3-4

 翌日の放課後、僕は三浦さんを「行こうか」と誘った。

 いつも使うファミレスは無言で通り過ぎ、当たり前のように駅に向かった。三浦さんは当たり前のようにそれについて来た。電車を降りてからアパートに着くまで、三浦さんはやたらと口数が多く、僕はやたらと歩く速度が速かった。

 アパートに到着し、鍵を開けて玄関に入る。三浦さんは小さな声で「お邪魔します」と呟き、靴を脱いで部屋に上がった。土間に、小さなローファーが爪先をドアに向けて平行に並ぶ。女の子の気配。

 僕はまず、三浦さんを自分の部屋へと連れて行った。三浦さんは物珍しげにキョロキョロと視線を動かし、感想を呟く。

「綺麗だね」

「片付けたから」

「そうじゃなくてアイドルのポスターとかCDとか写真集とか、全くないから」

 目ざとい。さすがは女の子、と言うべきだろうか。

「あんまりそういうの、興味ないんだ」

 ブレザーをハンガーにかけ、「飲み物持って来る」と言ってリビングに逃げる。食器棚からガラスコップを二つ取り出し、氷を投入。カランカランと氷がガラスを叩く涼しい音が神経を冷やし、全身が自然と強張った。

 僕はポケットの財布からコンドームを抜き、氷入りコップの横に置いた。僕を男にしてくれるアイテムを眺めながら、ちんぽこをズボンの上から揉む。今日は頼むぞ。お前がただの突起物でないところを見せてくれ。

 コンドームを尻ポケットにしまい、コップに二リットルのペットボトルからウーロン茶を入れる。そしてペットボトルとコップ二つをお盆に乗せ、自分の部屋の前に立つ。この中に三浦さんがいる。僕は自分を奮い立たせるように、勢いよく扉を開いた。

 アメンボのように床に這い、ベッドの下を覗き込んでいた三浦さんが、バッとこちらを向いた。

「なにしてんの」

「……本当にエッチな本とか、どこにも無いのかなーと思って」

 せっかく気分を高めたのに、ムードの欠片もない行動をしてくれる。僕は部屋の中央にあるテーブルにお盆を置き、その傍に座った。三浦さんが僕の隣に寄ってくる。

「ねー、エッチな本はどこにあるの?」

「ない。今時、紙媒体には頼らないよ。三浦さんじゃないんだから」

「もしかして、BL本のこと言ってる?」

「うん」

「あのね、BLはエロ本とは似て非なるものだから。別ジャンルだから」

「ああ、ファンタジーだっけ」

 皮肉。もういい。しばらくいつも通りで行こう。そう開き直る。いつも通り、僕の口汚さに辟易する三浦さんを期待しながら。

 だけど三浦さんは、ふふふと含み笑いを浮かべた。

「……なに笑ってんの」

「口悪いなーと思って」

 僕の口が悪い。だから笑う。――意味が分からない。

「あのね、昨日、ネットで調べたんだけど――」

 三浦さんが両手を顔の前で合わせ、穏やかな声で呟いた。

「口が悪い人って、相手のことを試してるんだって」

 三浦さんは、笑っていた。

 合わせた両手の後ろに緩んだ唇を隠し、幸せそうに笑っていた。貴方はわたしを愛してくれているのでしょう。わたしも同じです。表情で、そう語っていた。

「どれぐらい自分のことを好きでいてくれるか、愛情を測ってるらしいよ。甘えてるの。そう考えると安藤くん、かわいいところあるよね」

 三浦さんが僕を下から覗く。満ち足りた笑顔に、人を挑発する悪戯っぽい色が混ざる。

「わたしのことを試してたんでしょ? 安心して。わたしは安藤くんのこと――」

 こういう時、異性愛者の男は、どういう風にするのだろう?

