8-5
自治会館を出た僕は家に帰らず、新宿二丁目に向かった。
いつものように扉を開く。いつものようにベルが鳴る。いつものようにカウンターに座りながら、いつものように「いらっしゃい」と笑うケイトさんに、いつものようにカフェラテを頼む。ケイトさんはいつものようにカフェラテを持ってきて、いつものようにカウンターに頬杖をつきながら、いつものように僕に話しかける。
「今日はいつもと違うね」
ケイトさんが、右のひとさし指を僕に額に合わせた。
「待ち合わせじゃないんでしょう?」
まだ何も言っていないのに。固まる僕を見て、ケイトさんがにんまりと笑った。
「アレから聞いたわよ。アレのこと、フったらしいじゃない。今まで見たこともないぐらいNervousになっていたわ。ワタシおかしくて、お腹抱えて笑っちゃった」
ケイトさんが頬杖を外し、ずいとカウンターから身を乗り出した。
「どうしてフっちゃったの?」
言いたくないのならば聞かない。ずっとそういうスタンスだったケイトさんが、自分から話を引き出そうとしている。それはきっと、少し、認められたから。
「実は――」
僕は、話した。
三浦さんがBL本を買うところを目撃してから今日までの出来事を、全て話した。三浦さんとのセックスに挑戦しようとしたことも、自ら命を投げ捨てようとしたことも、包み隠さずに話した。ケイトさんはふんふんと相槌を打ちながら、僕の話を黙って聞いてくれた。途中で入って来たお客さんのところにも行かず、ずっと僕の前に居て、言葉を受け止めてくれた。
一通り話し終えた僕は、半分ほど残っていたカフェラテを飲んだ。既にだいぶ冷めてしまっていた。ケイトさんが「色々あったのねえ」と呟き、カウンターに乗せていた上半身を起こす。
「それで純くんは、これからどうやって生きるの?」
どこでじゃなくて、どうやって。僕はソーサーの上に、カフェラテのカップをカタンと置いた。
「分かりません」
まだまだテストは解けていない。だけど時間もまだまだある。これから僕は時間を目一杯に使って、時には敢えて摩擦や空気抵抗を無視しながら、ああでもないこうでもないと頭を悩ませ続けなくてはならない。
だけど問一の答えぐらいなら、書けている。
「ただ――」
僕は、流れるフレディの歌声に負けないように、はっきりと言い切った。
「誰に嫌われても、誰が認めてくれなくても、自分だけは自分を愛してやりたい。今は心から、そう思います」
ケイトさんをちらりと覗き見る。正解でしょうか。そう尋ねる目線。ケイトさんは模範回答なんかないわよと宣言するように、話をがらりと変えた。
「ねえ、純くん。世界をSimpleにするって、考え方によっては素敵よね」
ケイトさんが、天井のスピーカーを見上げた。
「Freddie Mercury。世界で三億枚以上のCDを売り上げたRock BandのVocalist。そんな世界中から愛されているArtistが、Simpleな見方をしたら――」
ケイトさんが白い肌に白い歯を輝かせて、満開の笑みを浮かべた
「ワタシたちと『同じ』なんだから」
スピーカーから、日本語が響いた。
親日家のQUEENが日本のファンに向けて作った楽曲。『手をとりあって』。悲哀と希望が混ざり合う旋律と、途中のオリエンタルな日本語詞が築く、不思議な世界観。
「ワタシ、この曲好きなの。日本に来る前からずっと」
ケイトさんが、しみじみと呟いた。
「こんな素敵な曲のInspirationを与える国なんだから、きっと日本にはCuteでPrettyでAttractiveな女の子がたくさんいるんだろうなと思った。いつか日本に行って、日本の女の子と触れあいたいと思った」
9000キロの旅を決意した原点。ケイトさんが、恥ずかしそうにはにかんだ。
「期待通りだったわ」
僕は、椅子から立ち上がった。
ポケットの財布からカフェラテの代金をぴったり取り出し、カウンターの上に置く。ケイトさんが寂しそうな顏をしながら、寂しそうな声で僕に尋ねた。
「もう行っちゃうの?」
僕は天井を見上げながら、問いに答えた。
「この曲が流れている内に、出て行きたい気分なんです」
ケイトさんが「そう」と呟く。僕は無言で出入口に向かう。やがて扉に手をかけ、ベルがカラコロンと鳴った時、背中から呼びかけが届いた。
「純くん」
扉を抑えながらゆっくりと振り返る。空色の瞳で僕を見つめながら、ケイトさんが優しく微笑んだ。
「また会いましょう」綺麗な声が、心を揺らす。「世界のどこかで」
僕はケイトさんに微笑み返し、力強く頷いた。
「はい」
外に出て、扉を閉める。太陽の眩しさに目を細める。さて、これからどこに行こうか。僕は僕と同じ彼がついさっき歌っていた曲を鼻歌で歌いながら、行き先も決めず、ふらふらと足が向く方に向かって歩き出した。
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