5-3

 月曜日になった。

 制服に着替え、日曜の夜に十五分で書いた反省文を学生鞄に詰め込み、家を出る。学校に着くまでの間、周囲からやたらと視線を感じた。顔にまだいくつか残っているガーゼのせいだろう。休めば良かった。そんな気分になる。

 教室に着く。僕はがらりと扉を開け、小さな声で挨拶をした。

「おはよう」

 道すがらすれ違った人たちと同じように、クラス中の視線が僕に集中した。そのくせ挨拶を返す人間は誰もいない。無言で席に行き、机の上に鞄を置く。

 背筋を、つうと撫でられた。

 くすぐったさに、思わず嬌声を上げそうになった。どうにか堪えて振り返る。亮平がいつも通りの悪戯小僧の笑顔を浮かべ、僕に明るく声をかけた。

「純くん、おはよー」

 ――あれ?

 違和感を覚えた。亮平が僕の机に座る。椅子に座る僕を見下ろす形になる。

「純くん、今日の放課後、暇?」

「暇だけど」

「ゲーセン行かない? 久々に純くんと格ゲーしたい」

「部活は?」

「サボる」

 ――なんで怪我に触れないの?

 違和感が強くなる。間違いない。亮平は知っている。金曜放課後の事件について、誰かから聞いている。誰から。考えるまでもない。

 血管が破けそうなぐらい、鼓動が早まった。

 落ち着け。全部知っているとは限らない。あいつが全部話したとは限らない。部活に来ないクラスメイトを心配して連絡を取る。喧嘩をしたという話だけを聞く。そういう流れは十分にありえる。

 でも、さっき――

「亮平」

 今、二番目に聞きたくない声が聞こえた。僕と同じように顔のここそこにガーゼを張った小野が、腕を上げて僕を指さす。

「あんまりそいつと話さない方がいいぞ」

 声が、授業中に教科書の朗読をやっている時のように大きくなった。

 教室を見回す。

 教室の全員が僕たちを――僕を見ている。男子も、女子も、一人の奴も、友達といる奴も、全員。動物園の珍しい生き物を見るように、護送中の犯罪者を見るように、僕をじっと観察している。

 見て見て。

 あれがホモだよ。

「お前はキモいホモ野郎とは違うんだから、気をつけないと」 

 小野が笑いながら亮平の肩を叩いた。亮平が珍しく、険しい声を出す。

「小野っち、止めろ」

「なんでだよ。こいつは男に興奮する変態なんだ。お前なんか幼馴染なんだから一番危ないぞ。犯されるぞ」

「止めろ!」

 亮平が声を荒げた。小野が口を閉じて僕を見る。俺を敵に回すからこういうことになるんだ。そういう風に勝ち誇った目つきで、僕を見下す。

 亮平が床の上に膝をつき、座る僕を見上げた。

「純くん。オレ、気にしてないから」

 亮平がニカッと笑う。太陽みたいな笑顔。

「本当に、全然、気にしてない。教えてくれれば相談に乗ったのにとか、そういう気持ちはあるけど、純くんのことが嫌いとか気持ち悪いとか、そういうのは全くない。純くんは純くんだ。オレたちは何にも変わらない。だから安心してくれ」

 僕は僕。気持ち悪いなんて思わない。だから僕と亮平の関係は、何も変わらない。

 でもお前、さっきちんぽこ揉まなかったよな?

「――トイレ行ってくる」

 席を立つ。早足に教室の出入り口に向かう。背中から、小野の弾んだ声。

「いいチンポ見つけても襲うんじゃねーぞー」

 亮平がまた「小野っち!」と叫んだ。僕はほとんど走るみたいに歩く。教室を出て、扉を閉めてからは本当に走る。だけど階段から上がってきた女子生徒と鉢合わせになり、足を止めた。

 今、一番目に聞きたくない声が、僕の耳に届く。

「安藤くん?」

 三浦さんが首を傾げ、僕の顔を覗き込んだ。

「どうしたの? 泣いてるの?」

 泣いている。どうして。やっと僕は、みんなに本当の僕を知って貰えたのに。亮平はそんな僕を認めてくれたのに。何が、どうして、悲しい。

「……どいて」

「でも――」

「どけよ!」

 肺の空気を全部吐き出すみたいに叫ぶ。三浦さんがビクリと身体を強張らせる。僕はその横をするりと抜け、下駄箱から外に出た。誰も居ない場所を探し求めて校舎裏に辿り着き、コンクリートの段差に腰を下ろす。

 ぼうっと空を見上げる。雲一つない青空が視界を埋め尽くす。帰りたい。でも今帰ったら問題になる。先生にバレる。母さんにバレる。帰れない。

 戻らなくてはならない。

 あの視線を、また浴びなくてはならない。

 膝を抱え、背中を丸める。生まれる前からやり直させて下さい。胎児みたいに蹲りながら、僕は神様に、そう祈った。


    ◆


 昼休み、チャイムが鳴り終わる前に僕は教室を出た。

 真っ直ぐに食堂に向かい、券売機の前に立つ。素うどんを選ぶ。カウンターでうどんを受け取った後はまだほとんど人のいない食堂を歩き、一番奥の席に座った。

 一口、うどんをすする。重たい。ひどく疲れているのに、何も食べたくない。僕は食事の手を止め、ぼんやりと斜め上を見上げながら、今日最後の授業に思いを馳せる。

 六限目、体育。

 五限目が終わったら、三階の空き教室に行く。みんながパンツ一枚になって着替える部屋で、僕もパンツ一枚になって着替える。僕が同性愛者で、男の身体に興味があると明らかになっている状況で。