「ちゃんと、好きだからさ」

 僕は、三浦さんに抱きついた。

 左手で三浦さんの身体を支え、右手でポニーテールを撫でる。徐々に右手を下げ、子どもをあやすみたいに背中を撫でる。そのうちに三浦さんも僕の背中に手を回し、僕の身体を抱きしめる。二つが一つになる。絡み合って離れなくなる。

 三浦さんが顔を上向かせ、瞳を閉じた。誘われるまま、僕は静かに口づけを落とす。柔らかい。いい匂い。男のセンサーを刺激する触覚と嗅覚からのアプローチ。僕のセンサーは――まだ無反応。

 僕は三浦さんの背後に回った。後ろから前に手を伸ばし、シャツのボタンを外す。三浦さんは背中を深く僕に預け、ボタンを外しやすいように胸を張った。受け入れの合図。

 ボタンを全部外して、シャツを後ろに脱がせる。自分のワイシャツとインナーシャツも素早く脱ぎ、床の上に放り投げる。上半身裸になった僕の肌に、ブラジャーだけになった三浦さんの肌が当たる。どちらの肌も熱いから熱の移動は起きないのに、お互いの体温を交換している感じがする。触れる先から浸食して、侵食される。

「ベッドに行こう」

 耳元で囁く。三浦さんがこくりと頷いた。

 ベッドに三浦さんを仰向けに寝かせる。キスをしながら覆いかぶさり、背中とベッドの間に手を滑り込ませてブラジャーホックを外しにかかる。全然、外れない。焦っていると三浦さんがそれとなく身を起こし、自分で外してくれた。

 ブラジャーをベッドの端に置く。重力に引かれて広がる乳房を揉む。人体の一部であることが信じられないぐらいに柔らかい。これが、女の身体。

 桃色の乳首を親指で撫でる。固く閉じた三浦さんの口から「ん」と声が漏れた。センサーに微弱な反応あり。イケる。

「サエ」

 名前を呼ぶ。これから僕たちは愛し合うのだと、自分自身に言い聞かせる。三浦さんも僕の首に腕を回し、同じように僕の名を呼んだ。


「ジュン」


 頭で聞いた言葉は、すぐに分かる。

 耳で聞く言葉とは全然違う。とても固い。神経に詰まる。

 僕は三浦さんの呼びかけを頭で聞いた。意味のある言葉として捉えた。

 その証拠に――

 風船から空気が抜けるみたいに、ちんぽこが萎えた。

 動きを止めた僕を、三浦さんが不思議そうに見やる。僕は愛撫を再開する。だけどセンサーが反応してくれない。股間がピリッと痺れるあの感じが全くない。どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしようどうしようどうしようどうしよう。

 下から乳房を掴んで押し上げる。三浦さんの顔が、苦痛に歪んだ。

「……っつ!」

 手を止める。ごめん。そんな簡単な言葉が喉奥につかえて出てこない。もうダメ。おしまい。僕の中で、誰かがそう言った。

 僕は、三浦さんから離れた。

 ベッドの縁に腰かける。三浦さんが上半身を起こし、腕で胸を隠して僕を見つめる。枕元の目覚まし時計がコチコチと時を刻む。やけにゆっくりと、大きく。

 何か言わなくてはならない。

 僕のことを愛してくれている三浦さんに、僕に全てを捧げようとしてくれた三浦さんに、応えられなかった僕は何かを言わなくてはならない。謝罪でも、冗談でも、世間話でも、何でもいい。何か、何か――

「――ダブルデート」

 声は、この世のものとは思えないぐらい、空虚に響いた。

「お台場の、温泉に行こう」


    ◆


 勉強会の最中、僕と三浦さんはほとんど喋らなかった。

 黙々と問題を解いて、分からなかったら質問する。それだけ。その質問もいつもよりずっと少ない。間違いなく、三浦さんの頭が突然良くなったわけではない。

 会の終わり際、僕は「勉強会は今日で終わりにしよう」と提案した。そろそろお互いの勉強がある。僕は僕でテストの対策をしたい。そんな理由をくっつけて。三浦さんは「そうだね」と話を受け、僕の目を見ずに「今までありがとう」と呟いた。

 三浦さんが帰った後、僕はすぐさまノートパソコンを起動させた。メッセンジャーのメンバーリストを開き、ミスター・ファーレンハイトのオンラインを確認。チャットウインドウを呼び出し、いつもより強めにキーボードを叩く。

