8-2
ゾウやらライオンやらを見て回っているうちに、僕たちは『夜の森』という名前のついた建物に辿り着いた。照明によって昼夜が逆転しており、夜行性の動物が活動しているところが昼間から見られる展示施設だ。
ジャングル奥地の洞窟をイメージしたような入口から建物の中に入ると、薄暗い空間が広がった。ひんやりした館内の空気に包まれ、全身からすっと汗が引く。自然とヒソヒソ小さくなる声で話をしながら通路を歩いていると、やがて、大きな木の幹がでんと中央に置かれたガラス張りの展示スペースに辿り着いた。木は細い枝を触手みたいにあちこちに伸ばし、その枝と枝の間を小さな生き物が飛び回っている。
コウモリ。
近くの案内板を読む。デマレルーセットオオコウモリ。主にアジアに生息していて、フルーツが主食。くりくりした目がかわいい愛嬌のある生き物だ。
「コウモリか」
天井にぶら下がるコウモリを見上げ、マコトさんが呟いた。ある時は獣。ある時は鳥。卑怯な生き物。
「純くん」
呼びかけに、僕はマコトさんの方を向いた。
「彼女とはどうなったんだい?」
マコトさんの見ていたコウモリが、天井から別の天井へと飛び移った。追いかけるようにマコトさんの首が動く。暗闇に物憂げな横顔が浮かぶ。
「フラれた。遠距離は無理だって」
「そうか。残念だったね」
別に構わないよ。どうせ無理だった。僕は、コウモリにはなれない。
マコトさんは――
「僕も純くんと同じぐらいの時は、自分の性癖について本当に悩んだよ」
僕の心を読んだように、マコトさんが語り出した。
「僕の時代は、今よりもずっと同性愛に狭量だった。将来は結婚して家庭を築くのが当たり前。それが出来ない人間は落ちこぼれ。同性愛者なんて生き物は、笑いのネタにされて当然の失敗作。そういう風潮なのに、僕は男しか好きになれない。僕は将来どうなってしまうのか。悩んで、悩んで、悩んで、答えは出ないまま時間だけが過ぎて、社会人になって――妻に出会った」
マコトさんの唇が、僅かに綻んだ。
「彼女はとても変わった人でね。今より男と女の役割がはっきりしていたあの時代に、僕に積極的なアプローチをしかけてきた。後から話を聞くと、どうやらあまり男に慣れていなかったらしい。僕が家庭菜園をやっていると聞いた翌日に家庭菜園を始めた時は、あまりの露骨さに呆れるのを通り越して面白くなったよ。ただそういう分かりやすいアプローチが、僕にとってはとても効果的だった。直球は上手く躱すことが出来ないからね。打ち返すか受け止めるかしかない。僕はそのどちらも選べずだらだら付き合い続け、やがて彼女は、僕に告白してきた」
マコトさんが展示ガラスにぴたっと手を当てた。横顔から笑みが消えている。
「僕はそれを受けた。自分のために受けた。こんなにも僕を好いてくれる彼女を袖にするのは可哀想だとか、そういう気持ちが無かったわけではない。だけどそれ以上に僕は、家族が欲しかった。伴侶を得て、子を成して、家族を作る。そういう当たり前の幸せが、どうしても欲しかった」
僕と同じ。だけど大きく違うことがある。マコトさんは、ちんぽこが勃った。
「プロポーズは彼女から。僕はそれも受けた。僕たちは大勢の人間に祝福されながら結婚式を挙げた。神の前で永遠の愛を誓った。人々の前で素敵な家庭を気づくと誓った。うっすら涙を浮かべる彼女の父親に、彼女を幸せにすると誓った」
マコトさんが、ガラスに爪を立てた。
「愛そうとはした」
もういいよ。そう言ってあげたくなる辛そうな顏。同じ顔を僕もよくする。自分が嫌で嫌で堪らない顔。
「愛そうとはしたんだ」
天井のコウモリが飛んだ。マコトさんはガラスから手を離し、そのコウモリを目で追いかける。そして岩陰にかくれたそいつに視線を向け、独り言みたいに呟く。
「コウモリは、卑怯なのかな」
マコトさんは僕を見ていない。コウモリも見ていない。ガラスに映る自分自身を、きっと見ている。
「獣の鋭い牙も、鳥の硬い嘴も持っていないコウモリは、どうしようもなく弱かった。弱いから、そうしないと生き残れなかった」
弱いからやった。生きるためにやった。そうしないときっと、潰れていた。
「それでもコウモリは、卑怯と言われてしまうのかな」