 行きたくない。イヤだ。でも行かないで「あいつは今まで俺たちをそういう目で見ていたんだな」と思われるのはもっとイヤだ。確かに、いい身体だなと思ったりはする。ちょっと興奮したりもする。だけど男なら誰でもいいとか、いつ襲ってやろうかと舌なめずりしているとか、そんなことはない。絶対にないのに。

「安藤くん」

 女性の声。僕の目が焦点を取り戻す。黄色いナプキンで包まれたお弁当箱を手から提げた三浦さんが、僕に向かってにこりと微笑んだ。

「一緒にいい?」

 答える間もなく、三浦さんが僕の前に座った。弁当箱を包むナプキンを広げて、二段になったお弁当箱を広げる。さくらでんぷのかかった可愛らしいご飯を食べながら、全く動かない僕に話しかける。

「あのね、安藤くんが心配するほど、みんな気にしてないよ」

 嘘だ。気にならないわけがない。

「少なくとも女子は全員気にしてない。人の話を盗み聞きして、それを周りに言いふらしちゃった小野くんの方がボコボコかな。あ、あと小野くん、途中からしか聞いてなかったみたい。だから彼氏のことはバレてないよ。良かったね」

 あり得ない。むしろ、女子こそ敵に回したはずだ。

「僕は三浦さんのことを騙していたから、女子受けは悪いはずだけど」

「わたしが説明した」

 三浦さんが箸を止めた。僕を真っ直ぐに見ながら、口を開く。

「安藤くんが苦しんでたこと、ちゃんと説明した。そうしたら分かって貰えた。ほら――」

 恥ずかしそうにはにかみながら、三浦さんが言った。

「女子は、ホモ好きだから」

 そういう問題じゃない。

 絶対にそんな簡単な話じゃない。三浦さんが好きなホモと僕は違う。あれはファンタジー。こっちはリアルだ。一緒に出来るものじゃない。

「それとこれとは話が違う」

「ダメなの?」

 三浦さんが、身体を少し前に傾けた。

「わたしはホモが好き。安藤くんはホモ。二人の相性は、最高」

 今まで見たこともないぐらいに優しい笑顔を、三浦さんが浮かべた。

「それじゃ、ダメなの?」

 全てを許すような、慈愛に満ちた微笑み。初めて見た表情なのに、なぜか懐かしい。どこかで見たことがある。ずっと昔、僕がうんと小さい頃、どこかで。

 ああ、そうか。分かった。

 母さん――

「なー、二年のホモの話、聞いた?」

 僕の背後に座った少年二人が、楽しげに会話を始めた。

「なにそれ。知らない」

「なんか二年にホモがいて、そいつがカムフラで女と付き合って、それが最近バレたんだって。部活の先輩から聞いた」

「マジで? ガチホモ?」

「ガチホモ」

「げー、マジかよ。トイレで会ったらどうしよ」

「おれら一年だし、会わないっしょ」

「分かんねーじゃん。年下好きかもしれないし」

 三浦さんの表情がみるみる強張る。僕はどんな顔をしているのだろう。分からない。分からないけれど、笑っていないことだけは確かだ。

 今までは、僕が悪かった。

 僕は明かしていなかった。大多数の嗜好とは違う嗜好を持った人間がいると、確かにここに存在するのだと主張していなかった。だから誰かから悪意なく僕の神経を逆撫でするような発言が飛び出しても、我慢しなくてはならなかった。隠している僕が悪い。嘘をついている僕が悪い。そう思うしかなかった。

 でも、今は違う。

 僕は明かした。同性愛者はツチノコやネッシーのような未確認生物とは違うんだと知らしめた。彼らはそれを知った上で語っている。同じ学校に同性愛者が存在することをしっかりと認識しながら、昼下がりの食堂なんていう大量に人間の集まる場所で、堂々と世界を簡単にしている。

 摩擦をゼロにするな。空気抵抗を無視するな。

 僕を、消すな。

「自衛しろ、自衛」

「顔も知らないのにどうやって自衛すんだよ」

「小便してる時に隣に来てちんこガン見して来る奴がいたら警戒」

「そんな奴、言われなくても警戒するわ!」

 わざと音を立て、勢いよく立ち上がる。

 一口だけ食べたうどんを載せたトレーを抱え、背後を振り返る。僕から見て奥に座る、眼鏡をかけた少年が僕の視線に気づいた。手前に座る短髪の少年も続けて気づく。見覚えはない。僕のことを何にも知らないはずの一年坊主。

 二人をじっと見つめる。僕の顔に貼られたガーゼを見て、少年たちが何かに気づいた表情をする。僕は、言った。

「てめえらのちんこなんか見ねえよ」

 トレーを持ってテーブルから離れる。ほとんど丸々残ったうどんを食器返却口に返して食堂を出る。三浦さんは、追いかけてこなかった。

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