4-6
「安藤くん!」
三浦さんの鋭い声が、僕を現実に引き戻した。
握力を失った右手からポロリとスマホが落ちる。ぽちゃん。どこか間の抜けた音を立ててスマホが足湯に沈む。僕はその光景を、まるで夢の中で起こった出来事のように、ぼんやりと遠くに眺める。
三浦さんが「あー!」と大声を上げた。動かない僕の代わりに落ちたスマホを拾い、画面をぺたぺたと触る。そして俯き、力なく呟く。
「ダメだ」
ダメ。何がダメなんだっけ。そうだ。ミスター・ファーレンハイトだ。ミスター・ファーレンハイトの命が、ダメになった。
「……トイレ行ってくる」
「え、でも、これ――」
「持ってて」
立ち上がり、足早に歩き出す。三浦さんが「安藤くん!」と大声で僕を呼ぶ。その声を振り切るように、歩調を早めて庭園から館内に戻る。
まだ分からない。
ミスター・ファーレンハイトは、こんな性質の悪い嘘は絶対につかない。だけどもしかしたら交通事故にでもあって、少しの間、動けなかっただけかもしれない。その場合、設定しておいた遺書の自動配信が動作してしまい、彼も困っているはずだ。
さてそうなると、いったい僕はどう応対するのが正解なのだろう。彼の連絡を待つべきなのか。それともこんなもの届いちゃったよと、冗談っぽく、こちらから話しかけるべきなのか。
考えよう。考えたい。考えなくてはならない。
だけど頭の中がぐるぐるして、吐き気がして、考えが全くまとまらない。
アテもなく館内を巡る。どこに行っても、人、人、人。人の少ないところに行きたい。静かで落ち着ける場所。限られた人しか来ない、隠れ家のような場所。
喫煙所。
電気がついたみたいに、回答がパッと脳裏に浮かんだ。固い木の床に裸足を打ちつけながら、ずんずんと喫煙所に向かう。やがて屋台街を模したフードコートの端にひっそりと設置された、喫煙スペースに辿り着く。
煙草を吸っていた男性が、僕を見て切れ長の瞳を大きく見開いた。
「純くん?」
マコトさんが僕を呼ぶ。僕の恋人。格好よくて、頼り甲斐があって、つい甘えたくなってしまう、大好きな男の人。
――男の人。
僕は、くるりと踵を返した。
「純くん!」
人ごみをかき分けて走り出す。万華鏡を覗いたように、色とりどりの浴衣が視界を埋め尽くす。青い浴衣と赤い浴衣。シンプルな縦縞と派手な花柄。そういう組み合わせの浴衣を着て、幸せそうに肩を並べて歩く人たちと、たくさん、たくさん、すれ違う。
金髪の女と腕を組んで歩く、金髪の男にぶつかった。
「いてーな!」
声を荒げる男を無視する。うるさい。それぐらいの痛みがなんだ。お前、隣の女にちんぽこ勃つんだろ。それがどんなに恵まれているかなんて、考えたこともないんだろ。ちくしょう。ふざけんなよ。ふざけんな。
走って、走って、最初に浴衣に着替えたロッカールームに着いた。自分のロッカーの前に立ち、鍵を開けようとする。だけど腕が震えて鍵が上手く入らない。手こずっているうちに、背後から肩を強く掴まれた。
「純くん!」
振り返る。走る僕を追いかけて、息を切らしているマコトさんが目の前にいる。
「どうしたんだ、純くん」
僕はどうしてしまったのだろう?
「何かあったのか?」
僕に何があったのだろう? 何があって、僕はこうなってしまったのだろう? 僕はただ生まれて来ただけなのに。生きるために、生まれて来ただけなのに。
声と涙が、同時に零れた。
「助けて」
もう、分からない。
滅茶苦茶で、ぐちゃぐちゃで、分からない。僕が何者なのか、どういう風に生きるべきなのか、何一つ見えない。色々な柱を使い、複雑に力を分散させて支えていた僕という人間が、その柱の一本が折れて総崩れになってしまった。
「助けて」
繰り返す。何を求めているかも分からないままに、形のない救いを求める。マコトさんが僕の背中に手を回し、身体をギュッと抱き寄せた。
「助けるよ」
優しい声に、首筋が痺れた。涙が引っ込む。
「出来ることなら何でもする。だから、安心して」
僕は小さく頷いた。頷きながら、マコトさんの背中に自分の手を回す。近くで着替えていた中年男性が、狐につままれたような表情で僕たちを見ていた。
◆
マコトさんは僕を、足湯のある庭園に連れて行った。
庭園の奥に行き、足湯の縁に並んで腰を下ろす。手を繋いだ若い男女が、足の裏を押す丸石の痛みにはしゃぎながら僕たちの前を通り過ぎる。マコトさんが感触を試すように丸石を踏みしめ、「ふむ」と呟いた。
「純くんは、この足湯は歩けたかい?」
「歩けたよ」
「そうか。僕は駄目だった。全身悪いところだらけのおじさんに足つぼは辛いな」
マコトさんが笑う。話しやすい雰囲気を作ってくれている。僕は、口を開いた。
「何があったか、話していい?」
「いいよ」
「友達が自殺した」
自分の声が自分の耳に届く。思っていた以上に、重たい。
「ネットで話す、HIVキャリアの友達がいるって言ったでしょ。彼だよ。AIDSで死んだ恋人をおいかけて自殺した。メールで送られてきた、自動配信の遺書を読んだだけだけど――」
僕は言葉を切った。深く息を吸い、肺を膨らませる。
「間違いないと思う」
自分自身に認めさせる。ミスター・ファーレンハイトはもうこの世にはいない。それはきっと、間違いない。
