5-2
話をするのは、次の日の放課後にした。
帰りのホームルームが終わり、三浦さんのところに向かう。僕に気づいた三浦さんがぷいと顔を逸らす。今までなら僕も顔を逸らす場面。だけど今日は、逃げない。
「話がある」
机に手をついて話しかける。三浦さんが僕をじっとりとねめつけた。
「なに?」
「ここじゃ話せない。どこか別のところに行こう」
三浦さんが周囲を見渡す。教室の何人か、既に僕たちに注目している。三浦さんは軽く溜息をつき、学生鞄を持って立ち上がった。
「分かった。行こう」
僕たちは教室を出て、落ち着いて話が出来る場所を探した。やがて、体育前の着替えで使う、三階の空き教室に辿り着く。教室の後方の扉を開けて中を確認。誰もいない。
「ここにしよう」
三浦さんが教室に入り、猫みたいに機敏な動きで最後列の机にひらりと飛び乗った。机の縁に座って、足をプラプラさせながら僕を待つ。僕は教室の扉を閉めてから三浦さんのところに行き、隣の机に座った。机を椅子代わりに、僕たちは向かい合う。
「全部話してくれる気になった、ってことでいいのね?」
僕は頷いた。三浦さんが上半身を前に傾ける。
「じゃあ教えて。まず、一番の大前提から」
三浦さんが右手のひとさし指を真っ直ぐに伸ばし、僕の眉間を指さした。
「安藤くんは、ホモなの?」
全く言葉を取り繕わない質問が、ナイフみたいにぐさりと刺さる。落ち着け。こんなことで心を折られている場合じゃない。
「……うん」
「あの男の人は誰?」
「僕の恋人」
「あの後、家族っぽい人たちといるところを見たんだけど」
「あの人、ゲイだけど、結婚してるから」
「なにそれ。じゃあ安藤くん、不倫じゃん」
不倫。本当に言葉のチョイスに容赦がない。だけどそれは全て、真実だ。
「ホモの人って、みんなそうなの?」
三浦さんの口調が厳しくなった。眉間にしわを寄せ、不快を露わにする。
「世間体のために女と付き合って、裏では本当に好きな男と付き合うなんて、女をアクセサリー扱いしてるだけじゃない。そうしなくちゃいけないぐらい大変だっていうのは分かるよ。男の人を好きになる気持ちを止められないのも分かる。それでも人はアクセサリーじゃない。騙されている女の人は、その人がただ好きなだけ。ホモの人が男の人を好きになる気持ちと、それは何も変わらない」
僕は俯く。三浦さんも俯く。制服のスカートを掴み、声を絞り出す。
「騙された女の人のそういう気持ちは、どうなっちゃうの?」
僕がマコトさんを好きなように、三浦さんは僕を好きなだけ。その想いを弄ばれた。踏みにじられた。
「ホモなんか好きになる方が悪いっていう、そういうことなの?」
三浦さんの言うことは何も間違ってはいない。僕は確実にそういうことをした。純粋に僕のことが好きな三浦さんを、僕は僕のためだけに、利用して傷つけた。
だけど――
「違う」
三浦さんが顔を上げた気配がした。僕はまだ、上げられない。
「世間体じゃない。絶対に、それは違う」
下を向いたまま、大きく首を横に振る。
「三浦さんが、男の人と愛し合って、結婚して、子どもを産んで、幸せな家庭を築きたいと思うのと同じように、僕も女の人と愛し合って、結婚して、子どもを作って、幸せな家庭を築きたいんだ。息子とキャッチボールをして、娘にかわいいお洋服を着せて、奥さんと仲良く子どもの成長を慈しみたい。お嫁さんを貰う息子とお酒を飲み交わしたり、お嫁さんに行く娘のことを思って泣いたり、産まれた孫を猫かわいがりしたり、そういうこと、全部したい。たくさんの家族に囲まれて、みんなに惜しまれながら、満ち足りた表情で死にたい」
僕の夢。僕の願い。僕の――憧れ。
「僕だって、そういう幸せが欲しいんだ」
誰も分かってくれない。
お前たちは男が好きなんだろう。周りがそうだから、イヤイヤ、仕方なく、女を抱いて家族を作ったりするんだろう。みんなそう思っている。思わされている。僕のような人間が血の繋がった家族を持つためには、騙さなくてはならない人がいるから。それは許されないから。だから僕のような人間はそういう欲望を持たない、同性のパートナーと生涯を共にすることを最高のゴールと考えているんだと、そういうことになっている。
でも違う。少なくとも僕は違う。僕は女の人を好きになりたい。女を抱いて、血の繋がった家族を手に入れたい。異性愛者が当たり前に手に入れている幸せが、喉から手が出るほど欲しい。考え方も価値観も女を愛する男と変わらない。ただちんぽこが、ちんぽこがどうしても勃ってくれない。本当にただそれだけの、単純な話なのに。
