4-4
『マコトさん。誤解のないように説明するけど、今日はダブルデートなんだ。お風呂で会った人はもう一組の彼氏。浮気じゃないから安心して。休憩所でもお風呂場でもどこかでまた会えたら嬉しいな。それじゃあ』
畳の大広間で近藤さんと一緒に女性二人を待ちつつ、スマホからマコトさんにフリーメールを送信する。送ってから、三浦さんと付き合っているのだから浮気はしていることに気づく。マコトさんなんて結婚して子どもまでいる。卑怯なコウモリたち。
「あいつら、遅せえなあ」
テーブルの向かいに座る近藤さんが、フードコートで買った生ビールのジョッキをグイと傾けた。黄金色の液体が太い首にごくごくと吸い込まれる。ビールは男限定の飲み物ではない。それでもどことなく、男くさい飲み物だと僕は思う。
「君はビール飲まないの?」
「高校生なんで……」
「真面目だねえ。経験ゼロ?」
「全くないです」
「へえ。珍しいね。父ちゃんに飲ませられたりしない?」
――そうか。だからあの男くさい飲み物を、僕は飲んだことがないのか。納得した。
「そういう機会は無かったですね」
「じゃあ、飲んでみなよ。何事も経験だから」
近藤さんがビールジョッキを僕につきつけた。間接キス――なんてものを気にするウブな気持ちはとっくに忘れてしまった。ただ、法律違反は気になる。
「いいですよ。炭酸飲料が好きじゃないので、合わないと思います」
「飲んでみなきゃ分からないだろ」
「それはそうですけど……」
背中から、佐倉さんの声が届いた。
「なに未成年に酒勧めてんの」
ビールジョッキを持った佐倉さんが、冷ややかに近藤さんを見下ろす。隣には髪をしっとり湿らせた三浦さん。近藤さんが軽く肩を竦めた。
「社会勉強だよ」
「要らんわ」
佐倉さんが近藤さんの隣に腰を下ろした。同時に三浦さんが僕の隣に座る。湯上がりのシャンプーの香りが、髪からふわりと漂う。
「安藤くん」近藤さんが親指で三浦さんを示した。「見たかった彼女の湯上り姿だよ」
――勘弁してくれ。本当に近藤さんとは、不思議なぐらいに噛み合わない。
「ええ、まあ、そうですね」
「ぎこちないねえ。照れてんの?」
「はい。思っていたより、ずっとかわいくて」
「嘘つき」
三浦さんが、ムスッと不機嫌そうな表情で会話に割りこんだ。
「本当は全然そんなこと思ってないでしょ」
「嘘じゃないよ。ちゃんとかわいいと思ってる」
「絶対に嘘。言葉に心が入ってない。すごく他人行儀な感じ」
鋭い。僕は黙った。佐倉さんが「まあまあ」と三浦さんを宥める。
「安藤くんは自分の気持ちを表現するのが苦手なのよ。不器用受け。ガサツ攻めのハヤトとは相性良さそうだよね」
「お前なあ、自分と友達の彼氏同士をくっつけようとすんなよ」
「いいじゃない。サエちゃんもこの二人、いいと思わない?」
「それは……思います」
「でしょ?」
佐倉さんがちらりと僕を覗き見た。背筋に悪寒が走る。肉食獣に目をつけられた獲物が本能で感じる恐怖。
佐倉さんが頬杖をつき、近藤さんを見ながら僕を指さした。
「ハヤト。安藤くんと絡んでくれない?」
僕は驚きに目を見開いた。近藤さんは不快に目を細めた。三浦さんは期待に目を輝かせた。三者三様の反応の中、最初に発言したのは近藤さんだった。
「イヤに決まってんだろ。キメェことさせんなよ」
「ビール、もう一杯奢るから」
「……しょうがねえなあ」
陥落。近藤さんが僕の後ろに回り、三浦さんが佐倉さんの隣に行った。近藤さんが僕の背後で胡坐をかき、抱きしめるように前に手を回す。
「こんな感じか?」
「そう! すごくいい! 写真撮るから、ちょっと待って!」
佐倉さんが――どさくさに紛れて三浦さんも――帯に挟んでいたスマホを抜き、撮影を始めた。佐倉さんが「浴衣はだけさせて」とか「首筋に顔うずめて」とか近藤さんに次々と指示を飛ばす。近藤さんは呆れながらも要求に応える。吐息がかかるぐらいに身体をぴったりとくっつけ、ごつごつした手を僕の身体に這わせる。
若い女が好きな男がいたとする。
