてるコイツのこと、理解しちゃうの?」
教室の全員が着替えの手を止めて諍いを眺めている。答えを待っている。亮平はわずかに俯きながら、ボソボソと答えた。
「今はそういうの、気にしない時代だろ。それに好きでそういう風になったわけでもないんだ。もちろん、病気でもない。だから――」
「質問に答えろ」
強い口調で、小野が亮平の言葉を遮った。
「時代がどうとか、好きでなったわけじゃないとか、病気じゃないとか、そんなのはどうでもいいんだよ。こっちには何の関係もない。大事なのは――」
小野が再び僕を指さす。教室中に響き渡るような大声を上げる。
「俺たちが、コイツを気持ち悪いと思うかどうかだろ!」
俺たち。「僕」と「それ以外」という風に、抜けなく漏れなくクラスを分類する言葉。もちろんお前は「それ以外」の方だよな。そういう風に暗に問いかける単語。
「亮平。もう一回聞くぞ」
僕に人さし指を向けたまま、小野が亮平に迫る。
「お前はコイツが気持ち悪くないのか?」
僕と亮平が出会ったのは、僕の両親が離婚してすぐのこと。
離婚した後、母さんは古くからの友人を頼り、僕を連れて今の住まいに引っ越した。僕は探検がてら近所を散歩し、そのうち公園に辿り着いた。僕と亮平がそれから長いこと溜まり場にする公園。
公園にはたくさんの子どもたちがいた。だけど僕は話しかけられなかった。ベンチに座って、砂場やブランコではしゃぎまわる子どもたちを、ルールの分からないスポーツの試合を見るようにぼうっと眺めていた。
一人、ものすごくうるさい奴がいた。
そいつは僕と同じぐらいの年の男の子で、友達と鬼ごっこをやっていた。鬼に追いかけられながら「ぴぎゃー」とか「わぎゃー」とか叫びながら公園を走り回っていた。鬼に追いかけられていない時も「うびゃー」とか「ひびゃー」とか叫びながら走り回っていた。そのうちはしゃぎ疲れたのか足を止め、僕の方を向いた。そいつ――亮平はベンチに駆け寄って僕の隣にヒョイと座り、鬼ごっこを続ける友達をまるっきり無視して僕に話しかけてきた。
「なー、お前、この辺の奴じゃないよな」
まんまるの目をキラキラ輝かせて、亮平がじっと僕を見つめる。僕は、たどたどしく質問に答えた。
「えっと、引っ越してきたばっかり」
「そーなんだ。どこから来たの?」
「千葉」
「いくつ?」
「五歳」
「同じだー。名前は?」
「大石……じゃなくて、安藤純」
亮平が、パチパチとまばたきを繰り返した。
「名前二つあるの?」
「変わったんだ。父さんがいなくなっちゃったから」
「そうすると名前変わるの?」
「変わるみたい」
開いた足の間に両手をつき、ぷらぷらと落ち着きなく前後に揺れながら、亮平が「そっかー」と呟いた。そして顔をくしゃくしゃにして、僕に笑いかける。
「じゃあ、純くんだ」
純くん。純くん。純くん。
亮平が僕を呼ぶ響きは、いつも温かかった。僕は、そういう風に僕を呼んでくれる亮平が「大好き」だった。中学生の時に五十過ぎた男の先生を好きになって、自分の性癖を自覚しても、その「大好き」は変わらなかった。やがて同じ高校の同じクラスになり、「オレと純くんは運命の赤い糸で繋がってるな」と笑う亮平に、僕は「そうかもね」と笑い返した。赤い糸ではないけれど、何かしらの運命的な繋がりはあるんだろうな。本気でそう思った。
だから、僕は分かる。
小野に迫られ、顔全体を下側に引っ張られたように眉尻も目尻も口角も下げて、申し訳なさそうな表情をしている亮平が何を考えているか、僕には分かる。
「オレは――」
いいよ。
無理しないでいい。
「分かった」
声を張る。亮平に注目していた全員が、一斉に僕を向く。
「分かった。出て行く。確かに、僕がいたら着替えづらいよな」
小野がふんと鼻を鳴らし、亮平が顔を伏せた。僕は身体中に突き刺さる視線を感じながら、悠々と、教室の奥に向かって歩き出す。
出て行くと言っておきながら奥に向かう僕を前にして、視線の質が興味から困惑に変わった。やがて僕が窓際に着き、ガラリと音を立ててガラス窓を開いた時、その視線は困惑から驚愕に変わった。
亮平が、大声で叫んだ。
「純くん!」
