3-2
土曜日、僕は時間よりだいぶ早く待ち合わせ場所の『39』に出向いた。
カウンター席に座り、ケイトさんにカフェラテを淹れてもらう。BGMとして流れているQUEENの『クレイジー・リトル・シング・コールド・ラブ』に耳を傾けながら、カフェラテを飲み、熱で喉をほぐす。そして、洗ったばかりの食器を布巾で拭いているケイトさんに話しかけた。
「ケイトさん、聞きたいことがあるんですけど」
「なに?」
「彼女が出来て、二週間後デートに行くんですけど、女の人ってどういうところに連れていけば喜びますか?」
「どこでもいいじゃない。好きな相手とならただBrownsvilleにドライブに行くだけでも楽しいものよ」
「どこですか、そこ」
「AmericaのNew York。Stand By Meという映画は知ってる? あれの撮影地」
「へー」
「ちなみにSlumよ。主な産業はDrugと言われているわ」
「……へー」
会話が途切れた。ケイトさんが鼻歌を歌いながら食器を拭き続ける。僕は、おそるおそる尋ねた。
「あの……それだけですか?」
「なにか?」
「ゲイなのに彼女が出来たというところに、疑問はないのかなと」
「あら、聞いてほしかったならそう言ってよ。珍しくないからThroughしちゃったわ。純くんも知っているでしょう?」
よく知っている。そもそも僕は、恋人が既婚だ。
「この国はそうしないと生き辛い国。外国人のワタシだって、それぐらいは分かっているつもりよ」
ケイトさんが食器を拭く手を止めた。カウンターに頬杖をつき、僕に話しかける。
「純くん。少し前に二丁目で起きた『看板事件』は知ってる?」
僕は首を横に振った。ケイトさんが人差し指でカウンター奥の壁を指さす。
「昔、あっちに、たくさんの男の人が寄り添う絵の看板があったの。GayをimageしたHIVは身近なものと教える真面目な看板よ。その一人の男性が下着姿だったのね。そこにClaimが入って、行政が看板の描き直しを命令した。Tank topを着せて、Short pantsを履かせて、それでもまだ下着が少し見えていたから最後は広告代理店が勝手に修正した。Short pantsが和製英語なのはご存知?」
「いえ」
「そう。まあ、それはどうでもいいわ。要するに、下着姿のGayの看板が行政命令で描き直されたの。でもワタシはこの国で、Semi-nudeの女の子や、紐みたいな水着を着た女の子の絵や写真を使った、Sexualな看板をたくさん見たことがある。女性向けで男性のそういうものもある。だけどそっちにはClaimは入らない。仮に入っても行政が動いたりはしない」
ケイトさんが、ふうと息を吐いた。
「『見逃してやっているだけなんだから勘違いして表に出て来るな』。世間はそう言っているんだと、ワタシの友達のGayはぼやいていたわ」
見逃す。摩擦をゼロにするように、空気抵抗を無視するように、最初から存在しないことにする。
「そういう国でHomosexualがHeterosexualのフリをするのを止めろと言えるほど、ワタシだって立派な人間じゃない。特に純くんはまだBoyなんだから、迷って当然よ」
ケイトさんが口を閉じる。海を詰め込んだみたいな青い瞳で僕を見る。この遠い国からやって来た同性愛者の女性は、今までいったいどんな人生を送って来たのだろう。そんなことが、にわかに気になる。
BGMが変わった。
荘厳なイントロ。後に続くフレディの力強い歌声。死を目前にした世界最高峰のボーカリストが放つ魂の叫び。フレディ存命のQUEENが最後に発表したアルバム『イニュエンド』の最後の曲、『ショウ・マスト・ゴー・オン』だ。
「純くん」
音楽に耳を傾けていたケイトさんが、僕に声をかけた。
「一つだけ、Hardなことを言うとね」ケイトさんが指を一本立てた。「貴方はShowを始めてしまった。嫌になったからと言って、全部放り投げてSelfishに舞台から降りるような真似は許されない。それだけは忘れないで」
僕は頷いた。分かっている。既に幕は上がった。僕が上げた。僕と三浦さんがどんな結末を迎えるにせよ、僕は最後まで「異性愛者」の役を演じなくてはならない。例えその劇が、命尽きるまで終わらないようなものだったとしても。
カランコロン。
扉のベルが鳴り、僕は入口に目をやった。ぴっちりと胸に貼りつくTシャツを着て、色あせたジーンズを履いた、ストレートロングの若い女性。知らない人だ。
ケイトさんが「久しぶり」と女性に向かって微笑んだ。そして遠くの席に座った女性のところに向かおうとする。僕はその背中に声をかけた。
「あの、ケイトさん」
「大丈夫。言わない。ワタシに相談するのと彼氏に言うのは意味が違うものね」
読まれた。ケイトさんがくるりと振り向き、悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「ワタシは男女問わず、Cuteな子の味方よ」
◆
マコトさんと合流した後は、すぐラブホテルに行った。
行為が終わった後、服は脱いだまま、二人でベッドの上で布団を被って横になる。やがてマコトさんがベッドを抜け出し、煙草を吸い始めた。小さな丸テーブル近くの椅子に腰かけ、ガラスの灰皿にとんとんと灰を落としながら、ふーと煙を吐く。
「ねえ、マコトさん」
もう秘め事は終わったと、明確に分かる呼び方で声をかける。マコトさんは椅子に座ったまま、「何だい?」と僕の方を向いた。
「家族旅行、どこ行ったの?」
マコトさんの細い眉がピクリと動いた。佐々木誠は聖域。その暗黙の了解を、僕が踏み越えたことに対する警戒。
「香港だよ」
「海外に行ったんだ。すごいね」
「僕は出張でよく行っているから今更だけどね。ツアコンみたいに家族をあちこちに連れて歩いただけだ」
「マコトさんは楽しまないんだ」
「家族サービスは、サービスを提供する側は楽しめないのさ。次は、何の興味もない芸能人目当てでお台場に連れ出される予定だ」
「いつ?」
「再来週の土曜」
再来週の土曜。ダブルデートの日。その日僕たちは、二人揃って異性愛者になる。
「お台場には巨大な温泉があるらしいから、そこで身体を休めて来るよ。そのうち一緒に行こう。館内着が浴衣なんだ。純くんの浴衣姿を見たい」
マコトさんが微笑み、僕に口説き文句を放った。いつもなら大げさに反応してみせるところ。だけど今日は別のことを考えているから、反応が鈍い。
「そうだね」
気だるげに答える。会話が途切れ、マコトさんが煙草を吸う。煙の行く末を追いかけるように、ぼんやりと淡い照明が輝く天井を見上げる。
「僕さ、ゴールデンウィークに彼女出来たんだ」
マコトさんの口から伸びる煙が、僅かにブレた。
「告白されて受け入れた。前に話した、BL本買ってるところ見ちゃった子。マコトさんの言った通り、あれから急接近した」
マコトさんが煙草を灰皿でもみ消した。そして、口の中に残っている煙を吐き出すみたいに細く息を吐く。
「それは、おめでとう」
――嫉妬するな。
あの時のマコトさんの言葉を思い出す。仕方ない。僕たちは僕たちの間に、そういう感情を持ち込んではいけない。
「ねえ、マコトさん。既婚のゲイって、普通なの?」
いつになく踏み込んでくる僕に、マコトさんが少し困ったような表情を浮かべた。
「珍しくはない。ただ普通かと聞かれると難しいな。そういうことが嫌いなゲイもたくさんいるから」
「そうなの?」
「ああ。純くんは『卑怯なコウモリ』という童話を知っているかい?」
僕は「うん」と頷いた。獣の一族と鳥の一族が争う中、獣が優勢な時は「私は獣です」、鳥が優勢な時は「私は鳥です」と、どちらにもいい顔をしていたコウモリがいた。しかし、やがて獣の一族と鳥の一族は和解。何度も寝返っていたコウモリは両方から疎まれ、暗い洞窟に身をひそめるようになった。有名な童話だ。