その男に、男の好みの年齢からは外れるけれど、ものすごくスタイルの良い人妻が擦り寄った。その人妻は男の身体をベタベタと触り、豊満な胸をグイグイと押し付け、スキンシップを図った。そうしたら男のちんぽこは、勃ってしまうのではないだろうか。タイプではないけれど、彼女ではないけれど、そもそも人のものだけれど、それでもセンサーは反応してしまうのではないだろうか。
要するに僕は、勃起しかけていた。
「股間触って」
「それは無理」
「ラーメンも奢るから」
「……しかたねえなあ」
近藤さんの手が股間に伸びる。浴衣と下着。薄い布二枚の下で、ちんぽこが固くなりかけている股間に。
――マズい。
「止めて下さい!」
僕は近藤さんを振り払い、立ち上がった。近藤さんが後ろに倒れる。佐倉さんと三浦さんがポカンと僕を見上げる。――ああ、やってしまった。
「……すいません。ちょっと、トイレ行ってきます」
大広間から小走りに飛び出す。トイレに行き、したくもない小便をしてから、もう少し時間を潰そうと近くの壁にもたれかかってスマホを弄る。マコトさんに送ったメールを見返して、つい自嘲気味な笑いが漏れた。何が『また会えたら嬉しい』だ。今日のお前は異性愛者だろうが。
不意に、ポンと肩を叩かれた。
「トイレはもう行ったの?」
近藤さん。僕は「はい」と頷いた。近藤さんが僕の隣に並ぶ。ノスタルジックな雰囲気を演出する提灯型の間接照明を受け、金に近い茶髪が輝く。
「さっきは悪かったな。アイツも謝りたいってよ」
「……気にしないで下さい。僕の過剰反応です」
「んなことねえよ。普通、男が男にベタベタ触られるなんて、気持ちわりぃに決まってんだから。我慢した方だって」
近藤さんがニカッと笑った。いい人だ。だからこそ、辛い。
「そう考えると、リアルホモってすげえよなあ。男なんて臭いし固いし、何がいいんだか俺にはさっぱり分かんねえ」
そうですね。僕も分かりません。分からない。本当に分からないんです。
「近藤さんは」俯き、口を開く。「ホモが嫌いなのに、どうしてホモ好きの佐倉さんと付き合っているんですか?」
近藤さんが腕を組んだ。悩むように、軽く首を捻る。
「別に、ホモが嫌いってわけでもねえけど」
――だと思った。人々が僕たちを侮蔑するのは差別したいからではない。習慣だ。良く知っている。
「人間なんだから、100%好き嫌いが重なるわけないだろ。ここは合わない、ここは合う。それを積み重ねて、トータルで合う方が強ければいい」
近藤さんが右のひとさし指を立て、大広間の方を指さした。
「君もそうだから、あの子と付き合ってんじゃないの?」
僕と三浦さんの合わないところと合うところ。
合わないところ。僕はホモで、三浦さんは女の子なところ。
合うところ。
――どこ?
「……そうですね」
壁から身を起こす。近藤さんが「煙草吸ってくるわ」と言って僕から離れ、人ごみの中に消えた。
◆
「ほんとうにごめん……反省してる……私、BLになると見境なくなるところがあって、それはハヤトにも注意されてるんだけど治らなくて……私のことは嫌いになってもいいけど、BLのことは嫌いにならないで欲しいな……いや、元々別に好きじゃないとは思うんだけど……とにかく、ごめんね……」
大広間に戻った僕は、落ち込む佐倉さんから謝罪を受けた。酔いと後悔とBLへの熱い想いが合わさって、謝罪はわけのわからないことになっていた。やがて戻って来た近藤さんが「君たち、デートでもしてきなよ」と言ってくれたので、僕と三浦さんは二人で館内を歩き回ることにした。
僕たちはまず、祭りの縁日を模した遊び場を見学して回った。型抜き、射的、スーパーボールすくい。色々あったけれど、小さな子どもたちが遊んでいる中に高校生が参加するのは気恥ずかしい。何もやらずにその場を離れ、足湯がある屋外庭園に向かった。
屋外庭園にある足湯の道には丸石が敷き詰められていて、足のツボを刺激しながら歩ける仕組みになっていた。三浦さんはかなり辛そうだったけれど、僕は全く平気だった。そんな僕を見て三浦さんは「神経が死んでるんじゃないの?」とおかしそうに笑った。
やがて足湯脇に設置された縁台を見つけ、僕たちはそこに座った。足元から温められた血液が全身を巡り、初夏の直射日光が背中を焼く。中からも外からも、熱が満ちる。
「気持ちいいねえ」
三浦さんが胸を張り、日向ぼっこをするように目を瞑った。薄い浴衣の下から、二つの膨らみがその存在を主張する。
