6-4
終業式の日は、快晴になった。
まだギブスを嵌めたままだったので、制服を着る作業を母さんに手伝って貰った。シャツを僕の腕に通しながら、母さんは「本当に行くの?」と僕に聞いた。僕は「行くよ」と答えた。母さんはそれから、何も言わなかった。
電車に乗り、学校に入り、教室に向かう。教室の扉の前に辿り着く。先生にも三浦さんにも行くと言ってある。亮平から確認もされた。話は十分に伝わっているはずだ。僕は大きく深呼吸をし、左手で扉を開いた。
「おはよう」
時間が止まった。
そうとしか表現できないぐらい、みんな見事に固まっていた。まるで何も無かったかのように受け入れてくれるなんて都合のいいことを考えていたわけではないけれど、それでもここまでの反応は辛い。
そろそろと自分の席へ行く。視線が刺さる。待ち針が刺さり過ぎてウニのようになった裁縫用の剣山を僕はイメージする。
明るい声が、時間を動かした。
「純くん、おはよー」
背後から寄って来た亮平が、右手をポンと僕の肩に乗せた。そのまま左手を僕の股間に伸ばし、だけど途中で止める。
「怪我人だから聞いとくけど、揉んでいい?」
「……揉んでいいよって言うと思う?」
「そりゃそうだ」
亮平がカラカラと楽しそうに笑った。それから僕の机に座り、椅子に座る僕に向かってほとんど一人で喋り続ける。快活な声に導かれてここそこで雑談が再開され、やがて教室の扉がガラリと開いた。
「おはよー」
再び、時間が止まった。
止めた本人――三浦さんは、突然の注目にきょとんとしていた。原因を探すように教室をぐるりと見渡す。原因を見つける。唇が、大きく綻ぶ。
「安藤くん!」
三浦さんが駆け寄ってきた。同時に亮平が机から降りる。「ごゆっくり」。亮平が含み笑いを浮かべながら、僕から離れた。
亮平がどいた僕の机に、三浦さんがひらりと飛び乗った。紺の靴下を履いた足がすぐ目の前に来る。すべすべした女の子の足を眺めながら、まずは他愛もない話をする。そのうちに三浦さんが声を潜め、僕に提案を寄越した。
「ちょっと、二人きりになろうよ」
教室を見回す。目が合ったクラスメイトが片っ端から目を逸らす。僕は、頷いた。
僕たちは三階の空き教室に向かった。三浦さんが教室の窓を眺めて「ここ、一時期、閉鎖されてたんだよ」と呟く。飛び降りなんてどこからでも出来る。部屋を閉鎖したところで何にもならない。思ったけれど、言わなかった。
前と同じように、二人で机に座って向かい合う。わざわざ二人きりになるまでもない話がしばらく続いた。そのうちに三浦さんが上体を僕に傾け、尋ねる。
「今日は、どうして来てくれたの?」
このまま逃げ続けていたら前に進むきっかけがつかめなくなると思ったんだ。だから三浦さんの頼みに託けて、一度、戦ってみようと思った。もちろん、三浦さんのことを喜ばせたいという気持ちもあるよ。安心して。
言わない。肩を竦め、おどけてみせる。
「三浦さんの頼みに応えただけだよ。彼氏だからね」
「……本当にそう思ってる?」
「思ってるよ」
間髪入れずに答える。三浦さんは「ならいいけど」と納得したような言葉を、納得しているとはとても思えない表情で吐いた。そして上体を逸らして後ろに手をつき、ぼんやりと天井を眺める。
「安藤くんがいない間にね、クラスで同性愛について話したんだ」
楽しい話ではない。物憂げな目が、雄弁にそう語っていた。
「ロングホームルームのディスカッションでテーマになった。宗教の話とか、腐女子の話も上がったりして、なかなか濃いディスカッションだったよ。同性愛は異常だなんて言う人は一人もいなかった。どんな形でも人を愛するのは素晴らしいことだ。それを咎める権利は誰にもない。そんな感じで終わった。わたしもそれはその通りだと思う。でも、帰ってからふと思ったの」
