彼女が好きなものはホモであって僕ではない

浅原ナオト

Track1:Good Old Fashioned Lover Boy

1-1


 うららかな陽気に包まれた春休み最終日、新宿の書店のレジ前で遭遇したクラスメイトの三浦さんは、制服姿の少年とスーツ姿の男が抱き合う絵が表紙になった本を女性店員に差し出したまま、『時の止まった少女』とタイトルをつけて保存したくなるぐらい見事に固まっていた。

 僕がグラビアアイドルの写真集でも持っていれば、こっちも似たようなものだよと慰めることも出来たのだけれど、残念ながらミステリー小説の文庫本だった。生ける屍と化した三浦さんに向かって、女性店員が復活の呪文を唱える。

「カバーはお付けしますか?」

「あ、え、い、いいです」

 三浦さんの本の帯には『先生。僕の処女、奪ってくれませんか?』と大文字で記してある。その表紙と帯を丸出しにして本当にいいのだろうか。まあ、本人がいいと言っているのだからいいのだろう。余計なお節介は焼かないことにしよう。

 支払いを終えた三浦さんは、麻薬でも受け取ったかのような勢いで本をハンドバッグにしまった。そしてレジから少し離れたところで僕を上目づかいに見つめる。僕は薄茶色の紙カバーを被せた文庫本を持って歩み寄った。

「偶然だね」

「……うん」

「好きなの?」

 よくもまあ、ここまで心を抉る四文字を咄嗟に出せたものだと思う。主語も目的語も省略した台詞を三浦さんは瞬時に理解し、肩甲骨の辺りまで伸びたポニーテールを首と一緒にぶんぶん振り回す。

「違う! 妹に頼まれたの!」

「そうなんだ。それじゃあ、また明日」

 僕は三浦さんにくるりと背を向けた。待っていたから話しかけただけであって、別に用事はない。

 だけど三浦さんは、そうでは無かった。

「待って!」

 三浦さんは小走りに僕に駆け寄り、Tシャツの裾をぐいと引っ張った。この一瞬だけを切り取れば普通のカップルに見えただろう。少なくとも、エロ本を買ったところをクラスメイトに目撃された女子高生と目撃した男子高校生には見えないはずだ。

「なに?」

「今日のこと、クラスのみんなには黙ってくれる?」

「妹のBL本買ってたこと?」

 BLとはボーイズラブの略。男同士の恋愛というかまぐわいというか、とにかくそういうジャンル全般を指す用語だ。決してベーコンレタスのことではない。

「……実は、妹のじゃないの」

 分かってる。変に引っ張ってごめん。

「三浦さん、腐女子だったんだ」

 男同士の恋愛ものが好きな女性は、界隈では「婦女子」をもじって「腐女子」と呼ばれる。腐った女子。酷い呼称だ。

「腐女子っていうか……腐女子」

 無駄に一回否定が入った。三浦さんはパンと両手を合わせ、僕を拝む。

「お願い! 他の人には絶対に言わないで!」

「別にいいけど……」

 僕は右の手のひらを上に向けて、三浦さんにすっと差し出した。

「さっき買ったやつ、軽く読ませてくれる?」

 三浦さんがパチパチと目を瞬かせた。あまり気にしたことは無かったけれど、大きな瞳と丸い輪郭がなかなか愛嬌のある顔をしている。

「興味あるの?」

「別に。ちょっとどういうものなのか、読んでみたいだけ」

 三浦さんは腑に落ちない様子で僕に本を渡した。煩悩全開の表紙と帯を改めて確認し、やっぱりさっきカバーをして貰うよう促せば良かったと若干後悔した。

 本は漫画だった。とりあえず、濡れ場までパラパラと飛ばす。

 顔から思考回路まで何もかもが小学生レベルに幼い男子高校生が、現実にいたら蛇蝎のごとく嫌われて物真似ネタ化不可避な物言いをする教師に放課後の教室で告白して、その場で本番突入。謎の潤滑性体液を発する男子生徒の不思議アナルに、教師がギンギンに勃起したペニスを正常位で生挿入。あっさりと性交は成功し、男子生徒は教師の背中に手を回して「先生、気持ち良いよお」と、お前そこ教室だぞと見ていて心配になるぐらいに喘いでいる。