「ねえ、安藤くんはさっきみたいなお祭りの縁日、好きだった?」
「僕よりも亮平が好きで、よく誘われた」
「ああ、幼馴染だもんね。なにやって遊ぶの?」
「なんだろ。思い返してみると、基本、亮平のおもりだった気がする」
「同じ年なのにおもり?」
「アイツ、アホだからさ。焼きそばとお好み焼きとリンゴ飴とチョコバナナスティックを同時に買って、当たり前だけど手の中いっぱいになって動けなくなって、『純くん、食べさせて』とかやるんだ」
「それで、食べさせるの?」
「うん」
「その話、後で姐さんにしてもいい?」
「いいけど、なんで?」
「すごい喜ぶと思うから」
だろうね。僕も話しながらそう思った。
「前も聞いたけど、三浦さんもあの人も、どうしてそんなにホモが好きなの?」
「んー、分かんない。そもそも普通、『好き』に理由なんてなくない?」
好きに理由はない。自分を重ね、ドクンと鼓動が早まる。
「なんでか分からないけれど『好き』だっていう結果だけがある。何かを『好き』になるってそういうものでしょ。違う?」
三浦さんが軽く屈み、僕を上目使いに覗きながら笑った。
「私が、安藤くんを『好き』なのと同じように」
こういう時、異性愛者の男は、どういう言葉で返すのだろう?
「……ありがとう」
きっとこれじゃない。そう思いながら口にしているから、言葉に覇気がない。僕は顔を背けた。三浦さんも僕から視線を外し、空を見上げる。
「あのさ」独り言のように、三浦さんが呟く。「この間のことなら、気にしないで」
何のこと? そんな白々しい言葉は言わない。僕は口を噤んだ。
「わたしは全然、気にしてないから」
僕は、気にする。
僕のセンサーはあの日、反応しなかった。僕はそういう生き物ではないと、グレーだったものを確定させてしまった。僕はきっと、コウモリにすらなりきれない。
もうショウは続けられない。続けてはいけない。僕のことを純粋に好きなだけの三浦さんを致命的に傷つけてしまう前に、僕は舞台の幕を下ろさなくてはならない。
「三浦さん」
声をかける。三浦さんがくりくりした瞳で僕を見る。ああ、本当にかわいい子だな。どうして僕はこんなにかわいい子を、かわいいと思えないのだろう。
好きなのに。
こんなにも僕を愛してくれるこの子を手放したくない。
そう思うぐらいには、ちゃんと好きなのに。
「あのさ――」
帯に挟んでいたスマホが、小さく震えた。
言いかけた言葉を切り、僕はスマホを取った。フリーメールに新着。マコトさんもタイミング悪いな。そんなことを考えながらメールボックスを開く。
差出人。
ミスター・ファーレンハイト。
――え?
内臓に氷を詰め込まれたみたいに、全身が一気に冷えた。足元を温める温水も天から降り注ぐ陽光もまるで追いつかない。心と身体がカチコチに冷えていく。
――その時が来たらそこに詳細を連絡する。
あり得ない。AIDSを発症したと聞いてからまだ二週間も経っていない。定期的に健診に行くような治療中から運悪く発症して、そこから二週間経たずに命の危機に直面するなんて、絶対におかしい。
絶対におかしい。間違いなくあり得ない。
なのに、身体の震えが止まらない。
「安藤くん?」
僕は、メールを開いた。
『ジュン。きっとまだ何の覚悟も出来ていなかっただろうに、突然こんなメールを送り付けて申し訳ない』
読むな、と僕の中の誰かが警告を下す。だけど読まずにはいられない。だって僕は約束した。ミスター・ファーレンハイトが亡くなったら『QUEENⅡ』を彼の恋人の墓に供えると誓ったのだ。
『このメールは、配信を留めるためのアクションが一定期間行われないとメールが自動的に送られる仕組みを使って、君に届けられている。ゆえに君がこのメールを読んでいるということは、僕はそのアクションが取れない状態になっているということになる』
眼球が乾く。僕は一度、瞼を強く閉じて開いた。
『つまり、これは遺書だ』
遺書。心臓を掴む強い単語。そして後に続く、それよりも遥かに強い文章。
『僕は、自ら命を絶つことにした』
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