「僕はコウモリなんだよ。ある時は異性愛者、ある時は同性愛者、そうやって自分を使い分けている。そういう卑怯なことをしていれば、嫌う人間も出て来る」
マコトさんがふと遠い目をして、視線を横に流した。
「もし童話で獣と鳥が和解したように、異性愛者と同性愛者が分け隔てなく存在出来る社会が実現したとしても、僕のようなコウモリを認めてくれる場所はどこにもない」
コウモリは認められない。愛し合える恋人も、血の繋がった家族も欲しい。その願いを叶えたいのならば僕たちは、永久にショウを続けなくてはならない。
「……そっか」
力なく呟き、マコトさんに背を向ける。やがて、マコトさんが布団の中に潜りこんで来た。僕の背中にぴたりと肌を合わせ、温もりを交換して来る。
マコトさんの両手が、僕の胸に伸びた。
無骨な指がツンと尖った突起を撫でる。頭の中が真っ白になる。荒い息を吐く僕の耳元で、マコトさんが湿っぽく囁いた。
「ねえ」マコトさんが、僕の乳首をつまんだ。「あと一回、生でしようか」
生。
脳みそに氷の刃を挟まれたみたいに、思考がすっと冷えた。だけど執拗に弱点をねぶり続ける指が、頭蓋の中をすぐにまた火照らせる。僕は息を切らしながら、途切れ途切れに言葉を紡いだ。
「生、は、ちょっと」
「どうして?」
「病気、怖い」
「大丈夫だよ。ちゃんと検査している」
マコトさんが僕の上半身を、両腕ごと後ろからギュウと抱きしめた。逃がれられないように拘束して、左手で右の、右手で左の突起を撫でる。神経が震える。快楽の大波が、身体中を駆け巡る。
「友達が」激流に逆らうように、僕は身を捩った。「HIVの、キャリアなんだ」
マコトさんの手が一瞬だけ止まった。だけど本当に一瞬。すぐに愛撫は再開され、僕は喘ぎながら、悶えながら、弱々しい抵抗を続ける。
「ネットの、会ったことない、友達だけど、よく話してて、それで僕、そういうの、他人事じゃないって、分かって、だから――」
「ジュン」
威圧感のある低い声。マコトさんの愛撫と、僕の抵抗が止まった。
「父さんの言うことが聞けないのか?」
それは――ズルい。
僕は、全身から力を抜いた。マコトさんが左手で僕の右胸の突起を嬲りながら、右手を股間に伸ばす。そしてカチカチに勃ち上がったちんぽこの先端を撫でて、「濡れてるぞ」と嬉しそうに囁いた。
◆
家に帰った僕は、真っ先にノートパソコンを立ち上げた。
メッセンジャーのメンバーリストを確認する。ミスター・ファーレンハイトはオンライン。迷うことなくメッセージを飛ばす。
『今、話せる?』
リアクションは、すぐに返ってきた。
『話せるよ。どうした?』
『聞きたいことがあるんだ。本当に、とても失礼な質問だから、答えたくなければそれでも構わない』
『いいよ。話してごらん』
『HIVに感染するまで、何回ぐらいゴム無しのセックスをしたか覚えている?』
タイプした質問がチャットウインドウに浮かぶ。自分がどれほど不躾なことを聞いているか、アウトプットされた文字を読んで実感する。だけど、知りたい。確率論ではない現実の話を聞きたい。緊張に背筋を強張らせながら、じっと返事を待つ。
ウインドウが動いた。
『一回』
文字は、絶望的な重みを以て、僕の視界をジャックした。
『僕が彼を口説き倒して、ゴムを用意する間もなくその場で抱いて貰った、たった一回だけだ。間違いない。僕はその一回でHIVに感染した』
一回。たった一回。身体が小刻みに震え出した。
『それで、それを聞いてジュンはどうしたい』矢継ぎ早にメッセージが飛んでくる。『三回までなら大丈夫とか、そういうふざけた言葉を求めているのか?』
見透かされている。僕は慌てて謝罪の言葉をタイプした。
『ごめん。その通りだ。一回やってしまって、不安になっていた』
『そんなことだろうと思ったよ。どうして断らなかった』
『断れる雰囲気じゃなかったんだ』
『それでも断るんだ』
強い言葉。僕のタイピングが止まった。その隙にミスター・ファーレンハイトが、場を和ますようなメッセージを繋げる。
