6-3

 七月最初の土曜、マコトさんに会うために『39』に出向いた。

 ギブスで固めた腕を三角筋で吊った僕を見て、ケイトさんは「どうしたの?」と目を丸くした。カウンター席に座りながら「駅で転びました」と説明する。ケイトさんは「おまぬけねえ」と呆れながらカフェラテを差し出し、カウンターに頬杖をついた。

「『おまぬけ』って、素敵な日本語よね」

「そうですか?」

「そう。とてもFoolishな感じがするわ。おまぬけ」

 僕をからかい、くすくすとケイトさんが笑った。マシュマロみたいに白くて柔らかい肌が優しく歪む。イギリス。日本との時差九時間。距離9000キロ以上。海を越えて、大陸を越えて、極東の島国に辿り着いた同性愛者の女性。

 ほとんど無意識に、言葉が飛び出した。

「ケイトさんは、どうして日本でお店を開こうと思ったんですか?」

 青色の瞳がきょとんと見開かれた。カフェラテの香りが、少し強くなる。

「ケイトさんの国の方が、僕たちみたいな人間は生きやすいのに」

 頬杖をつきながら、ケイトさんが「そうねえ」と天井を見上げた。ゆったりと回るシーリングファンが沈黙を掻き乱す。BGMとして流れている『レディオ・ガ・ガ』がアウトロに入る。ケイトさんが僕に視線を戻した。

 そして、微笑む。

「世界を股にかけて旅をして、世界中の女の子を股に挟んで、日本の女の子が一番Cuteだと思ったからよ」

 音楽が切り替わった。

 聖歌隊を思わせる分厚いコーラスが店に響く。QUEEN代表作の一つ、『サムバディ・トゥ・ラブ』。邦題、愛にすべてを。

「もし純くんが、いつかワタシの国に行こうとしているなら申し訳ないけれど――」

 ケイトさんが頬杖を外し、身体を起こした。

「国や世間が認めている認めていないって、あんまり関係ないわよ。どこに居ても自分を認めている人はHappyだし、自分を認めていない人はStressを溜めている」

 ギブスの中で、右腕がズキリと痛んだ。

「もちろん、周りが認めてくれるから自分を認められるCaseもあるし、Familyの話もあるから、どこも一緒とは言わない。世界にはワタシたちのような人間にPenaltyを与える国もあるしね。でもそういう国ほどExoticな女の子が多いのよねえ。困っちゃうわ」

 ケイトさんが伸びをした。そして座る僕を見下ろし、口を開く。

「何かあった?」

 ビクリと肩が大きく上下した。ケイトさんが「おまぬけ」と愉快そうに呟く。

「安心して。聞かないから。ただ一つAdviseさせて」

 ケイトさんが、細長いひとさし指を顏の前に立てた。

「逃げてもいい。でも自分からは絶対に逃げ切れないわよ。今じゃなくてもいいから、どこかで戦う覚悟を決めなさい」

 カランコロン。

 扉のベル。バッと入口を向く。マコトさんではない、知らない女の人。

「純くん。来る前に言っておくけれど、アレには期待しないようにね。大事なことは全部はぐらかしちゃう、ズルい男なんだから」

 ケイトさんがやってきた女の人のところに向かいつつ、小声で悪態をついた。

「だから息子にも嫌われるのよ」


    ◆


 マコトさんと合流した後は、新宿御苑に向かった。

 七月の陽気を全身に浴びながら、緑溢れる園内をゆったりと歩く。六つの花弁が大きく広がった白い花を見て、マコトさんが「クチナシの季節か」と呟いた。クチナシ。聞いたことはある。だけどああいう花だったとは知らなかった。

「詳しいね」

「植物に興味があるんだ。学生時代から家庭菜園をやっている」

 家庭菜園。どう見ても大自然よりビル街が似合う人なのに、意外だ。含み笑いを浮かべる僕を、マコトさんが不思議そうに覗き込む。

「どうした?」

「意外だなーと思って」

「ああ、よく言われるよ」

 木漏れ日に輝く林道を歩く。いつも時間に追われて、会ったらセックスして別れるというパターンばかりだから、こういうデートは珍しい。

 錦鯉が泳ぎ回る大きな人工池に辿り着いた。池を臨む休憩所に並んで腰かけ、こんもりと茂る低木や石造りの灯篭をぼんやりと眺める。人は他に誰もいない。静かで穏やかな時間。マコトさんが額の汗を拭い、ふうと息を吐いた。

「疲れたな。こんなに歩いたのは久しぶりだ」

「まだそんなに歩いてないよ」

「純くんとは体力が違うんだよ。あまりおじさんをいじめないでくれ」

 マコトさんが笑った。僕は笑い返す。笑いながら、さらりと言う。

「ねえ、マコトさん。一つ聞いていい?」

「なんだ?」

「奥さんのこと、愛してる?」

 聖域中の聖域。

 僕たちが僕たちであるために絶対に触れてはいけない場所。佐々木誠の急所。そこにナイフを突き立てる。通りすがりに、通り魔のように。

 あっという間にマコトさんから笑顔が消えた。怒りながら泣いているような、複雑な顔で僕を見る。そのうちに僕から顔を逸らし、池を眺めながら独り言のように呟いた。

「愛していない」

 マコトさんが薄く唇を噛む。――ごめん。もう二つ、聞かせて。

「僕のことは、愛してる?」

「ああ。愛しているよ」

「じゃあ、僕と奥さんが同時に川で溺れていたら、どっちを助ける?」

 よくあるたとえ話だ。

 親と恋人。息子と娘。もしも甲乙つけがたいほどに愛している人たちが二人同時に命の危機に陥ったら、どちらを助けるか。正解の無い、ただ愛情を測るためだけに存在する厭らしい質問。

 じゃあもし、愛している人と愛していない人だったら?

 愛せる人と愛せない人だったら?

「純くん」

 マコトさんが僕の方を向いた。

「今日はどうした。本当に大丈夫なのか? 何かあったんじゃないのか?」

 心配しながらはぐらかす。ケイトさんの言う通りだ。ズルい男。

「大丈夫だよ。色々あって大変だったけれど、今は平気」

 色々。言葉で靄をかける。「この先は断崖絶壁かもよ」と示して退かせる。僕もマコトさんに負けず劣らず、ズルい男。

「……そうか。純くんがそう言うなら、それでいいよ」

 マコトさんの大きな手が僕の頭を撫でた。温かくて優しくて気持ちいい。こんな心地よくごまかしてくれるから、ごまかされてもいいなんて思ってしまう。

 身体をマコトさんに傾ける。マコトさんが僕の肩を抱き、顔を近づける。僕は応えて振り向く。唇が重なる。舌が絡み合う。煙草の味。ちんぽこが、ビンビンになる。

 マコトさんがゆっくりと僕から唇を話した。そしてまた僕の頭を撫でながら、小さな子をあやすみたいに言う。

「本当に辛くなったら、必ず言うんだぞ」

 もし僕がマコトさんに相談を持ちかけたら、どうなるか。

 きっとマコトさんは真摯に話を聞いてくれる。うんうんと頷いて、今みたいに僕の頭を撫でたりしながら、いつまでも聞き続けてくれる。そして話し終えた僕にキスをする。怪我が治っていればセックスをする。僕は一歩も進まないまま、一つも解決しないまま、何だかそれで満足してしまう。

「――うん」

 決めた。

 終業式、出よう。

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