6-2

 入院三日目、電話がかかってきた。

 僕は三浦さんが置いて行ったBL本を読んでいた。漫画。生徒と教師もの。生徒は、僕とは似ても似つかない純粋で一途で積極的な高校生。教師は、僕の初恋の先生とちょっと似ている優しくて穏やかな国語教師。僕もあの時、これぐらいガンガン行っとけば良かったのかな。そんなことを考えながら読み進めていると、枕元のスマホが震えた。

 手に取って画面を確認する。まだ代替機だから画面に出るのは番号だけ。全く記憶にない番号だった。とりあえず、通話にする。

「もしもし」

「もしもし。純くんかい?」

 脊髄に、痺れが走った。

 どうりで記憶にないわけだ。番号の交換はしたけれど一度も電話がかかってきたことはない。だから、数字の羅列を目にする機会がほとんど無かった。

 ――マコトさん。

「……こっちから連絡するまで待って欲しいって言ったでしょ」

「あれから何日経っていると思っているんだ。心配にもなるよ」

「せめてメールにしてよ」

「返信がこない気がしたからね」

 いい勘だ。絶対に、返さない。

「大丈夫なのか?」

「うん。あの子との話はちゃんとついた。マコトさんに迷惑をかけたりは――」

「そうじゃない。純くんは、大丈夫なのか?」

 俯く。視界にがっちり石膏で固められた右腕が入る。大丈夫ではない。

「……平気だよ。何ともない」

 沈黙。やがて全く流れを無視した言葉が、マコトさんから届いた。

「今度、近いうちに会おう。いつがいい?」

 僕を心配してくれている。それが伝わる。だけど今は――困る。

「入院してるから、近いうちは無理」

「入院?」

「うん。駅の階段で転んで、骨折っちゃって。だから連絡出来なかったんだ」

 嘘をつく。マコトさんが「大変じゃないか」と驚いた。

「どこを折ったんだ?」

「右腕と、あと、色々なところにヒビ」

「そんなに派手に転んだのか?」

「うん。でも七月ぐらいには退院できる予定だから、心配しないで」

「分かった。じゃあ、退院したら会おう」

「でも完治まではまだかかるし、会っても何も出来ないよ」

 会話が止まる。それから、少し寂しそうな声。

「構わないよ。そういうことをしたいから会いたいわけじゃない」

 自分が「どうせセックスしたいだけでしょ」と言ったも同然なことに気づく。僕は「ごめん」と謝った。マコトさんは「いいよ」と許してくれた。

 しばらく話してから電話を切り、BL本の読書を再開する。主人公の高校生男子に片思いしている友人(男)や、主人公が好きな国語教師に惚れている同僚教師(男)とのいざこざを経て、メイン二人が結ばれてハッピーエンド。ベタベタで甘々な結末。

 僕は本を閉じた。そしてスマホを手に取り、お見舞いの時に聞いた三浦さんのメールアドレスを呼び出す。

『本、一冊読んだよ』

 短文を送る。返事はすぐに届いた。

『どうだった?』

 僕は素直に、率直に、本を読んで最も強く感じた想いを三浦さんに伝えた。

『ホモ多すぎ』


    ◆


 受け取ったBL本は三日で読み切った。それを伝えると三浦さんは翌日、別のBL本を持参して病院に現れた。二回目供給分を読み切った後も同じことをした。「在庫はまだまだあるから安心して」。僕の入院生活がBL漬けになることが確定した。

 三浦さんがいつか言った「ホモなら何でもいいわけじゃない」という言葉は、びっくりするほど大嘘だった。守らなくてはならないのは「男同士である」というただ一点のみ。少年、青年、壮年、文化系、運動系、真面目系、ヤンチャ系――ありとあらゆる男たちがありとあらゆる組み合わせで絡んだ。僕が昔読んでいたスポーツ少年漫画の二次創作もあり、味方チーム全員ホモ、ライバルチーム全員ホモ、ついでに監督もホモというとんでもない事態になっていた。原作では彼女持ちのキャラクターもいたけれど、問答無用で無かったことにされていた。

 BL本を読み進めて行くうちに、僕は最初に送った『ホモ多すぎ』という感想を考え直すようになった。四人は少ない。自称どこにでもいる男子高校生(まだホモじゃない)が従兄弟のお兄さん(ホモ)の紹介で、老紳士(ホモ)が経営する喫茶店で働き、そこで五人組ロックバンド(全員ホモ)のボーカルに惚れられ、ライバルの四人組バンド(全員ホモ)に襲われ、自暴自棄になるも父親(ホモ)と母親(ホモ)に慰められ――という話を読んだ時はさすがに辟易した。母親(ホモ)の意味は、僕にも分からないから説明できない。何の前フリも解説もなく男なのだ。認めるしかない。