岩陰からコウモリが飛び出す。マコトさんはもうそのコウモリを追わない。ガラスに背を向けて、ゆっくりと歩き出す。僕は少し立ち竦みその背中を眺めてから、上手く動いてくれない足をどうにか動かして、パタパタとマコトさんの後を追いかけた。
◆
動物園を一通り回り終えた僕たちは、園を出て、不忍池に向かった。
水際のベンチに座り、二人で池を眺める。蓮の葉にびっしりと覆い尽くされていて、水面は全くと言っていいほど見えない。だけど花はここそこにチラホラ咲いているだけ。それもほとんど蕾のような状態。
「蓮の季節じゃないのかな」
独り言を呟く。マコトさんが、僕の呟きを拾った。
「蓮の季節は夏だから、今だよ」
「こんなに葉っぱだらけなのに?」
「蓮の花は一年に四日ぐらいしか咲かないんだ。それが七月頃から順々に咲くから一気に咲き乱れることはない。それに蓮の花は、朝に咲いて昼には閉じてしまうからね」
「へー」
本当に詳しい。こういうマコトさんをもっと早く知りたかった。今更気づいたって、遅すぎる。
「秋になれば池の蓮は枯れて、その代わり、池を囲う木々が美しく紅葉する。春は桜、夏は蓮、秋は紅葉。そういう風に、季節に応じて様々な植物が全く違う美しい景色を見せてくれるのが、この池の特徴だ」
マコトさんが僕に向かって、にこりと笑いかけた。
「秋になったら一緒に見に来ようか。交通費は僕が出す。東京旅行だと思えばいい」
闘いの気配。
僕はまだ「引っ越す」としか言っていない。マコトさんも「寂しくなるな」としか答えていない。これからどうする。どうしたい。そういう話は一切していない。僕たちは出会ってから今までずっと、そういう未来の話を避けながらここまでやってきた。
僕は、深く息を吸った。
「マコトさん」
逃げたい。このまま全部なあなあにして、無かったことにして、鼻先三十センチの未来を見つめて生きていたい。でもそれをしたらきっと、僕は僕を一生許せない。
彼女は逃げなかった。
「僕たち、別れよう」
風が吹いた。
僕の言葉が世界を動かしたように、ざあっと勢いよく吹いた。池の水気を含んだ湿った風が頬に当たる。汗が引っ込み、背筋が伸びる。
マコトさんが僕を見る。僕もマコトさんを見る。話をしよう。遅すぎるかもしれないけれど、ちゃんとした話を。視線でそう訴えかける。
マコトさんが、寂しそうに目を細めた。
「妻と結婚してから一年後、僕に子どもが出来た」
マコトさんが僕から視線を外した。腿の上に手を乗せ、蓮で埋め尽くされた池を遠い目で眺める。
「不安だった。結局、妻を愛することが出来ずに、男遊びを止められなかった僕は、子どもを愛することが出来るのだろうか。僕は家族を望んではいけない人間なのではないだろうか。そんな風に自問自答した。だけどそんな不安は生まれて来た息子を前にして、あっけなく吹き飛んだ」
マコトさんの頬が、少しだらしなく緩んだ。
「この子のためなら死ねる。本当にそう思った。それから三年遅れて生まれて来た娘もかわいくて仕方が無い。パパ、パパと僕を慕う二人の子どもを、僕は嘘偽りなく家族として愛していた。いつの間にか、男遊びをすることも無くなった。僕は男から父親になった。女が好きとか男が好きとか、もう関係ない生き物になれたんだ。そう思った」
思った。だけど――
「だけど、息子が中学生に上がってから、事件が起きた」
予想通りの逆接。マコトさんが唇を強く噛む。
「家族の共有パソコンで、息子がエッチなページを閲覧した痕跡を発見したんだ。まあ中学生にもなれば、そういうことに興味を持つのは当たり前。普通の父親ならば、過去の自分を重ねたりして、我が子の成長を愛おしむ場面だろう。でも僕は違った」
マコトさんの手が、自分の腿を強く掴んだ。
「欲情した」
肉まで掴んでいる。自分を痛めつけている。それが分かる。
「それはダメだ。同性愛とは次元が違う。絶対に許されない。ちゃんと頭では分かっているのに、息子を一人の男として見ている自分を止められなかった。息子がオナニーをしているところに偶然を装って踏み込み、僕が手ほどきする。そんな官能小説のような展開を夢想するようになった。ゲイであることを言い訳には出来ない。異性愛者の父親が娘に欲情しないように、同性愛者の父親も普通は息子に欲情なんてしないはずだ。僕はただ、同性愛とか異性愛とかそういうものを越えたところで、どうしようもない変態だった」