「だから、証明したかった。僕はその気になればいつだって女と付き合える。ただ男の方が少し好きなだけ。そういう風に自分に言い聞かせたかった。そのために三浦さんと付き合った。結果的には逆に、僕は男としか付き合えない人間だって分かっちゃったけど、そういうことなんだ」
肩を落とす。息を吐く。もう疲れた。疲れてしまった。
「分かってるよ。そういう理由があるからって女の人を、三浦さんを騙していいことにはならない。もう少し待ってくれれば自分から幕を引くつもりだったけれど、それも間に合わなかった。僕は許されないことをした。本当に申し訳ないと思ってる」
さらに深く頭を下げる。教室の床を見つめながら反応を待つ。三浦さんは何も言って来ない。時計の針が進む音だけが、沈黙に満ちた無人の教室を揺らす。
「……なにそれ」
吐き捨てるような言い方。もう一回、目を見て謝らなきゃ。僕はゆっくりと身体を起こした。
潤んだ瞳で僕を見つめる三浦さんと、視線がぶつかる。
「それを聞いて、わたしはどうすればいい?」
震える声が、耳を経由することなく心に直接届く。
「安藤くんを好きになって、そんな話を聞いて、いまさら嫌いにもなれないわたしは、どうすればいいの?」
三浦さんが、両手で自分の顔を覆った。
「絶対に振り向いてくれない人を本気で好きになったわたしは、どうすればいいのよ」
叶わない夢。
血の繋がった家族が欲しい。だけど僕は女にちんぽこが勃たない。だから叶わない。
愛する人と一つになりたい。だけど僕は女にちんぽこが勃たない。だから叶わない。
僕と三浦さんは、同じ。
「……三浦さん」
何を言うべきか分からないままに声をかける。三浦さんの細い肩が小さく上下する。
教室の扉が、勢いよく開いた。
◆
開いた扉の向こうから、小野が一歩、教室に足を踏み入れた。
「今の話、どういうことだよ」
三浦さんの涙が止まる。僕の思考も止まる。小野はずんずんと大股で僕の目の前まで来ると、僕のシャツの胸ぐらをグイと掴んだ。
「お前がホモで、三浦を騙してたって、どういうことなんだよ」
小野がシャツを引っ張り、僕を無理やり机の上から床に下ろした。見下ろす小野と見上げる僕。ギチギチに握り固められた拳が鎖骨に当たる。
「何とか言えよ」
怒りに満ちた目。三浦さんを騙し、亮平を裏切った。その罪を今ここで裁いてやる。そう語りかけてくるような視線。
――そうか。
僕は、めいっぱい右の口角を吊り上げて笑った。
「亮平も間抜けだよな」
裁いてくれ。お前が、このどうしようもなくなったショウを終わりにしてくれ。僕を断罪して、悪を懲らしめて、めでたしめでたしで終わらせてくれ。
「ホモに女取られるとか」
左頬に、拳が振りおろされた。
三浦さんにはたかれた時とはレベルが違う衝撃に、僕は勢いよく吹っ飛んだ。椅子と机を巻き込んで倒れる。教室にガラガラと硬質な音が響く。ズボンのポケットから音楽プレイヤーが飛び出し、さーっと床の上を滑った。
小野が僕に歩み寄る。三浦さんが「止めて!」と小野を押し留める。止めなくていいのに。もっと、もっと殴られたって、文句言えないのに。
両足を投げ出したまま上半身を起こす。だらりと全身から力を抜く。殴られたところが痛い。左目が霞む。立ち上がる気力が、湧かない。
小野が床に滑り落ちた僕の音楽プレイヤーを拾った。操作して、中に入っている曲を確認する。
「お前、QUEENとか聞くんだ」
QUEEN。僕とミスター・ファーレンハイトの間に横たわる、唯一の繋がり。
「ああ、そっか」
小野の顔の下半分が、嘲りに醜く歪んだ。
「ホモ仲間だもんな」
僕がQUEENを好きになった経緯は、こうだ。
マコトさんを待って『39』にいる時、僕の一番好きな曲が流れた。その時はまだQUEENについて何も知らない。歌詞も聞き取れない。なのに、泣きそうになった。
ケイトさんに詳細を聞いた。ケイトさんは自分が大好きなバンドの曲で、店の名前もこのバンドの曲名から取ったと語った。そして店に常備しているアルバムを僕に渡した。聞いた。惚れた。ネットで調べた。ボーカルが男と肉体関係を持ってAIDSで死んだことを知った。後日、僕はケイトさんに尋ねた。「どうしてボーカルが僕らの仲間だって教えてくれなかったんですか?」。僕の質問に、ケイトさんはこう答えた。
「忘れてたわ」
「やっぱ、ホモはホモの音楽が好きなんだな」
消えた。
