その② 私と松本君
松本君の家は、大学の定期が使える範囲にあって、電車代がかからなくて助かる。もし電車代がかかってしまっていたら、いくらになっていただろう。
片道たしか、六百円くらい。それを往復で、千二百円。通いだしてから一週間くらい経つけど、二回泊まったから、六千円。
六千円っ! なんて事だ。一ヶ月の私のお小遣いの、半分以上かかっている事になる。
定期さまさまだ。学生バンザイ。
「バンザーイ」
私は他に誰も乗っていない車両の中で、出来るだけ小さな声と仕草で、バンザイをした。
今日も私は電車に乗り、松本君の家へと向かっている。電車のガタンゴトンが苦手な私には、とても苦痛な時間。なので頭の中で、生きる上で特になんのメリットも無い計算を、延々と続けている。先程の電車の料金も、そのひとつ。
その他にも、座った時の私のお尻の大きさが横に約五十センチだとして、この座席は何平方センチメートルだろうか、とか、この電車の平均時速が六十キロだとして、私が乗り込んだ駅と松本君の家がある駅との距離を、体感で計算したり、だとかを、延々と続けている。大体、仮定だ。お尻の大きさを正確に知っている訳ではないし、電車の平均速度も、単なる予想。本当に、メリットが何一つ無い、計算だ。
しかも私は、どちらかと言うと自分の事を文系だと思っているから、計算はそれほど好きって訳では無い。しかし「電車内での携帯電話のご使用はご遠慮ください」の張り紙を見ると、どうしても携帯を出す気分にはなれない。
通学途中の電車の中には、平気で画面を見ている人がいるが、そういう人は、私は嫌いだ。駄目なものは、駄目なんだから、しては駄目だと、思う。
「うぐぐ……駄目なのだ」
松本君からメールが来てやしないだろうか。電話が来てやしないだろうか。もしかしたら、今日は来ないでくれっていうメールが、今届いていたら、どうしようだとか。その時は彩子さんの家に行ってもいいだろうかとか。そっちも断られたら、どうしようだとか。凄く不安な気持ちになってしまうが、携帯は、見ては駄目なのだ。
「駄目だ……駄目なんだぁーっ」
私は携帯電話を見たい欲求を抑えるべく、また意味の無い事を考え始めた。
考えてみたら、マークシートってなんだ。なんで採点する側の都合で、普段のテストとは違う方式で回答しなければ行けないのだ。初めて見たマークシートのせいで、私は高一の時、塾の学力テストで、下から数えたほうが早い順位を取ってしまったのだ。
畜生にっくきマークシートめ! 松本君が仇をとってくれようぞ! 待ってろマークシート!
ようやく松本君が住んでいる町の駅へと到着して、私は電車を飛び降りた。
少し小走りに改札を抜け、駅の外へと出ると、そこにはひょろ長い松本君が立っていた。
ちょっとの風でも吹き飛んでしまいそうなほどに細く、もしかしたら私よりも体重が軽いんじゃないかと疑ってしまう。
「……時間通りだな、そりゃ電車だから、そうか」
「あれ? なんで松本君がここに居るの? あっ! もしかして、これからお出かけ? 私ってまさかの無駄足! マジかぁーどうしよう……もー用事があるならあるって、昨日のうちに言っておいてよっ!」
私は無意識のうちに松本君の顔を指さし、そう言った。
しかし、松本君は私の顔を見て、少し微笑む。
……正直、可愛いって思う。
そりゃ元々は、あの美しくて可愛らしい、皆のアイドル、彩子さんの、彼氏なんだ。それに見合うような、容姿をしている。
ホリ深い顔つきで、頬がコケており、それがまた味となっている。日本人離れした大きな瞳と、高い身長を持ち、それでいて、寡黙。
それはそれは、おモテになられるのだと思う。
頭は悪いくせに。
畜生ー、容姿が良いからって調子に乗るなよ。今は私が先生なんだぞ、と、思う。
「千香、お前もう忘れてるんだな」
