8-3
引っ越し前日。
僕は前の日と同じように家を出た。昨日と違って母さんは何も言わなかった。どこに行くか告げてあるからだ。ただ「頑張りなさい」とでも言いたげに、穏やかな微笑みを僕に向けた。
家を出て歩く。すぐ、亮平と溜まり場にしていた公園に着く。ここも今日で最後だな。そんなことを考えながら公園の中を覗く。
公園奥のベンチに腰かけた亮平が、僕を見て不敵に笑った。
――来いよ。
声が脳内に響いた。キャーキャーとはしゃぎまわる小さな子どもたちを脇目にベンチまで行く。「よ」と軽く手を挙げる亮平の隣に座り、話しかける。
「待ってたの?」
「ああ。今日出かける情報貰ったから、待ち伏せしてた」
「連絡くれれば良かったのに」
「予告なしでいるからいいんだろ。純くんは分かってねえなあ」
亮平が大げさに肩を竦めた。やれやれ、といった感じ。
「純くん、オレたちの最初の出会い、覚えてる?」
はしゃぐ子どもたちを眺めながら、亮平が尋ねる。僕はすぐに答えた。
「覚えてるよ。この公園の、このベンチだよね」
「あの頃から男の方が好きだったのか?」
僕の根幹に触れる質問。
亮平は僕が同性愛者と知ってから今日まで、何事も無かったかのように僕に接してくれた。だけど本当に何事も無かったわけではない。間違いなくあった。亮平はとても優しかったけれど、そこから目を逸らしてもいた。
亮平が僕を真っ直ぐに見据える。ちゃんと話をしよう。そういう目。
同じ目を亮平に返しながら、僕は首を横に振る。
「まさか。あの時はそんなこと全く思ってなかったよ」
「じゃあ、いつぐらいから自覚出たんだ?」
「小学校高学年あたりから違和感はあった。確信したのは中学に入って、好きな人が出来てから」
「それ、誰か聞いていい?」
「現国の竹内先生」
亮平が、あんぐりと口を開いた。
ハトが豆鉄砲を喰らったところなんて見たことがないけれど、きっとこういう顔をするのだろう。基本的に他人を振り回す側の亮平のこんな顔を見るのは、十年来の友人である僕にとっても初めてだ。
「マジかよ! 竹内、孫いただろ!」
「そういう人が好きなんだ。同年代にはあんまり興味ない。いい身体だなーとか思ったりはするけれどね」
「はー、そっかー、奥が深いわ。こりゃ参った」
亮平がベンチに深く腰を下ろし、背もたれに身体を預けた。そのまま首を曲げ、空を見上げながら呟く。
「まー、でも、良かったかも」
「良かった?」
「ああ。オレ、純くんのことフらなきゃいけないのかなーって思ってたから」
言われて初めて、その視点に気がついた。
亮平は友達。付き合うなんて考えられない。僕にとってはそれが当たり前だから、亮平がそういう勘違いをする可能性を全く考慮していなかった。だけど考えてみれば、勘違いして当たり前だ。
「純くん、オレとセックスする夢見たって言ってたじゃん。だからもしかして、そうなのかなと思って」
言った。そういえばあの発言に何のフォローも入れていない。深いことを聞かない亮平の態度に、つい甘えてしまった。
「恋愛対象として見られるかどうかと、抱けるか抱けないかの話は全然違う。確かに夢は見たけれど、それとこれとは関係ないよ」
「そうなのか?」
「亮平は英語の藤本先生と付き合いたいの?」
「……そう言われると、そうだな。確かに関係ねえ」
「でしょ。僕は亮平のことは『大好き』だけど、亮平と付き合いたいと思ったことは一回もない」
安心させるため、少し強めに言い切る。亮平が仰向けていた身を起こし、僕をじっと見つめながら口を開いた。
「今の、本当か?」
「本当だよ。神に誓って、僕は亮平を恋愛対象として見たことはない」
「そっちじゃない。オレのこと『大好き』ってところ」
亮平の瞳が揺れる。これだけ付き合ってきて、そんなところがまだ気になるのか。おっかなびっくりな一面に、つい吹き出しそうになる。
「本当だよ。当たり前だろ」
自然と声が大きくなった。自分にとって、絶対の自信があることを口にしているから。
「そっか」
亮平がはにかんだ。そして両腕を大きく広げ、僕に抱きつく。薄く汗ばんだ身体から、少し酸っぱい匂いが立ち上る。
「ありがとう。オレも純くんのこと『大好き』だよ」
「……よくホモに抱きつきながらそういうこと言うよね」
「言っただろ。純くんがホモでも、オレとセックスする夢を見ても、遠くに行っても、オレと純くんの関係は何にも変わらない」
亮平の左腕が僕の身体をギュウと締め付けた。同時に右手が股間に伸びる。ぐわしとちんぽこを掴み、やたら力強く揉み始める。
「ちょ、亮平。何してんの」身を捩る。振りほどけない。
「揉みおさめ」もみもみ、もみもみ。
「意味わかんないから。止めて」いつもより気持ちいい。本当にヤバい。
「ヤダ。あと十年分は揉んどく」もみもみ。もみもみ、もみもみ、もみもみ。
「止めろってば!」
僕は思いきり叫び、亮平を突き飛ばした。亮平が「うおっ!」と短い悲鳴を上げてベンチから落ち、地面に尻もちをつく。落ちた亮平はへへへといつもの人懐っこい笑みを浮かべながら、ゆっくりと立ち上がった。
「そろそろ行くわ。純くんを待ち合わせに遅れさせちゃマズいからな」
亮平がジーンズの尻についた土を払い、僕に背を向けた。だけど数歩歩いたところでピタリと足を止め、くるりと振り返る。
「そうだ。忘れてた。マジック小野から伝言があるんだ」
小野の伝言。僕は息を呑んだ。亮平が「意味わかんねえんだけど……」と前置きをしてから、おもむろに口を開く。
「『俺はシアー・ハート・アタックが一番好き』」
僕は、あんぐりと口を開いた。
ハトが豆鉄砲を喰らった顔。さっきの亮平のそれもすごかったけれど、今の僕もすごい顔をしているのだろう。僕を見てたじろいでいる亮平を見れば分かる。分かるけれど、平静を装えない。
「……通じた?」
問いかける亮平に、僕は無言の頷きを返した。『シアー・ハート・アタック』。QUEEN三枚目のアルバムのタイトル。あるいは別のアルバムに収録されている楽曲のタイトル。小野が言っているのはアルバムと楽曲、どちらのことだろう。いや、そこはどうでもいい。問題はそこじゃなくて――
小野も、QUEENを聞いていたということ。
「――僕からも、伝言いいかな」
僕の音楽プレイヤーの中身を覗いた小野は、いったい何を思ったのだろう。迂闊にも親近感を覚えそうになって、そんな自分をムキになって否定して――なかなか、かわいいところがあるじゃないか。
「『僕はオペラ座の夜が一番好き』」
亮平が眉をひそめた。僕は「覚えた?」と尋ねる。亮平は頷きながら、納得いかないように首を捻る。
「純くんと小野っちって謎に通じ合ってるよな。嫉妬するわ」
亮平がまた僕に背を向けた。右手を挙げてひらひらさせながら、背中で語る。
「じゃあな。あっちでもちゃんと、いい友達見つけろよ」
――お前以上の友達なんて、いないよ。
言葉は口にしない。口にしなくても伝わっていることを信じ、黙って亮平を見送る。やがてその姿が完全に見えなくなった後、僕はベンチから立ち上がり、いつかの僕たちのように嬌声を上げて遊ぶ子どもたちを背に公園を後にした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます