1-2
案の定、翌日には三浦さんのことなんてすっかり忘れていた。
ブレザーの制服に着替え、眠る母さんを起こさないようにそろそろと家を出る。電車に乗り、学校の最寄り駅で降りて、桜舞う通学路を歩く。新一年の入学式より二年三年の始業式の方が先だから、人通りが少なくて歩きやすい。のんびり歩いていたつもりなのに、いつもより早く学校に着いてしまった。
「おはよう」
挨拶と共に教室の扉を開け、席に向かう。学生鞄を机に置いて、椅子に座ろうとする。だけど座れなかった。
僕を抱くように背後から回された手が、僕の股間を揉みしだいたから。
「おはよー。ひさびさー」
驚かない。来ると思っていた。僕は振り返り、幼い顔立ちに無邪気な笑みを浮かべる、クラスメイト兼幼馴染の高岡亮平に告げた。
「もう高二なんだから、そういうの止めたら?」
「いいじゃん。純くんだって感じてるくせに」
五歳の時に出会ってからずっと、亮平は僕を「純くん」と呼ぶ。僕は成長に従って「くん」を外したのに亮平は外してくれない。「響きがジョンソンみたいでカッコいいだろ」とのことだ。ジョンソンって誰?
「純くんもオレの揉んでいいって言ってるじゃん」
「嫌だよ」
ゲイがやたら男の身体を触りまくると思ったら大間違いだ。そういうゲイも中にはいるだろうけど、僕はむしろ性的対象なだけに触れがたい。異性愛者の男だって彼女でもない女の胸を挨拶代わりには揉まないだろう。
「それよりさ、小野っちの話、聞いた?」
亮平が声を潜め、親指で教室の奥を示した。男連中の人だかりが出来ている。その中心にいるのは、亮平と同じバスケ部に所属する男、小野雄介。
「何かあったの?」
「春休みに彼女とヤッちゃったんだって」
こういう話が、一番反応に困る。
まず、興味はない。亮平と小野は仲が良いけれど、僕と小野はそうでもない。男と女のまぐわいについてもどうでもいいから、それを知りたがる出歯亀根性もない。
次に、驚愕もない。僕は昨日、インターネットで知り合った自分の親より年上の男に抱かれてきたばかりだ。合コンで知り合ったとかいう他校の女子高生と小野がセックスを済ませた話なんて、道徳の教科書に載せても問題ないほど健全な出来事としか思えない。
だから僕は、言った。
「マジで!?」
「マジマジ。オレらも詳しく聞きに行こうぜ」
僕たちはいそいそと小野のところへ向かった。椅子に座って王様のようにふんぞり返る小野と、ひざまずいて小野を取り囲む家臣という構造。若い男性のコミュニティにおいてセックスは生殖行為ではなく自らの地位を高める社会活動だ。男性器を女性器に突っ込んだことのある男の発言権は、その経験がない男と比べて明確に強い。
「小野っち、受講生一人追加ー」
「おう、何人でも来いや」
鼻息の荒い小野。僕は笑った。「相手は処女?」と中山。「処女。血出た」と小野。僕は笑った。「処女でも濡れるの?」と飯田。「普通にぐしょぐしょ」と小野。僕は笑った。「アソコって腐ったチーズの臭いするんだろ?」と堀田。「しねえよ」と小野。僕は笑った。笑いながら立ち上がった。
「ちょっと、トイレ行ってくる」
「抜いてくんの?」と亮平。僕は笑った。笑いながら皆に背を向け、教室を出る。そして廊下に出た瞬間、僕の笑顔は消えた。
――疲れた。
無理をした反動がどっと肩に圧し掛かる。新興宗教の集会に参加させられた気分だ。僕とは違う理で動いている人間に合わせなくてはならない苦痛。いっそ洗脳されて宗旨変え出来れば楽なのだけれど、それも出来ない。疲れは溜まるばかりだ。
だけど僕はそれを、甘んじて受け入れなくてはならない。
大多数と違う嗜好を隠しておきながら、それに配慮しろなんて理屈は通用しない。米が嫌いで食卓に出して欲しくないならば、出さないからそう言えという話。同性愛者の気持ちに配慮して欲しいのであれば、まずは僕がそういう嗜好を持っていると明かすのが筋というものだろう。
そうしないと決めたのは、僕だ。
周囲に僕の全てを曝け出す勇気も、全てを曝け出した僕を周囲が変わらず迎えてくれるという信頼も持てないから、僕は自分の意思で仮面を被ることにしたのだ。
だから、我が儘を言ってはいけない。
小便を済ませ、トイレから教室へと一人廊下を歩く。まだ小野の話は続いているのだろうか。そう考えると、自然と足取りは重くなる。
背後から、ガシッと肩を掴まれた。
「ちょっといい?」
女の声。振り返ると、思いつめた表情で僕を見る三浦さんがいた。昨日の夜、話しかけようと決意したことを唐突に思い出す。逆に話しかけられてしまった。
「なに?」
素直に尋ねる。三浦さんが口を開きかけ、すぐに閉じた。そして周囲を見回し、声のトーンを下げて僕に告げる。
「今日の放課後、空いてる?」
◆
僕は帰宅部だ。特殊な事情がない限り放課後は空いている。僕は、放課後に駅前のマクドナルドで三浦さんと話をするという申し出を、まずは受け入れることにした。
三浦さんが掃除当番だったので、僕は先にマクドナルドに向かった。ポテトとシェイクを頼んで二階に上がり、二人がけの座席に腰かける。愛用の携帯音楽プレイヤーを取り出し、イヤホンを耳に挿して、アーティスト『QUEEN』指定でシャッフル再生を開始。アイスコーヒーを持った三浦さんが現れた時、イヤホンからは『キラー・クイーン』が流れていた。男殺しの女王様。三浦さんが?
「ごめんね。どうしても、話したいことがあって」
三浦さんが僕の前に座った。僕は音楽を止め、音楽プレイヤーをブレザーのポケットにしまう。話したいこと。僕と三浦さんの繋がりは、今のところあれしかない。
「三浦さんのホモ好きの話?」
三浦さんがじろりと僕を睨んだ。他に表現方法がないのだ。そんな顔をされても困る。
「腐女子バレ程度、気にすることないと思うけど」
「わたしにとっては大変な話なの。そんな軽く考えないでよ」
悪いね。君よりずっと重たい秘密を抱えているもんで。
「どうして」
「中学の時、それで友達全部無くしたから」
意外と、こっちも重たかった。三浦さんがアイスコーヒーを一口飲み、物憂げな表情で頬杖をつく。
「趣味がバレて、女の子グループのボスに嫌われちゃってさ。まあ元々あんまり仲良く無かったんだけど、それが決定打になった感じ。後はみんなで総スカン。仲良かった子からもシカトされるようになっちゃった」
「ホモが嫌いな女子なんていないって聞いたけど」
「ホモが好きな女子を嫌いな女子は大量にいるの」
厄介な話だ。どうやら思っていたより複雑な界隈らしい。
「そういえば安藤くん、あの日、なんで新宿にいたの?」
彼氏と待ち合わせだよ。――勿論、言わない。
「中学の友達と遊ぶ約束。三浦さんは?」
「わたしは美術部だから、たまに画材買いに新宿行くの。それで好きな先生の新刊発売日だったから、ついでに本屋に寄った」
「ああ。あれ、好きな先生なんだ」
あれ。チラ見した摩訶不思議セックスを思い出し、言い方につい小馬鹿にした感じが滲み出た。三浦さんが目に敵意を込めて、キッと僕を睨みつける。
「安藤くん。あの時も思ったけど、人が好きなものを否定するのは良くないと思う」
別に否定しているつもりはない。つい現実と比較してしまうだけだ。エロ本だからゴム無しは見逃すにしても、後片付け出来ない場所で下準備無しに行為に臨むのは無謀だし、ローションも無しに唾液の潤滑だけで初挿入に挑んでも普通は上手く行かないし、あんな乱暴なやり方で初回から喘ぐほどの快感を得られるわけがないし、同時射精なんて都合のいい現象は狙ってもそうそう実現出来ない。あの小学生みたいな男子高校生が、実は死ぬほど男を食い漁ってきたスーパービッチだという裏設定でもあるなら別だけど。
「否定なんてしてないよ」
「したでしょ。ファンタジーとか」
「そりゃファンタジーだとは思うけど、ファンタジーはファンタジーで需要があるんだからいいじゃん。現実のホモなんて汚いんだし」
だいたい、ゲイ向けの漫画も同じファンタジーやらかすしさ。片方が射精した後の消化試合感を丁寧に描かれても誰も嬉しくないでしょ。――そこまでは言わないけれど、擁護しておく。だけど三浦さんは、眉間に皺を寄せた不機嫌そうな表情を崩さなかった。
「それは、失礼だよ」
「誰に」
「現実のホモの人」
僕は、目を瞬かせた。そんな反論をされるとは思っていなかった。
「同性愛に理解あるんだ」
「そりゃあ、まあね。ちょっとは調べたりもしたよ」
「例えば?」
「ホモと性同一性障害は全然違うとか。体格良くて男らしい熊みたいな人が絶対的にモテるわけじゃなくて、割と好みは細かいとか」
そうだね。僕だって一回り以上年上がストライクゾーンの老け専だし、棺桶に片足突っ込んだおじいちゃんが好きな桶専とか、誰でもいいからとにかくセックスしたい誰専とかいるしね。絶対に教えないけど。
「本当にホモが好きなんだね」
「あのね、安藤くん。わたしは別に、ホモなら何でもいいわけじゃないから」
それはすいませんでした。ポテトをつまみながら、三浦さんに尋ねる。
「それで、話はおしまい?」
「ううん。何一つ終わってない」
三浦さんが学生鞄からスマホを取り出して弄る。そして競泳パンツを履いた少年たちのアニメ絵が映し出されたディスプレイを、僕にずいと突きつけた。
「安藤くん、これ知ってる?」
知っている。高校の水泳部を舞台にした腐女子に人気のアニメだ。マコトさんに「知り合いの若専のおじさんがハマってるんだけど、純くんは知ってる?」と聞かれたことがある。若専は若い子が好きなおじさんのこと。マコトさんもその一人。
「知ってるよ。これがどうしたの?」
「今度の土曜、これのイベントが池袋であるの」
「へー」
「イベント会場限定グッズを販売するの」
「ふーん」
「お一人様一個限定のグッズもあるの」
――なるほど。
僕は事態を察した。僕が察したことを察した三浦さんが、深々と頭を下げる。
「よろしくお願いします」
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