変態。僕たちのような人間が最も恐怖を覚えるレッテルを、マコトさんが自分自身に貼りつける。お前は変態だ。異常だ。なんて気持ち悪い奴なんだ。頼むから、頼むから消えてくれ。
「僕は男遊びを再開した。若い男と遊んで欲望を発散した。だけど息子は僕がそんな風に欲を持て余していることなんか知らず、僕にとってどんどん魅力的に育って行く。いよいよ不味いと思った僕は、息子として抱ける若い男を求めて、ネットに募集を出した」
マコトさんが僕の方を向いた。苦しそうな表情が一転、穏やかな笑顔になる。
「そして、純くんと出会った」
良い思い出を語る顏。胸が、少し痛む。
「息子と同じ年の子から連絡が来た時はさすがに驚いたよ。どうせ嘘だろうと思いながら乗せられてみたら本当だった時は更に驚いた。若くしてこっちの世界に踏み込んでくる子はそれほど珍しくないけれど、それが自分の身に降りかかればね。手を引こうかとも思ったけれど、純くんがあまりにもかわいくて、我慢出来なかった」
僕は縮こまった。マコトさんがおかしそうに笑みを深める。
「純くんは僕の最高の薬になってくれた。息子がパンツ一枚で家の中をウロウロしていても何も思わない。純くんのことを思い出す。そういう風に、僕の中から息子に対する欲望はどんどんと薄れて行った。今となってはどうして息子に欲情していたのか、分からないぐらいだ」
マコトさんが突然、ふうと溜息をつき、僕から池に視線を戻した。
「だけど少し、薬が効きすぎた」
遠い目で空を見上げる。過去を覗く目。
「温泉で会った時、人前でキスをしただろう。あの時、僕は、誰に――家族に見られてもいいと本気で思っていた。見られてしまえば踏ん切りがつく。家族を捨てて純くんと一緒になれる。そんなことを、冗談抜きに考えていた」
家族を捨てて僕と一緒になる。愛する人と結ばれる。甘美で魅力的な、絶対に許されない未来。
「中毒になる前に、離れないといけないんだろうな」
自分に言い聞かせるような言い方。マコトさんがゆっくりと僕の方を向いた。
「妻を助けるよ」
ずっと前の話なのに、何のことを言っているのか、すぐに分かった。
「君と妻が溺れていたら、妻を助ける」
――ああ、良かった。貴方がそういう人で。僕から逃げないで、僕が欲しかった言葉をちゃんと言ってくれる人で。
僕を捨てられる人で、本当に良かった。
「マコトさん」
ベンチから、すっと立ち上がる。
「僕、もう帰るよ。引っ越しの荷造りしなくちゃならないから」
マコトさんが、僕を見上げながら力なく笑った。
「分かった。それじゃあ、向こうに行っても元気で」
「うん。マコトさんも身体には気をつけてね。それじゃ」
くるりと背中を向ける。大股に、足早に、マコトさんから離れる。一度も振り返らないまま歩きつづけているうちに不忍池を抜け、上野公園に辿り着く。
ふらふら、誘われるように公園に足を踏み入れる。上野駅の公園改札に向かって、園内を一人で歩く。やがて通り過ぎようとした生垣の中に、白くて厚みのある花弁を持った花が咲いているのを見つける。満開ではなく、少し枯れかけ。
ああ、この花、アレに似てるな。純白の花びらを大きく広げた、愛らしさと気高さが同居するあの花。アレの亜種なのかな。確か、名前は――
クチナシ。
「……う」
泣くな。
ここは外だ。誰が見ているか分からない。誰に見られるか分からない。みっともない。情けない。男だろ。男なんだろ。
「うっ……くっ……」
声が抑えきれない。身体全部がヒクヒクと痙攣している。立っていることすら辛い。地面がぐらぐら揺れる。
もう――ダメだ。
「うっ、くっ、ひっ……あああああああああああああああ!!!!!!!」
大きな泣き声を上げてしゃがみ込む。身を守るように背中を丸め、誰にも顔を見られないように頭を抱える。涙と嗚咽を垂れ流しながら、感情の大波が通り過ぎてくれるのを待つ。だけど思い出は、次から次へと溢れ出て心を掻き乱して止まらない。自分の頭と身体なのに、自分では全く制御できない。
そうか。
これが、恋か。
恥も外聞もなく泣き喚く。込み上げるままに感情を吐き出す。何もかもがぼやけて無くなってしまいそうな世界の中で、幼い頃同じように泣いていた時にあやしてくれた父さんの顔を、僕はほんの一瞬だけ思い出した。
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