『今、大丈夫?』

 SOS。SOS。応答してくれ。助けてくれ。息苦しくて死にそうだ。

『大丈夫だよ。どうした?』

 パッとメッセージが浮かんだ。少し、胸のつかえが取れる。

『ダメだったよ』

『何が』

『普通のセックス。今日、試そうとしたんだ。でもダメだった。勃たなかった』

 夢中になってタイピングを続ける。返事を待つ余裕はない。

『もう少しだった。でも下の名前を呼び捨てで呼ばれて、一気にダメになった』

『どうして』

『僕をそういう風に声に出して呼ぶのは、僕の彼だけなんだ。呼ばれた途端、僕は彼を意識した。僕が本当はどういう人間なのか、身体が思い出してしまった』

 やれると思った。どう罪悪感を乗り切るかの勝負だと考えていた。だけど思い返せば乾いた笑いが込み上げるほどに、甘かった。

『僕にとっての『普通のセックス』、分かったよ。『僕には出来ないセックス』だ。僕に出来ること、僕に出来ないこと。そういう風に抜けなく漏れなくセックスを分類して、その片方に『異常』、もう片方に『普通』と名前をつけた』

 眼球に薄い水の膜が張る。煌々と輝くモニターが、ぼんやり歪む。

『だから僕は『普通』には辿り着けない。永久に『異常』なままだ』

『なら、変えればいい』

『変えられないよ。僕はずっとこのまま。今日、それが分かった』

『違う。変えるのは君自身じゃない。君の中の『普通』だ』

 意味深なメッセージが、僕の涙を止めた。

『『普通』は目指すものじゃない。引き寄せるものだ。自分だけの『普通』を自分の中に築き、それを自分に近づける。やがてその『普通』の中に自分自身が含まれた時、君の世界から偏見は消滅する』

 偏見が消滅する。力強い言葉。僕は、涙を拭った。

『ジュン。君は、どうして『普通』になりたいんだ?』

 普通になりたい理由。断片的に浮かぶ想いを、どうにかこうにか文字にする。

『家族が欲しい』

『他には』

『母さんを安心させたい』

『他には』

『みんなに気持ち悪いって思われたくない』

『他には』

『それぐらいかな』

『嘘つけ。まだあるだろう。自己認識の話がすっぽり抜けているぞ』

 ――その通りだ。僕は今、嘘をついた。

『自分を、気持ち悪いって思いたくない』

 フレディを同性愛者扱いされた時、激昂する連中がいる。

 僕は彼らのことが嫌いだ。フレディを愛していると言いながら、フレディのことを何にも分かっていない。分かる気もない。そういう連中が嫌で嫌でしょうがない。

 だけど彼らが人生の中で獲得した価値観は、僕にもしっかり根付いている。女を抱ける男は偉い。誰よりも僕自身が、そう思っている。

『ジュン。僕は気持ち悪いかい?』

 重たい問いかけが、ミスター・ファーレンハイトから放たれる。

『君は、君の敬愛するフレディを、なんかやたらと声のいい気持ちの悪いホモのおっさんだと思いながら、彼の曲を聞いていたのかい?』

 男を抱ける女は偉い。男と抱き合う男は気持ち悪い。だから僕も、ミスター・ファーレンハイトも、フレディも、みんな等しく気持ち悪い。

 違う。

 違う。違う。違う。絶対に、そんなことはありえない。

『そんなことはない。君は僕の最高の友人、フレディは世界最高のアーティストだ』

『ありがとう。僕も君ほど魅力的な人間には出会ったことがないよ。フリーでないのが惜しい。それじゃあ、ダメかな?』

 おどけた慰め。固くなった心が、少し綻ぶ。

『これでも、男を見る目は確かなつもりなんだけど』

 ――ありがとう。僕はカタカタとキーボード打ち、感謝の言葉を返した。

『ありがとう。気持ちが楽になった』

『そうか。僕の残り少ない命を有効に使えたようで何よりだ』

『そういうジョークは止めてよ。君にはまだまだ、情けない僕のお兄さんをやって貰わなくちゃならないんだから』

 今度は僕の番。おどけながら慰める。返信は、少し時間を置いてから届いた。

『ジョークじゃない』

 ざわっと、全身に悪寒が走った。

 短くて簡潔な遊びのない言葉。それが放つ重たい響き。ソフトボールを放ったら砲丸になって返って来た。そんな感覚に襲われる。

『どういう意味?』

『そのままだよ。ジョークじゃない』

 誘導されている。それは分かる。分かりながら、僕は思惑に乗った。

『何かあった?』

 動悸が激しくなる。ジョークじゃなくて戯言だよ。そんな言葉遊びであってくれ。モニターのチャットウインドウを見つめながら、必死に祈る。

 ウインドウが動いた。

『発症した』

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