「えっ何が? 私何も忘れてないと思うんだけど」
私がそう言うと、松本君はまた「ふはっ」と笑い、耳の後ろあたりをポリポリと掻いた。
「今日、ここで待ち合わせしてただろうが。今年のセンターの予想問題、買いに行くって」
「あっ! そうだっ! そうそう! 電車の広告で見たんだよっ! まだ遅くない! って書かれてたやつがあって、気になったの! きっと春に出たやつより厳選されてるやつだよ! だからそれを買いにいこう!」
「……そうだよ。買いに行くために、待ち合わせしてたんだよ」
「あーそっかそっか! うんうん! 時間通りに来てたんだねっ! 偉いね松本君っ!」
私は松本君に向かってそう言うと、松本君はまた「ふはは」と笑った。
私は、そんなに面白いことを言っただろうか……松本君は、変な人だと思う。
駅から十数分歩き、町の小さな本屋さんへと到着した。
寡黙な松本君はずっと私の話を黙って聞きながら歩いていた。それで楽しいのか? と、疑問に思う。
思えば、私と松本君は、会話らしい会話を、した事が無い。アパートでも、電話でも、今歩きながらも、ずっとずっと、勉強の話ばかりだ。
しかし時期を考えれば、それも仕方がない。今は私の見た所、合格率六割から六割半といった所か。単なる雑談をするよりも、英単語のひとつでも、覚えて欲しいと、思う。
……しかし、私ばかりが、楽しんでいるようにも、感じる。
「ぬあっ……広告で見たやつ、無い」
私は大学受験の参考書が置いてあるコーナーを探しまわったが、目的としていた参考書が、どこにも見当たらない。
「やっぱ、こういう所じゃ」
「うわぁー無いよ無いよっ……これじゃあ松本君、受験失敗しちゃうよぉーっ」
私はそう言いながら、頭をワサワサと掻いた。
括っていない長い髪が私の視界に入り、参考書を探すのを邪魔する。
「……やっぱこうい」
「今更今年出た赤本買ってもなぁーっ……そういうんじゃなくて、偉い人がさ、厳選したーっていう感じのやつが、あるはずなんだよ。そういう感じに書いてあったもん……」
「……やっぱ」
「ちょっと駅戻ってさ、ショッピングモール行こうよ、ショッピングモール。あそこの本屋さん、ちゃんと特集コーナー作ってて」
「ちょっとは……」
「ん……?」
松本君の声色が少し低くなり、気になった私は松本君の顔を見た。
いつもの無表情に見えるが、ほんっの少しだけ、不機嫌になっているように、見えなくも無い。
「あ……ごめん、何か、怒った……?」
「……いや、俺も、ショッピングモールがいいと、思っただけだ……」
なんだ、そうだったのか……。
何か怒ってしまったんじゃないかと、心配になってしまっていた。
「うん。ショッピングモール行こう」
私はそう言ってすぐに、シュークリームの事を思い出した。
ショッピングモールと言えば、シュークリームである。
「あっ! そうだ、ショッピングモールには、彩子さんが買ってきてくれたシュークリーム売ってるっ! ねぇねぇ食べよう松本君! 美味しかったやつ!」
松本君は、少し変な表情をして「ふっ」と笑い、首をクイッと動かして首を鳴らした。
そしてまた、ポリポリと耳の後ろを掻く。
「あぁ……彩子に言われてるからな、食い物の世話をしてやれって」
「えっ? あっ! 奢ろうとか思ってるの? いいよいいよ、貰えないよっ!」
「シュークリームひとつで、為になる勉強を教えて貰えるんだ。どう計算しても、安いもんだろ先生」
松本君はそう言い、本屋さんの出口へと向かって歩き出した。
背筋を伸ばしながら、姿勢よく歩く後ろ姿は、やっぱり、悔しいが、男前に見える。
姿勢がいいだけに、余計にひょろ長く見えてしまうのだが。
「ちくしょー」
私は何故かそう言い、松本君の後ろについて歩いた。
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