「ねえ、マコトさん。僕たちみたいな人間は、どうして生まれて来るのかな」
ミスター・ファーレンハイトが残した質問。僕たちの発現理由。
「効率的に子孫を残すために、生き物は雄と雌に別れた。なのにその意味が丸っきりなくなるような生まれつきの嗜好が、進化の中で淘汰されないでどんな生物にも現れる。残っているのは必要だから。だとしたら、何で必要なんだろう」
一つだけ回答はある。必要な理由を考えるから分からないのだ。ならその前提条件を崩してしまえばいい。
僕は、自嘲気味に笑いながら付け加えた。
「それとも別に必要なくて、病気とか障害みたいなものなのかな」
僕はどんな顔をしているのだろう。マコトさんはどんな顔で僕を見ているのだろう。見たくない。知りたくない。だから黙って俯く。光を反射してキラキラ輝く水面を、そこから上がる湯気を、じっと見つめる。
頭の上に、大きな手のひらが置かれた。
「難しいことは分からないけれど」マコトさんが僕の頭を撫でる。「僕には、純くんが必要だよ」
頭を撫でていた手が離れた。手はそのまま、頬を伝って顎に到達する。マコトさんが僕の顎を掴み、少し強引に僕の顔を自分の方に向けさせる。
そして顎を押し上げ、顔をクイと上向かせる。
これから何をするつもりか分からないほど僕は幼くはない。そして今いる場所がどういう場所か分からないほど混乱もしていない。僕たちが人前でそういうことをしたら周りがどういう風に思うか。それだって分かる。
「マコトさ――」
唇が、重なった。
――固い。
最初に感じたことは、それ。女の子とする柔らかいキスとは全然違う。匂いも粘り気のある甘い香りではなくて、煙草と汗が混ざった、ツンと刺す少し酸っぱい匂い。男のセンサーには反応しないはずの男のフェロモン。
なのに僕のちんぽこは、カチカチに固くなっている。
――そっか。
分かった。分からされた。僕はこれが「普通」なのだ。受け入れたくないけれど、受け入れざるを得ない。僕はこんな僕を認めて、どうにかこうにか生きて行くしかない。
辛い。本当に辛い。だけど早めに分かって良かった。取り返しがつかないぐらいに誰かを傷つけてしまう前で。
あとは――
後頭部に、ガンと固いものがぶつかった。
「……いたっ!」
マコトさんから唇を離す。僕にぶつかったものは頭蓋骨で跳ねた後、ぽちゃんと水音を立てて足湯に落ちた。何がぶつかったのか、僕は湯の中を確認する。
僕のスマートフォン。
顏からさっと血の気が引いた。ゆっくり、ゆっくりと振り返る。そして思った通りの人物がそこにいることを確認して、全身の毛穴と瞳孔を開く。
「……三浦さん」
夢の中で出会ったように、ぼんやり名前を呼ぶ。興奮に頬を上気させた三浦さんが、僕たちを鋭く睨みつけていた。
◆
「どういうことか、説明して」
三浦さんが僕に詰めよった。僕は、さっと顔を伏せる。
「……説明って、何を」
「全部。さっきどうしていきなりいなくなったのか。この人はいったい誰なのか。どうしてキスしていたのか。わたしは安藤くんの何なのか。全部、答えて」
僕は、ごくりと唾を飲んだ。
嘘をつけばいい。適当に話を組み立てて、この場を凌げばいい。そしていずれはマンネリから自然消滅する男女と同じように、音もなく静かに別れる。それが一番、平和で誰も傷つかない終わり方だ。
だけど、肺が上手く膨らんでくれない。声帯が動いてくれない。
「わたしたち、キスしたよね」
した。観覧車で、映画館で、僕の部屋で、何回もした。だけど一回も、僕のセンサーは反応しなかった。
「セックスだってしようとした。でも出来なかった。あれは、本当はこの人が好きだからなの? 安藤くんは男の人が好きで、わたしのことは好きじゃないから、だから出来なかったの?」
違う。出来なかったのは、勃たなかったからだ。好きとか嫌いとかじゃない。そんな単純な話を、どうして、どうして誰も理解してくれないんだ。
「答えて!」
三浦さんが金切り声を上げた。晴天を音がビリビリと揺らす。僕は顔を上げ、三浦さんの潤んだ瞳と自分の瞳を合わせる。
大きな瞳。柔らかい唇。とてもかわいい女の子。僕のことを大好きな僕の彼女。
だけど――今日でおしまい。
「いいじゃん、別に」
僕は唇の右端を吊りあげ、皮肉めいた笑みを浮かべた。
「ホモ、好きなんでしょ」
鈍い痛みが、頬に走った。
肉が肉を弾く甲高い音を聞き、耳がキンと痺れた。はたかれた頬が熱を持つ。はたいた三浦さんは唇をグッと噛みしめ――叫んだ。
「ふざけないでよ!」
三浦さんが僕に背を向ける。朝顔柄の浴衣をはためかせて、僕から離れて行く。その背中を呆然と見送る僕に、マコトさんが声をかけた。
「純くん」
大好きなマコトさんが僕を心配している。だけど振り返る気になれない。自分がどんな顔をしているのか怖い。今度こそ本当に、見せたくない。
「なんで」
僕ははたかれた頬を撫でながら、囁くように呟いた。
「なんで僕なんか、好きになるんだよ」
分かっている。
彼女が好きなものは僕であって、ホモではない。
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