机が消えた。椅子が消えた。三浦さんが消えた。衝動が思考を真っ赤に塗りつぶして、これから取る行動に必要なもの以外、全てを認識から消した。残ったものは僕と小野。これだけ。これ以外は必要ないと脳が判断した。
右手を固く、指の境目が無くなって一つの肉塊になるぐらいに固く握りしめる。素早く身を起こす。ふくらはぎに力を込めて、一足飛びに小野に飛びかかる。驚愕に目を見開く小野の顔が、僕の視界にはっきりと映る。
顔面に、ありたっけの力を込めて拳をぶつける。
指の関節に固いものがあたった。頬骨。そのまま顔面を殴りぬく。圧し固まった砂の塊を崩した時のように、拳に伝わる抵抗がサラッと溶ける。全身に射精の後みたいな痺れが走る。小野の身体が、吹っ飛ぶ。
「安藤くん!」
三浦さんが叫んだ。殴り飛ばされた小野がむくりと立ち上がり、咆哮を上げる。
「てめええええええ!」
小野が僕に飛びかかる。三浦さんが悲鳴を上げる。小野は左手で僕のシャツを掴み、右手を僕の身体にぶつける。僕も小野のシャツに左手でしがみつきながら、右手でがむしゃらに殴り返す。
鼻の下が血で濡れる。口が切れて鉄の味がする。だけど痛みは感じない。身体の痛みも心の痛みも、激しい怒りに呑まれて埋もれている。
摩擦をゼロにするな。
空気抵抗を無視するな。
世界を、簡単にするな。
「先生呼んで来る!」
三浦さんが教室を出る。僕と小野は構わず殴り合う。罵詈雑言を交わすみたいに、お互いの拳をお互いにぶつけ合う。やがて先生が到着して無理やり引き剥がされた頃、僕の意識は、うっすらと消えかかっていた。
◆
喧嘩の原因は、女。
僕と三浦さんが付き合う。小野は三浦さんを好きな男子生徒Aに肩入れしている。面白くない。喧嘩をふっかける。僕が買う。喧嘩になる。僕と小野が詰問を受け、そういう筋書きに落ち着いた。特に疑われることは無かった。男子生徒Aの名前も黙秘で済んだ。
僕と小野は母親を呼び出された。小野の母親は豊満な胸が目立つ、おっとりした雰囲気の女の人で、小野の彼女に似ていると思った。僕の母さんを見て小野がどう思ったかは分からない。三浦さんに似ている。そんなことを思ったかもしれない。僕は全く似ていないと思う。
土日で反省文を書き上げて提出する約束をさせられて、僕たちは解放された。母さんの運転する車で整形外科に向かう。治療はあっさりと終わった。顔にたくさんのガーゼを当てた僕を見て、母さんは「ひどい顔」と笑った。何もおかしいことなんてないのに、本当におかしそうに。
「純くん、今日、なに食べたい?」
病院からの帰り道、助手席に座る僕に母さんが問いかけた。僕は「何でもいい」と窓の外を眺めながらぶっきらぼうに答える。左目のガーゼが邪魔で景色はよく見えない。
赤信号にぶつかる。車が止まる。母さんが口を開いた。
「彼女出来たら教えてって、言ったじゃない」
僕は、母さんの方を向かない。
「母親にいちいちそんなこと報告する奴いないよ」
信号が青に変わった。車が発進する。母さんが明るく話しかけてくる。ずっと黙っている僕に向かって、まるで一人芝居をするように。
「ねえ、彼女とは仲良くやってるの?」
「どこまで進んだ?」
「母さん、何やっても別に怒らないから安心して」
「でも絶対に避妊はしなさいよ」
「孫は早い方がいいけれど、限度があるからね」
ポケットで代替機のスマホが震える。取り出す。数字の羅列。アドレス帳がないから名前が出ない。でも何となく分かる。三浦さん。
電源を切る。
スマホをポケットに戻して、逆側のポケットから音楽プレイヤーを取り出す。巻き付いているイヤホンを解いて耳に挿す。拒絶の合図。母さんが口を閉じた。
音楽プレイヤーを弄り、目的の曲を探す。シャッフル再生の気分じゃない。あの曲が聞きたい。アカペラ、バラード、オペラ、ロック――バンドメンバーによるまっとうなステージ演奏が不可能なほどに入り組んだ構成を持つ意欲作にして、全英シングルチャートで九週連続一位を獲得したQUEENの代表作。
『ボヘミアン・ラプソディ』。
人殺しの男が語る灰色の物語。触れたもの全てを破壊しかねない激情と、永遠に続く枯れ果てた大地を思わせる虚無が両立した、不思議で魅力的な世界観。
歌の中で、人殺しの男は死にたくないと嘆く。そのくせ、生まれてこなければ良かったと嘯く。どうしてこんなことになってしまったんだと自らの生を呪い、出口のない葛藤の海に沈んでいく。
まるで、今の僕のように。
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