『まあそういう僕はキャリアだ。偉そうなことは言えない。脅すような言い方をして悪かった』
『一回は、脅しなの?』
『さあ、どうだろうね。僕の言葉なんて全部嘘かもしれないよ。実は性別も年齢も性的嗜好もHIVも全部嘘で、どこにでもいる異性愛者の女子中学生ということもありうる』
ふざけながらはぐらかす。本当なんだろうな。そう思った。
『ところで、君に惚れている例の女の子はどうなった?』
ミスター・ファーレンハイトが話題を変えた。重たい話題を変えようとしているのかもしれないけれど、そちらはそちらで、今はそれなりに重たい。
『付き合うことにしたよ』
ミスター・ファーレンハイトに成り行きを説明する。聞き終えたミスター・ファーレンハイトは、まずは僕に一言、辛辣な言葉を寄越した。
『今日の君は、いったい僕をどこまで呆れさせれば気が済むんだ?』
僕はグッと顎を引いた。だがこの反応は当たり前だ。僕は自分が「外道」とまで評した選択肢を、自らの意志で選んだのだから。
『厳しいね。君にそう言われると泣きたくなるよ』
『それは申し訳ない。まあ、もうこれ以上失うものがない人間ほど、他人に偉そうに説教を垂れるものさ。きっと僕がジュンの立場なら、ジュンと同じことをしている』
『君がこんなコウモリみたいな真似をするかな』
『するさ。上手くコウモリをやれるならそれに越したことはない。結局、獣も鳥もコウモリが羨ましいんだ。だから迫害する。まあ僕は、ジュンが上手くコウモリをやれるタイプだとは思えないけれど』
――痛いところを突かれた。
『確かに、不安だよ』
弱音を吐き出す。誰にも打ち明けられない本音を。
『彼女と居ても、センサーが全く反応しない』
『センサー?』
『股間のだよ』
『ああ』
『手を繋いでも、胸をおしつけられても、キスをしても、僕のセンサーはまるでぴくりともしない。こんなザマで普通のセックスが出来るのか、僕は怖くて仕方がない』
僕とミスター・ファーレンハイトには何のしがらみもない。僕たちの間に存在するものはQUEENだけ。だから本音が言える。弱音が吐ける。
そしてミスター・ファーレンハイトは、いつも少し変わった角度からそれに答える。
『ジュン。『普通のセックス』とは何だ?』
概念的なメッセージ。返信に困っている間に、次のメッセージが来る。
『子孫繁栄のためのセックスが普通だと言うならば、コンドームをつけてするセックスはどうだ。男女のセックスが普通だと言うならば、八十歳のおじいちゃんと十三歳の少女のセックスはどうだ。君にとって『普通のセックス』とは、いったい何なんだ?』
僕にとっての普通。僕は首を捻り、返事を打った。
『分からない。考えたことも無かった』
『いいさ。君は僕と違ってまだまだ時間があるんだから、これから考えればいい』
『君にだって、まだまだ時間はあるよ』
前向きに励ます。ミスター・ファーレンハイトは、スルーした。
『ジュン。そろそろ僕は夕飯だ。おいとまするよ』
『分かった。話してくれてありがとう』
『HIVの検査は感染から約三ヶ月経たないと正確な結果が出ない。不安を忘れる時間を与える、ウィルスの狡猾な生存政略だ。必ず検査には行きなよ』
『分かってる。心配してくれてありがとう』
終わりの気配。僕は別れの言葉をタイプする。だけどそれを送信するより早く、ミスター・ファーレンハイトからメッセージが届いた。
『ジュン』
名前だけ。とりあえず、続く言葉を待つ。だけどなかなか現れない。しびれを切らして僕から呼びかけようとした時、ようやく、ウインドウが動いた。
『じゃあね』
不思議な間。僕はメッセンジャーを閉じ、ミスター・ファーレンハイトのブログを見に行った。ブログの更新は、ゴールデンウィーク前で止まっていた。
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