「ファンタジーだなあ」

 つい、感想を呟いてしまった。とりあえず奇跡の同時射精まで読んで、縮こまる三浦さんに本を返す。三浦さんはまたしても、外気に触れたら紙が溶けて猛毒が蔓延するかのように、本を凄まじい勢いでハンドバッグにしまった。

「本当に、絶対に、誰にも言わないでよ」

「分かってるよ」

 三浦さんが恨めしそうに僕を見る。そんなに気にすることだろうか。少し探せば同好の士がいくらでもいそうだけど。

「三浦さんはどうしてホモが好きなの?」

 何となく聞いてみる。生き方の参考になるかもしれない。――嘘。単なる嫌がらせ。

「どうしてって……なんか、こう、非日常感というか……」

「非日常かな」

「非日常でしょ。わたしの身近にはそういう人、いないもん」

 ――目の前にいるよ。

 当然、口にはしない。勘違いしてはいけない。彼女が好きなものはホモであって、僕ではない。

「まあ、そうだね」

 僕は話を打ち切り、「それじゃ」と三浦さんに別れを告げた。三浦さんはまだ何か言いたげに唇を歪ませていたけど、あの不信感は何処まで行っても拭いきれるものではない。付き合わないのが正解だ。

 三浦さんが腐女子だったことは正直、そこまで意外ではない。

 三浦さんとはクラスメイトとしてもう一年の付き合いになるけれど、僕が彼女と話したことは数えるほどしかない。それでも、どこか裏があるような感じはしていた。人づきあいが悪いわけでもないのに、彼女の人間臭さを感じる話をあまり聞かないからだろう。僕自身がそうだからなのか、軸足を学校に置いていない人間は何となく判別出来る。

 三浦紗枝。僕と同じC組に所属する女子。美術部。文化祭で出店の看板を描く係に選ばれるぐらいには絵が上手い。

 ホモが好き。

 クラスメイトの安藤純がホモであることは、知らない。


    ◆


 本屋を出て、新宿二丁目に向かう。

 新宿二丁目。同性愛者のメッカ。もっとも僕は昼にしか訪れたことがないから、街に吸い寄せられた同性愛者たちが織り成す濃密な夜は知らない。とりあえず、一回五万円の男性モデルが表通りに堂々と看板募集されるぐらいには自由の国だ。

 二丁目のメインストリートである仲通りを歩く。半裸男性のポスターを貼りつけたアダルトショップを横目に狭い路地を曲がる。すぐ、黄色い背景に『39』と黒い文字で記された看板が目に入った。昼はカフェ、夜はバーをやっている僕の目的地。

 板チョコみたいな扉を開くと、カランコロンと扉についているベルが鳴った。紺色のエプロンを身に着けて、カウンター内のシンクで食器を洗っていた店長のケイトさんが、ぼんやりとしたランプ照明に白い肌とブロンドの長髪を輝かせながら笑う。

「純くん。いらっしゃい」

 入口近くのカウンターに座る。ケイトさんが寄って来て僕に声をかけた。

「いつものでいい?」

「はい。お願いします」

 ケイトさんがコーヒーミルの元へ向かう。僕はゆったりと回る天井のシーリングファンを見上げながら、BGMとして流れている洋楽に耳を澄ました。明るい曲調に乗った意味深な歌詞を耳に取り込み、気分を高揚させる。

「待ち合わせ?」

 いつの間にか、ケイトさんが僕のカフェラテを手に傍まで来ていた。僕は「あ、はい」と慌ててそれを受け取る。ケイトさんがくすくすとおかしそうに笑った。

「ぼけっとしちゃって。どうしたの?」

「すいません。好きな曲だったで」

「ああ。Good Old Fashioned Lover Boyね」

 ケイトさんが本場英国仕込みの発音の良さを見せつける。イギリスの四人組ロックバンドQUEENの『グッド・オールド・ファッションド・ラヴァー・ボーイ』。ファン外の知名度は低いけれど、ファン内の知名度は高い人気曲。QUEENの楽曲の名前を店名に使用し、昼間はQUEENの曲をBGMとして店に流し続けるぐらいのファンであるケイトさんも当然知っている。そもそも僕にQUEENを教えたのは、ケイトさんだ。

「この曲、Lyricの解釈が二つあるじゃない」ケイトさんが、カウンターの向こうから少し身を乗り出した。「どっちが好き?」

 二つの解釈。一つが、男性である「I」が同じく男性である「YOU」とのデートに臨む男同士の恋愛の歌だという解釈。素直に真っ直ぐ歌詞を読めばこちらになる。もう一つが、デートに赴く男性の「I」を周囲が囃し立てる歌だという解釈。歌詞の「YOU」を男性と読める箇所がコーラスなので、そこを周囲から「I」への呼びかけだと理解すればこちらになる。

 僕は、迷うことなく答えた。

「決まっているじゃないですか」

「そうね。ワタシもそっちが好き」

 ケイトさんが音楽に合わせて小声で歌い出した。綺麗な発音、綺麗な声、綺麗な肌、綺麗な髪、綺麗な瞳。僕がゲイでなければおよそ一回りの年齢差なんか軽く乗り越えて、あっという間に恋に落ちてしまったかもしれない。そしてケイトさんはレズビアンゆえにその望みは叶わず、毎日泣きながら暮らしていたかもしれない。ゲイで良かった。

 カランコロン。

 扉のベルが鳴った。弾かれたように僕は入口を見る。スラッとした身体をパリッと糊のきいた襟シャツで包んだ中年男性が目に映る。涼しげな切れ長の目元とくっきりした目鼻立ちが格好いい。僕にこの店を紹介した、いつも僕とこの店で待ち合わせをする、僕がこの店で待っている人。

 僕は、彼の名前を呼んだ。

「マコトさん」

 マコトさんが微笑んだ。そして僕の隣に座り、声をかける。

「待ったかい?」

「ううん。今、来たとこ」

 ケイトさんが「ぷ」と小さく吹き出した。マコトさんが怪訝な表情で尋ねる。

「どうした?」

「ごめんなさい。貴方が来た時の純くんがあまりにもCuteで、つい」

「どういうことかな」

「柴犬の耳と尻尾が見えたわ。耳をピンと立てて、尻尾をブンブン振っているやつ」

 僕は恥ずかしさに縮こまった。マコトさんは「へえ」と愉快そうに呟き、僕の首の後ろを軽く掴む。

「首輪は見えなかったかな」大きな手が首筋を撫でる。「つけたつもりなんだけど」

 ケイトさんが肩を竦めた。

「外しちゃったんじゃない?」

「そうか。それじゃあ、つけ直さないと」

 マコトさんが僕の首をむにむにと揉む。ケイトさんが「Americanね」と言って、その場を去った。すさかずマコトさんが僕の耳元に顔を寄せ、囁く。

「首輪、本当につけようか」

 僕の肩が上がる。マコトさんが僕の首から手を離して、その手をジーンズの前に伸ばした。不敵に笑いながら、鉄みたいに固くなっているそこを撫でる。

 やがて、ケイトさんが戻ってきた。マコトさんにアメリカンのブラックコーヒーを差し出し、どこか呆れたように告げる。

「そういうことがしたいなら、夜に来てちょうだい」

 マコトさんが僕の股間から手を離して、やれやれといった風に肩を竦めた。

「夜はビアンバーだろう」

「うちはGayの入店を禁止した覚えはないわよ」

「なら、なおさら来られないな。他の客に取られてしまったら困る」

「若い男をとっかえひっかえして、あっちこっちで見せびらかしていた男の台詞とは思えないわね」

「本当の宝物は自分の中だけにしまっておきたくなるものなのさ。君は男性に興味がないから特別だ」

「あら。ワタシだって純くんなら、女の子みたいに抱けるけど?」

 ケイトさんがカウンターからずいと身を乗り出し、僕に思いきり顔を近づけた。宝石みたいな青色の瞳が僕の目の前に来る。僕は、ごくりと唾を飲んだ。

 白くて細長いひとさし指が、僕の額をつんと押した。

「Jokeよ」


    ◆


 店を出た僕たちは、歌舞伎町のラブホテル街に向かった。

 途中、『39』に行く前に立ち寄った本屋の前を通り、反射的に警戒心が高まった。神様が平等ならば、僕がたまたま本屋のレジでBL本を買う三浦さんを目撃したように、三浦さんに僕が男とラブホテル入るところを目撃する機会を与えかねない。これでおあいこじゃろ、みたいな。

 キョロキョロと周囲を見回しながら歩く。どうにか無事部屋まで辿り着き、ようやく二人きりになる。僕はベッドに倒れ込み、大きく安堵の息を吐いた。

 うつ伏せになる僕の傍にマコトさんが座った。そして僕の右手に自分の左手を重ねる。僕が指を絡めるとマコトさんもそれに応えてくれた。右手だけが、別の生き物になったみたいに熱くなる。

「疲れてるね」

「うん。実は今日、マコトさんに会う前、本屋でクラスメイトに会っちゃってさ。見つかったらどうしようって、ずっとビクビクしてた」

 マコトさんが驚いたように目を剥いた。僕の言葉にマコトさんが動揺している。そんなことが、無性に嬉しい。

「男の子? 女の子?」

「女の子。BL本買ってるところ目撃した」

 マコトさんが「ああ」と苦笑いを浮かべた。BLで問題なく通じたようだ。

「それは、すごいところを見たね」

「でしょ。絶対に内緒にしてくれって言われた」

「ああいう本、中身はどうなのかな」

「軽く読ませて貰ったけどファンタジーだったよ。初めてなのに簡単に入って、めちゃくちゃ感じてた」

「純くんは最初、大変だったからね」

 マコトさんが、僕の腿裏から臀部にかけてをジーンズの上からさっと撫で上げた。マコトさんは僕の初めての彼氏だ。処女――というのかどうかは分からないけれどとにかくそういうもの――を捧げた相手でもある。

「純くんの学校は、クラス替えはないんだよね」

「うん」

「ならその女の子とはあと二年同じクラスなわけだ。そういう女の子なら純くんのこと、分かってくれるかもね」

「無理でしょ。それとこれとは話が違うよ」

「そうかな。もしかしたらこれを機に、その子と純くんが急接近するかもしれない」

 マコトさんが僕の上に覆いかぶさった。耳の後ろに息を吹きかけ、低い声で囁く。

「嫉妬するな」

 マコトさんが僕の臀部を揉み始めた。僕は「早いよ」と身を捩って逃れようとする。だけどマコトさんはそれを逃さず、声を悪戯っぽく弾ませる。

「準備はしてきたんだろう?」

「してきたけど……」

「なら大丈夫。呼びなさい」

 行為開始の合図をマコトさんがせがむ。実のところ、僕のちんぽこもすっかり固くなっている。僕は仰向けになり、細めた目をマコトさんと合わせた。

「――父さん」

 マコトさんの唇と僕の唇が重なる。命を交換するように舌を絡ませる。ファンタジーではない、誰にも見せられない、リアルでシークレットなまぐわいの始まり。

 もちろん、本当の親子ではない。

 僕がセックスの際にマコトさんを父さんと呼ぶのは、そういう契約で出会ったからだ。出会い系サイトの掲示板でマコトさんがそういう相手を募集して、僕が応募した。通学電車で僕がマコトさんに一目惚れ、思いが募り告白して恋が実ったというような展開だと三浦さんみたいな人たちは大喜びなのだろうけど、現実はそうはいかない。掲示板を使っているだけまだ手間をかけている方で、今時はGPS機能を使用するスマホのアプリで身近にいる同性愛者を探し、もっと即物的で刹那的な出会いを実現することも可能だ。ただし周囲に同性愛者だとバレるリスクもあるから、僕は使っていない。

 僕の本当の父さんは、今は多分、実家にいる。推測が入るのは十年以上会っていなくて実態が分からないから。僕の父さんと母さんは大学生のうちに僕をこさえ、若さと勢いに任せて結婚し、そして僕が小学校に上がる前に若さと勢いが尽きて離婚した。それから僕はずっと、母さんと二人で暮らしている。

 マコトさんの本当の息子は、今日は部活でテニスの試合に行っている。

 試合を観に行こうかと言ったら断られたそうだ。息子は僕と同じ年だけど、僕よりもだいぶとんがっているらしい。中学生の娘と奥さんもそれぞれ昼から出かけていて、フリーになった時間を僕が貰った。

 お父さん借りちゃってごめんねと実の息子に勝ち誇りたくなる――ような感情は抑えなくてはならない。家族の前で良いお父さんをやっている時の佐々木誠と、僕の前で悪いお父さんをやっているマコトさんは別人なのだ。それを理解出来ないようでは、既婚の同性愛者と付き合う資格はない。

 それに僕だってぼんやりと、将来は家庭を持ちたいと思っている。

「ジュン、気持ちいいか?」

 僕のシャツの中に手を入れて、胸の突起を指の腹で撫でながら、マコトさんが湿っぽく問いかける。僕はそこがとても弱いので、腰を浮かせてうんうんと頷く。行為の最中、マコトさんは僕を呼び捨てにする。口調も強気になる。それが、たまらなく興奮する。

 きっとマコトさんは、自分の息子に欲情している。そしてそれを僕で発散している。僕はそれで別に構わないと思う。心を止めることは出来ない。身体が止まれば良い。殺したいと思うだけで殺人の罪に問われるならば、世界にはマンションより刑務所の方が多いはずだ。

 三浦さんは、どう思うだろう。

 サメとイルカが魚類と哺乳類であるように、バイセクシャルと異性も抱けるホモセクシャルは似ているようで全然違う。僕の見立てでは、マコトさんはおそらく後者だ。奥さんに対する愛情がどうにも見えない。

 マコトさんや僕のことを知ったら、三浦さんはきっと軽蔑するだろう。世間体のために女性を騙すなんて現実のホモは汚いと、大好きなホモを嫌いになるかもしれない。世間体とは違うなんて言い訳しても、おそらく理解して貰えない。

 世間体じゃない。世俗を気にしているわけじゃない。少なくとも僕は、僕と奥さんと子どもで築く平凡な家庭も、郊外の庭付き一戸建ても、孫たちに囲まれた幸せな老後も、全部欲しい。たくさんの家族に看取られて、「いい人生だった」なんて呟いて、眠るように息を引き取りたい。ただちんぽこが、ちんぽこがどうしても上手く勃ってくれない。

 本当に、ただそれだけの単純な話を、ほとんどの人は分かってくれていない。


    ◆


 ホテルを出た後は真っ直ぐ駅に向かう。夕食は食べない。マコトさんには家族の団らんが待っている。東口の前で「じゃあ、また」と手を振って別れた。

 新宿始発の私鉄に乗って数駅進み、急行は通り過ぎる小さな駅で降りる。住宅街の狭い路地をしばらく歩くと、見るからにボロい二階建て安アパートに辿り着く。その二階の一部屋が、僕と母さんの住居だ。

 部屋のドアノブに手をかけて回す。当然のように回らないから、鍵を使って開ける。昼間はスーパーでパート社員として働き、夜は小さなスナックに出向いてホステスとして働く母さんと、僕の生活動線が重なる時間は少ない。

「ただいま」

 返事はない。キッチンで冷凍ピラフを炒めて、テレビを見ながらリビングで食べる。テレビ番組は『この春、恋人や家族と行きたいお花見スポット』を紹介していた。カップルや家族連れの観光客が、幸せそうに笑いながら次々とインタビューに答える。カップルは全て男と女。家族連れは全て両親と子ども。僕は、テレビを消した。

 その手の専門家に言わせれば、僕は「父親の愛情に飢えている」ことになるだろう。そして「父親の代わりを求めて年上好きの同性愛者になった」ことになるだろう。考えると腹が立つ。「違う」と言い切れないところが、特に。

 ピラフを食べ終わった後は自分の部屋に行き、ノートパソコンを立ち上げる。しばらくネットで遊んでいると、常時起動しているメッセンジャーツールがポーンと軽快な音を鳴らし、僕にメッセージを寄越した。

『やあ』

 送信相手は『ミスター・ファーレンハイト』。QUEENの楽曲、『ドント・ストップ・ミー・ナウ』の歌詞から拝借したハンドルネームだ。その意味するところは、華氏温度の提唱者。

 華氏温度とは、僕たち日本人が使用している摂氏温度とは異なる温度の表現方法だ。摂氏温度において水の融点が0度、沸点が100度になるのに対し、華氏温度では融点は32度、沸点は212度になる。

 QUEENは『ドント・ストップ・ミー・ナウ』の中で、華氏200度の男という意味で『ミスター・ファーレンハイト』という言葉を使っている。沸騰温度212度に対して200度。メッセージを送ってきた彼はこれを「沸騰寸前野郎」と解釈した。そして、やや皮肉めいた意味でハンドルネームに使っている。

『どうしたの?』

『別に用なんかないよ。話しかけたくなっただけ』

『最近はどうなの? そろそろ検診でしょ』

『ブログは見ていないのか?』

『君には悪いけれど、あまり見たくないんだ。開いた時に悪いニュースが飛び込んで来たらどうしようって怖くなる。そういう大事なことは直接聞きたい』

『ジュンらしいね。そういうところ、好きだよ』

 ミスター・ファーレンハイトの「好き」は軽くて重い。文字だけでこの矛盾を出せる人間を、僕は彼以外に知らない。

『何も変わってないよ。CD4値は前とほぼ一緒。もちろん発症もしていない』

 CD4値とは血液1μm中のCD4陽性Tリンパ球の数。HIV感染患者が免疫力を確認するのによく用いられる指標だ。HIVの感染者――キャリアであるミスター・ファーレンハイトは定期的に投薬をしつつ、その値をチェックしている。

 HIVとは免疫力を低下させるウィルスの名前だ。性交によって粘膜から血液に侵入して感染するケースが多い。決して同性愛者限定で感染するウィルスではないけれど、腸粘膜は薄いのでそこを使う男の同性愛者は感染リスクが高い。ミスター・ファーレンハイトもそうやって感染した。

 そしてHIVとよく混同されるAIDSは病気の名前。HIVウィルスに感染した状態で指定された二十三の疾患のうち一つ以上を発症した時、AIDSを発症したということになる。つまりHIV感染とAIDS発症はイコールではない。

 ミスター・ファーレンハイトはHIVには感染しているけれど、AIDSは発症していない。彼がハンドルネームを「ミスター・ファーレンハイト」とした理由がそれだ。自分がいつAIDSを発症してもおかしくない「発症寸前」の状態だから「沸騰寸前野郎」の名を借りた。

 僕は正直、その由来にはあまり納得出来ない。確かにミスター・ファーレンハイトのCD4値は低いけれど、ちゃんと治療を行っている分、自分がHIVに感染していることに気づいてすらいない人間より遥かに発症からは遠い。だけど煮えたぎった油に冷めた水の蓋をしたような、凪いだ表面に油断をして手を突っ込めば大火傷を負いそうな彼という人間に、そのハンドルネームはとても良く似合っているとも思う。

『良かった。じゃあ、後でブログを見に行くよ』

『順番が滅茶苦茶だな』

『僕は君の闘病記録を見に行っているわけじゃないからね』

『それは光栄だ。どんな心配を受けるよりも嬉しいよ』

 僕がミスター・ファーレンハイトの闘病ブログを読んだのは、マコトさんと初めて繋がった日の夜だ。

 その頃、僕のHIVに関する知識は「男同士のセックスで伝染しやすい死に至る不治の病」程度のものだった。だからゴムをしたからほぼ伝染する可能性はないのに、心配になってHIVに関する情報を漁った。そしてHIVとAIDSの違い、今の医学ならばHIVに感染して寿命を全うすることも不可能ではないこと、HIVに感染してもHIV非感染の子どもを作ることすら可能なことなどを学んだ。

 やがて情報を集めているうちに、HIVやAIDSとの闘病日記を綴るブログへのリンク集を見つけた。数多くの闘病日記の中から僕がミスター・ファーレンハイトのブログに目を付けたのは、彼が『ミスター・ファーレンハイト』だからだ。QUEENのファンなのだろうかと思って読み始めたら案の定その通りで、中身は申し訳程度に投薬過程と定期検査結果が書いてあるだけの音楽ブログだった。

 ミスター・ファーレンハイトは、ブログに顔や身体の写真は全く載せていない。出身地や居住地や家族構成なども明かしていない。明かしているのは二十歳の同性愛者の男性であり、恋人からHIVを伝染されてキャリアになったということだけ。

 その恋人は僕がブログを最初に読んだ日の少し前に亡くなっていた。その感想を、ミスター・ファーレンハイトはブログにこう記している。

 殺したいほど憎かった奴が死んだので、愛することにしました。

 ブログの随所に垣間見える彼の気取った性格を、僕は素直に格好良いと思った。ファンメールを送ったらウマが合い、パソコンのメッセンジャーツールでやり取りをする仲になった。スマホのSNSツールは使いたくないらしい。会える時は会える。会えない時は会えない。そういう繋がりが好きなんだ。僕は、同意した。

『ジュンの方はどうなんだ。最近、面白いことはないのかい?』

 面白いこと。レジの前で固まる三浦さんの姿が脳裏に浮かぶ。

『今日、クラスメイトの女の子がBL本を買っているところに遭遇した』

『それは酷いな。ちゃんと謝ったのか?』

『なんで僕が謝る必要があるのさ』

『悪いことをしたら謝る。基本だろう』

『別にわざとやったわけじゃないし』

『わざとじゃなくたってぶつかれば謝る。大事なのは結果さ。オナニーを見るような真似をした自覚を持った方がいいよ』

 オナニーを見るような真似。そんな、大げさな。

『そこまでのことかな。腐女子ぐらい別にバレてもいいと思うんだけど』

『それは可哀想だろう。君がゲイぐらい別にバレてもいいと言われたらどうする』

『単なる趣味と人生の根幹を支える性癖を一緒にしないでよ』

『同じさ。男同士の恋愛ものが好きなんて確かに大した問題ではない。だけどそれは君も変わらない。男だけど男が好きなんて、だからどうしたで済む話。真に恐れるべきは、人間を簡単にする肩書きが一つ増えることだ』

『人間を簡単にする肩書き?』

『ああ』

 僕は首を捻った。ミスター・ファーレンハイトの話は、たまに概念的で難しい。

『どういうこと?』

『そうだな。その子に関して、腐女子以外に何か大きな特徴はあるか?』

『絵が上手いかな』

『そこにその子が腐女子であるという情報が加わると、さすが二次元好きの腐女子は絵が上手いな、となる』

 ああ、なるほど。そういうことか。

『人間は、自分が理解出来るように世界を簡単にしてしまうものなのさ。そして分かったことにする。だけど本当のことなんて、誰にも分かりはしない』

『物理の『ただし摩擦はゼロとする』みたいな?』

『そう。『空気抵抗は無視する』もだね。ジュンはいいセンスをしているよ』

 褒められた。照れに口元が緩む。

『摩擦がゼロなわけはない。空気抵抗を無視して良いわけがない。だけどそうしないと理解出来ないから、世界を簡単にして事象を読み解こうとする。もしかすると今は当たり前のように通っている物理法則の数々だって、人間が自分に理解できるように世界を捻じ曲げた結果なのかもしれないよ』

 スケールの大きな話になってきた。慣性の法則、運動の法則、作用反作用の法則。僕たちが当たり前のように学んでいる世界の法則は全て、嘘かもしれない。

『君はHIVになる前は、誰にもカムアウトしていなかったんだよね?』

『ああ』

『自分を簡単にされたくないから?』

『理由の一つではある』

『やっぱり同性愛者の肩書きは人を簡単にするかな』

『するさ。例えば、フレディ・マーキュリーは男性とも性交していただろう』

 QUEENのボーカル、フレディ・マーキュリー。老若男女問わない乱れた性生活を送った結果、HIVに感染し、AIDSを発症して死んだ伝説のロッカー。女を抱けるゲイなのかバイなのか分からないので、ミスター・ファーレンハイトは彼の性的嗜好を表現する時、どちらのスタンスも取らずにぼかす。

 僕は、フレディがゲイでもバイでもどちらでもいい。ただフレディをゲイ扱いされた時に「バイだ。一緒にするな」と怒り狂うファンも存在する。彼らは『グッド・オールド・ファッションド・ラヴァー・ボーイ』を男同士の恋愛歌と解釈することを絶対に許さず、その激昂を以ってフレディへの愛を表現しているのだと言わんばかりに、声高に自らの主張を口にする。

 不思議だ。そういう風に女を抱くことを無条件で偉いと思っている連中が、なぜフレディの理解者ぶれるのだろう。彼は死に至るまで七年もの間、ジム・ハットンという男性パートナーと共に過ごしているのに。

『フレディのレベルに達してさえ、同性愛傾向があったからこの曲を書けたと言われる楽曲は山のようにある。フレディではなくブライアンやロジャーやジョンが書いた曲に同じことを言う輩すらいる』

『ブレイク・フリーとか?』

『そう。あれはPVのせいもあると思うけど』

『フレディでそれじゃあ、僕なんかひとたまりもないね』

『その通り。本当の自分なんて全く見えなくなるほど、滅茶苦茶にされるぞ』

 本当の自分。本当の僕。

 そんなもの、そもそもあるのだろうか。本当のことは誰にも分からないならば、僕も僕自身のことを分からないのが当然なんじゃないだろうか。

『自分は、自分をちゃんと理解出来るのかな』

 返信が、少し長めに止まった。チャットウインドウに新しい文字列が浮かんだのは、タイプ音の余韻が完全に消えてから。

『難しい質問だね。とりあえず一つ、言えることがある』

 ディスプレイがパッと短く点滅して、メッセージが現れた。

『自分だけは、自分を簡単にしても許される』

 声は聞こえない。そもそも僕はミスター・ファーレンハイトの声を聞いたことがない。だけど芯の通った明瞭な若い男性の声が、僕の鼓膜を震わせた気がした。

『そうだね』

 それから間もなく、僕たちの会話は終わった。風呂に入り、買った文庫本を読んでいるうちに、すぐ夜中になる。明日から新学期。あまり夜更かしをするわけにはいかない。

 電気を消して布団に潜りこむ。目を瞑り、今日一日のことを思い返す。本屋で三浦さんがBL本を買う場面を目撃して、『39』でケイトさんと会って、ラブホテルでマコトさんとセックスをして、メッセンジャーでミスター・ファーレンハイトと難しい話をした。なかなか濃くて楽しい一日だった。おかげで明日から始まる窮屈な学校生活も、どうにか乗り切れそうだ。

 学校は苦手だ。学校には、あいつはああだからこういう奴だという「ただし摩擦はゼロとする」が満ち溢れている。全く気が抜けない。

 三浦さんも、そうなのかもしれない。

 彼女も集団の中で自分を偽っている。毎日、気を張って生きているはずだ。さぞかし生きづらいことだろう。

 ――明日、話しかけてみようか。

 前向きな決意をして、意識を闇に溶かす。朝起きた気怠さの前にその決意が消え失せることは、眠る前から分かっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る