三浦さんが、僕を見た。
「クラスにもう一人ぐらいいても、おかしくないんじゃないかなって」
同性愛の発現率は分かっていない。分かっていないけれど、僕のクラスは男女合わせて約四十人。5%を超えていれば期待値が2を超える。5%以上の発現率を提唱している学者なら、いくらでもいる。
「男子じゃなくて女子かもしれない。先生の可能性だってある。でも、いてもおかしくないことだけは間違いない。それに気づいた時、その人はどういう気持ちでわたしたちのディスカッションを聞いていたのかなって考えた。おかしくない、普通だよって結論が出たのに、その人は名乗り出なかった。余計なことするな。そっとしておいてくれ。そんな風に思ったかもしれない」
三浦さんが髪を掻き上げながら、寂しそうに呟いた。
「わたしたちの出した綺麗な結論は、所詮他人事だから上から目線で好き勝手言っているように聞こえたのかなって、考えた」
コチコチと時計が時間を刻む。三浦さんが「ねえ」と前のめりになって呟く。
「わたしは、どうすれば安藤くんに近づける?」
真摯な視線が僕を射抜く。答えを教えてくれと、僕に求める。
「わたしの言葉は、どうすれば安藤くんに届くの?」
チャイムが鳴った。
朝のホームルーム五分前を告げる予鈴。僕は「行こう」と机から降りた。不満そうな表情でしぶしぶ僕についてくる三浦さんを先導し、教室の扉を開ける。
腕を組み、廊下の窓枠にもたれかかる小野と鉢合わせになった。
僕の後ろで三浦さんが息を呑んだ。小野が窓枠から身を起こし、僕に近づく。僕は左の拳を固く握りしめ、胸を張った。
「盗み聞き、趣味なのかよ」
小野が足を止めた。ボソリと低い声を吐き捨てる。
「今回は聞いてねえよ」
「じゃあなんなんだよ。言いたいことがあるなら言えよ」
虚勢だ。自分が一番よく分かっている。小野は嘘発見器。みんなが僕についている嘘を暴く。その嘘を嘘と知りながら目を背ける僕の嘘も、同時に。
小野が、くるりと僕に背を向けた。
「別にねえよ」
小野が廊下の奥に消える。後をつけて、出て来るまで待っていて、言いたいことがないわけがない。だけど追いかける気にはならなかった。小さくなる背中を見つめる僕に、三浦さんが話しかけてくる。
「小野くん、さっき話したディスカッションの時、すごく印象的なこと言ってたんだ」
小野が廊下を曲がった。背中が見えなくなる。
「同性愛なんか気にしないとか口では言ったって、実際に明かされたら気になるに決まっている。同性愛者はそれを分かっているから打ち明けないんだろう。なのに、耳触りのいいことだけを言うのは卑怯じゃないか。俺たちは認めている。お前らが勝手に隠しているだけ。そういう風に、責任逃れしたいだけじゃないかって」
責任逃れ。みんなは悪くない。隠している僕が悪い。そう思ってやり過ごした日々。
「俺たちは認めない。だから、お前たちは隠せ」
小野は嘘発見器。世界の嘘を暴く正直者。
「結局、そうなっちゃうものなのかな」
――そうかもね。
何も答えず、無言で歩き出す。三浦さんは無言でついてくる。小野は何を言いに来たのだろう。そんなことが無性に気になった。
◆
朝のホームルームの後は、終業式のために体育館に移動した。
教師は、体育館端に並ぶパイプ椅子に座って待機。生徒は、各クラス男女一列ずつで縦に並び、体育座りで待機。主席番号一番の僕は最前列。背後に三学年分の生徒の気配を感じる。大軍を率いているような気分だ。
やがて終業式が始まった。校歌斉唱の後、てっぺんハゲの校長がスピーチのために雛壇の上に現れる。校長はスピーチを始める前、僕をちらりと見て顔をしかめた。学園の平和を乱す悪の使者め。表情がそう語っていた。
校長のスピーチの後は、生活指導の先生による夏休みの過ごし方に関する諸注意。角刈りでガタイのいい中年男性教師。見るたび、ホモ受けの良さそうな先生だなと思う。僕のタイプではないけれど。
夏休みの注意が終わった後、場を仕切る教頭先生が、僕にとってのメインイベントに触れた。銀縁の眼鏡をかけた痩せぎすの壮年教師。この人はちょっとタイプ。
「続けて、各部活動の表彰を行います」
三浦さんを含む何人かの生徒がぞろぞろと雛壇に上がる。三浦さんは最後尾。雛壇に上がりながら、僕に向かって軽く手を振ってきた。恥ずかしいので無視した。
教頭が表彰者の名前を呼ぶ。呼ばれた生徒はスピーチ台の奥に立つ校長のところに行き、校長はやってきた生徒に賞状やトロフィーを渡す。渡された生徒は雛壇の奥へと引っ込み、最後の総括を待つ。
陸上部、剣道部、ソフトテニス部、将棋部。そして――美術部。
「二年C組、三浦紗枝」
三浦さんが「はい」と凛とした声で呼びかけに答えた。背筋を伸ばして、きびきびと校長のところまで歩く。
「表彰状。三浦紗枝。あなたは――」
校長が賞状を読み上げ、三浦さんに渡した。三浦さんはお辞儀をしながら、両手でそれをうやうやしく受け取る。パチパチとまばらな拍手の音が体育館に鳴り響く。僕も左手を右手のギブスを軽く叩いて、ファンファーレに微力ながら参加する。
――良かったね、三浦さん。
君は信じてくれないかもしれないけれど、僕は本当に君のことが好きなんだ。だから君が嬉しいならば、僕も同じように嬉しい。心からの祝福を君に贈るよ。君が――
どんな絵を描いたのかは知らないけれど――
僕の左手が、止まった。
違和感。トランプの中に一枚UNOが混ざっているような、しっくり来ない感覚。あるべき姿になっていないという気持ち悪さ。酷く歪なものが、目の前にある。
僕は三浦さんの恋人。祝福してくれと望まれて、それに応えるためにやってきた。彼女は僕を好いていて、僕も彼女を好いている。
なのに、どんな絵を描いたのかすら知らない。
なぜ?
――決まっている。
聞いていないからだ。
三浦さんが身を起こした。校長が、教頭が、生活指導の先生が、誰もが同じ行動を期待する。既に表彰を受けて待っている生徒たちの横に並び、最後に校長から全体への表彰をもう一度受け、雛壇の上から去る。そういう式典らしい行動を。
だけど、動かない。
賞状を受け取った三浦さんは、校長の前から一歩も動かなかった。そして雛壇の上から体育館の床に座る僕たちを――僕を見下ろす。大きな瞳で真っ直ぐに僕を見て、目から言葉を叩き込んでくる。
『安藤くんが悪いんだよ』
頭蓋の中に、澄んだ声が反響する。
『いつまで経ってもわたしと話をしようとしない、安藤くんが悪いの』
僕たちは付き合っていた。
僕は彼女の秘密を知った。彼女は僕を秘密の会合に誘った。彼女は僕に惚れた。彼女は僕に告白した。僕はそれを受け入れた。僕たちは、恋人になった。
デートをした。キスをした。セックスをしようとした。お互いの趣味を晒しあった。
だけど僕たちは――
話を、していなかった。
『わたしのこと、分かって』
病室で語られた言葉が、脳裏に蘇る。
『どういう人間か理解して』
おっぱいの柔らかさが、心臓の鼓動が、左手に蘇る。
『それから、ちゃんと話をしよう』
三浦さんがスピーチ台のマイクを掴んだ。
校長が呆ける。教頭も、生活指導の先生も、既に表彰を受けている生徒たちも同じように呆ける。壇上で呆けていないのはただ一人。
マイクを掴んで笑う、三浦さんだけ。
「わたしは」
三浦さんが大きく息を吸った。吐息がマイクを撫で、ノイズが響く。
「ホモが、大好きでーーーーーーす!!!」
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