窓枠のサッシに手をかける。足を上げ、その上に乗る。背中を外側に向け、教室のみんなを見下ろすように窓枠の上に立つ。高く昇った太陽の光が首筋に当たって、皮膚がちりちりと焦げる。
「亮平」
僕は、笑った。
「今まで本当にありがとう。僕が今日まで頑張れたのは、亮平のおかげだ」
「純くん! 止めろ! オレは――」
「僕さ、亮平とセックスする夢見たことあるんだ。すごい変態だろ」
亮平の言葉が止まった。だけどすぐ、再び口が動く。
「それが、何だよ」
真っ直ぐに僕を見つめながら、亮平が語る。
「オレだって、英語の藤センとセックスする夢見たことあるぞ。あのババアの赤いブラがシャツ越しにスケスケだった日があったんだ。その日に見た。オナ禁すれば頭良くなるって聞いたから、オナ禁チャレンジ中でさ、起きたら夢精してた。四十過ぎたデブ女とセックスする夢見て夢精だぞ。引くだろ。オレって、変態だろ」
僕は答えない。笑顔を貼り付けたまま、穏やかに亮平を見下ろす。亮平が隣で俯く小野の背中をドンと押した。
「小野っち! 早く謝れよ!」
小野は動かない。教室の床を見つめて微動だにしない。僕は、優しく語りかける。
「小野」
小野の背中が、ビクリと上下した。
「大丈夫。お前のせいじゃない。誰かに聞かれたらそう言って構わない。ここにいるみんなが証人だ」
誰のせいでもない。僕が悪い。僕が、こういう風に生まれてしまったから。
「僕は疲れた。こんな人生、これ以上やってもしょうがない。ここで終わらせたい。それだけなんだ。だからお前は、関係ない」
小野がゆっくりと顔を上げた。いやに澄んだ、真摯な目で僕を見つめる。
「安藤」
――止めろ。今更、そんな目で僕を見るな。諦めきれなくなるだろ。
「バイバイ」
両腕を広げ、窓枠を蹴る。
心臓がふわりと浮かび上がる感じがした。ジェットコースターでてっぺんから落ちる時と同じ感覚。うんと小さい頃に父さんと行った遊園地のことを、その時はジェットコースターなんか乗っていないのに、なぜか思い出した。
ごめん、ミスター・ファーレンハイト。
約束、守れなかった。『QUEENⅡ』を君の彼に返さないまま、僕は君と同じ地獄に行く。『アナザ・ワン・バイツァ・ダスト』。地獄に道連れ、だ。いいだろ。君だって、僕に何の断りもなく死んでしまったんだから。
身体が宙に浮かぶ。摩擦がゼロになり、空気抵抗が強くなる。閉じた瞼の裏に、優しく笑う母親に見守られながら、同じように笑う父親に向かって、小さな身体を一生懸命に使ってボールを投げる男の子の姿が浮かんだ。いつか三浦さんと見た光景。
ああ。
本当に欲しかったな。
僕の、家族――
◆
頬に水滴があたった。
生温かい水。僕はうっすらと目を開ける。青空を背景に、僕を覗き込んでボロボロと泣き崩れる女の子の顔が視界を埋め尽くした。
「……三浦さん?」
呼び掛けに、三浦さんは大きく身体を震わせた。僕には見えない誰かに向かって声を張り上げる。
「起きた! 起きました! 生きてます!」
言葉を聞き、僕は他人事のように事態を理解する。そうか。失敗したんだ。三階程度では足りなかった。
全身が痛い。内側も外側も全部痛い。身体がまだ生きたいんだと悲鳴を上げている。心はもう、とっくに死んでしまったのに。
「どうして――」
三浦さんが僕を見つめる。大粒の涙がどんどんと落ちてくる。
「どうして、こんなことするのよお……」
――泣かないで。
泣かないで。僕は、ちゃんと君が好きなんだ。君が嬉しいなら僕は嬉しい。君が悲しいなら僕は悲しい。ただちんぽこが、ちんぽこがどうしても勃ってくれない。本当にたったそれだけの、単純で、どうしようもない話なんだ。
涙を拭うため、右腕を上げようと試みる。そこは使えないぞと告げるように激痛が全身に走る。肩か、腕か、とにかくどこかの骨が折れている。
身体から力を抜き、三浦さん越しに空を見上げる。鮮やかな青色が網膜に突き刺さり、僕の両目から涙を引き出す。三浦さんの涙と僕の涙が、僕の頬の上で混ざり合い、つうと乾いた地面に落ちる。
病気だと言ってくれ。
原因のある疾患なんだと、治療をすれば治る病なんだと言ってくれ。
その為なら僕は、この腕の一本ぐらい、捧げても構わない。
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