 大部屋のベッドに寝転がりながら、修理から帰って来たスマホのSNSアプリを使って感想を送る。

『ホモ多すぎ』

 三浦さんからの返信は、思いのほか長かった。

『今まで言わなかったけれど、BL本はBL星っていう架空の星が舞台なんだ。BL星人は染色体異常で女性人口が極端に少なくて、雌を獲得できないストレスから命を失う個体が後を絶たなかった。だから男性同士で性的欲求を覚えるように進化したの。興奮時に排出される潤滑性体液は進化の賜物。地域によっては妊娠可能な個体も確認されている。種の保存欲求ってすごいよね』

 なるほど。ファンタジーではなくSFだったようだ。

『BL星はいいよね。ホモが前向きで』

 冗談っぽく、本気のメッセージを送る。BL星人たちは年齢も職業も見た目も性格も多種多様だったけれど、男であることと、自分の性癖にやたらめったら肯定的なことだけは共通していた。たまに悩んだりもするけれど最後にはあっさり受け入れてしまう。いつも鼻先三十センチぐらいのことに全力投球していて、小難しい未来は考えていない。それはとても、羨ましかった。

『僕もBL星に行きたいな』

 同情を誘うメッセージ。慰められるかな。少し、アンニュイな気分になる。

 予想は外れた。

『わたしも』

 笑った。笑い過ぎて肋骨がめちゃくちゃ痛んで、ナースコールを押す羽目になった。


    ◆


 退院直前、病院に訪れた三浦さんはBL本を持っていなかった。代わりにベッド脇の椅子に腰かけながら、退院祝いのクッキー缶を僕にくれた。

「退院おめでとう」

「ありがとう。三浦さんのBL本を読み尽くす前に退院出来て良かったよ」

「大丈夫。まだ半分も読んでないから」

 五十冊以上は読んだはずだ。僕は苦笑いを浮かべた。

「ところで、退院したら学校には来るの?」

 質問に、僕は首を横に振った。

「とりあえず夏休み前は行かないことにした。ギブス外れないし、目立つから」

 人目が気になるとそれとなく告げる。三浦さんが「そっか」と目を伏せた。そして口をもごもごと動かし、言いにくそうに喋り出す。

「終業式だけは、来てくれないかな」

「どうして?」

「コンクールに出す絵を描いてるって言ったの覚えてる? あれが入賞したの。それで終業式で賞状貰うから、安藤くんに見て欲しい」

「ああ、おめでとう。でも、どうして僕に見て欲しいの?」

「……自分の晴れ舞台を彼氏に見て貰いたくない女の子がいる?」

 三浦さんが頬を膨らませた。

「わたしのことを騙したの、ちゃんと悪いと思ってるなら、それぐらいはしてくれてもいいんじゃない?」

 痛いところをつかれた。眼力を強め、三浦さんが引く気はないぞという意志を見せつける。僕は、押せない。

「……分かった。検討する」

「ありがとう。絶対に来てね。約束だからね」

 さらっと検討が約束に格上げされた。三浦さんが「ところで」と椅子から立ち上がり、ベッドの端に手をついて僕に顔を寄せる。

「この入院期間でわたしのこと、分かってくれた?」

 消毒液の匂いが、女の子の匂いに上書きされる。僕はたじろぎながら答えた。

「ホモが好きな女の子なのは分かったよ」

「他には?」

 黙る。三浦さんは椅子に座り直し、不満そうに口を尖らせた。

「わたしの構成要素は『ホモ好き』が100%なの?」

「だって、BL本読ませて貰っただけだし」

「そこから派生出来るでしょ。例えば――」

 三浦さんが胸を寄せるように腕を組み、少し前かがみになった。

「ホモが好きだからホモの安藤くんも好き、とか」

 ――わたしはホモが好き。安藤くんはホモ。二人の相性は、最高。

 いつかの言葉。思い出しながら、僕は言い切る。

「BL星人と地球人は違うよ」

 三浦さんの目線が、わずかに下がった。

「BL星人は環境に適応して進化したんでしょ。僕は真逆。生物が種の保存欲求に従って進化するなら、真っ先に淘汰されてしかるべき存在だ」

「……でも同性愛は昆虫にもあるぐらい普通だって、安藤くんから聞いたよ」

「まあね。結局は淘汰されないで残っているんだから、もしかしたら必要な存在なのかもしれない。でもそうなると必要な理由が分からない。僕も考えてはいるんだけど、答えが出ないんだ」

 ミスター・ファーレンハイトの宿題。入院中もずっと考えていた。答えが出たら『QUEENⅡ』を供えに行こうと思っていた。だけどまだ、出ていない。

 神様。なぜあなたは、僕のような存在をお創りになるのですか。

 必要だからですか。

 それとも――

「――わたしは」

 三浦さんが、何か大切なことを言うように、大きく口を開いた。

「世界からホモがなくなるのは、困るかな」

 三浦さんは僕から目を逸らし、手持無沙汰に髪を弄り、何だか恥ずかしそうだった。秘蔵のエロ本をさんざん他人に読ませておいて、いまさら恥ずかしがる。矛盾した行動が何だかおかしくて、思わず、笑った。

「そうだね」

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