その⑩ 私の悪癖
なんだろう、この感じ。無意味にイライラする。松本君のやる事なす事、全てが気に食わない。
特に何かをされた訳ではないし、松本君の事が嫌いという訳でも無く、ただただ、松本君が何かを言うと、ムカッとする。
かといって、今のようにただ黙っていられるのも、嫌。もっとお話をしたいと、思っている。
なんでこんな矛盾した感情が同時に成り立っているのだろう……こんな感じ、生まれて初めてだ……。
お話がしたいのに、話題が見つからない。何を話して良いのか、全然分からない。
「……これじゃないか?」
松本君が一冊の参考書を手に取り、帯を見つめた。
確かにそこには広告で見た「まだ遅くない」の文字が書かれている。絵で書かれた拳が、鉛筆を握っているロゴも、見た覚えがある。
「あっ! それそれっ! まだ間に合うんだよ! センターまでもう一ヶ月切ってるのに、まだ間に合うんだよ! 良かったね!」
「……発行日、十月って書いてあるけどな」
松本君は本の裏を見て、ボソリと呟いた。
このやろー……折角元気付けてやろうとしているのに! ああ言えばこう言いやがって!
「んもぉーっ! そんな事言ってられないでしょっ! 来年もまた浪人したくなかったら、藁にもすがる思いでそういった予想問題やるしかないじゃんっ! 赤本丸暗記なんか出来ないでしょっ!」
「……千香特選問題があるじゃんか」
松本君は私の顔をチラッと見て「な?」と同意を求め、折角見つけた参考書を元の場所にスッと置いた。
しかし、千香特選問題がある……と言われて、悪い気はしない。頼ってくれて……なんだろう……私の感情は、喜んでいる。
「そっ……! それじゃあ足りないかも知れないじゃんかぁっ! こうして私、毎日通ってるのに、松本君が大学落ちたら嫌だよ! それに毎年、問題の傾向が違うって聞いた事がある! 私は神様じゃないんだから、そこまでは分からないよ!」
「俺からしてみたら、千香は菅原道真だけどな」
松本君が表情を少しだけ崩して、そう言った。
それもやはり、悪い気はしない。
「菅原道真がうちの大学受験しても、受からないのっ! 菅原道真にお祈りしても受からないっ! だって私、今年の初詣行ってないもん! 行く時間があるくらいなら、勉強するのっ! 受けるのは松本君でしょっ!」
松本君は急に暗い表情を作り、私から視線を外し、頭をボリボリと掻いた。そして小さく「……はぁ」とため息をつき、もう一度、先程置いた参考書を手に取った。
「分かってる……あまり怒鳴らないでくれないか?」
とても、低い低い声で、そう言って、松本君は私の顔を見る事無く、スタスタとレジへと向かい、歩き出した。
なんだか、怒っているように、見える……怒らせて、しまったのだろうか……?
いつも、こうだ……いつも私は、人を怒らせる……そして私の周りから、どんどんと人が居なくなり、ついには、一人になってしまった。
何が悪いんだろう。こんなつもりじゃあ、無かった。
「……松本君っ! 待ってっ」
私は置いていかれまいと、松本君の後ろを走って追いかけた。
今どんな表情をしているのかが気になり、私は松本君の顔を覗き込む。
「松本君……怒った……? ごめん……ごめんね」
「別に……」
松本君はムスッとした表情をしており、私が隣に来た事によって、私がいる方向とは逆のほうへと、顔を向けた。
もう、私の顔すら、見てくれなくなっている……。
前に松本君が不機嫌になった時と、同じだ……あの時は、松本君がトイレに行きたいと言ったのを、駄目だと怒鳴りつけ、それを何度も繰り返していたら、何も言わずに席を立ってしまい、声をかけても返事をしなくなってしまった……。
次の日になったら元通りに接してくれていたが……こんな事を繰り返していたら、いつか絶対に愛想をつかされてしまう。今までの友人達は、皆そうだった。
だけど私は今、いつも以上に、孤独感を抱いている……ライフワークになりつつあった、松本君の家庭教師が、これで終わってしまうのでは無いかという恐怖が、私を襲う。
「あのあの……あの、やる気を出して欲しいんだよ。だからあんなにいっぱい色々言っちゃったんだよ。今ここでモチベーション下げるの、良くないって思うから。いっぱい勉強して欲しくて」
「……いい」
「あっ……新しい参考書ってさ、テンション上がらない? 知らない事が書かれてるかもーって思ったら、私なんか眠る事も忘れて、読みふけっちゃったりするんだよねっ」
「……いや」
松本君はそれだけを言って、レジに参考書を出し、財布を開いた。
……なんで、こんなに何も言わないんだろう。
彩子さんから電話で「松本君は自分の事を一切話そうとしない」「ムスッとしてるように見えても、怒ってない事が多い」と聞いてはいたが、あまりにも会話にならず、私の事を、嫌い始めているのでは無いかと、思う……。
「き……嫌いになった? もう、お話もしたくない……?」
「……別に。嫌ってない」
「ほっ……ホントに……? ホントにホント……? 私、松本君に嫌われたら、友達が彩子さんしか居なくなっちゃうよぉー……」
「……礼奈って娘とも、仲良さそうにしてたじゃねぇか」
松本君は店員からお釣りを受け取り、それを財布にしまい、私の事を見ずに、踵を返し歩き出す。
「礼奈ちゃんは今日初めて会ったんだよ。友達って呼んでいいのか、わかんないもん」
「いいだろ別に」
なんて冷たい、言い方をするんだ……。
「……なんでそんなに、無愛想なの……?」
「……別に」
別に……だけ……?
それで会話が、終わりなの……? そんなに、私に興味が無いの……?
会話なんだから……会話らしい事を、してみたいんだから。せめて顔を、見て欲しい。
「別にって何よっ! 別にってっ……うううぅぅぅぅっ……!」
私はつい、また怒鳴ってしまった。
そして感情が昂ぶり、涙が出そうになる。それを止めるために、私は思い切り、目を瞑った。
「寂しいじゃんかぁーっ……私お話したいよぉーっ……」
「……してるだろ」
「してないよぉっ! こんなのお話じゃないよぉっ! 怒ったならそう言ってっ! 悪い所があるなら直すからぁっ! もう友達居なくなるの、嫌だよぉっ!」
私は首をブンブンと横に振った。
「……すまん……ちょっと……考えていただけだ」
私はゆっくりと目を開くと、松本君がいつの間にか目の前に居て、私の顔を、相変わらずの無愛想な顔で、見つめていた。
無愛想ではあるが、やはり、憎いくらいに、男前……。
なんで、憎いくらい、なんだろう……。
「俺……怒鳴られるような事、したか……? 言ったか……?」
「しっ……してないよ……」
「じゃあ、どうして怒鳴るんだ……?」
どうして……怒鳴るんだろう……。
分からない……分からない……。
私は、きっと……。
「ごめんねっ……私、きっと、頭が、オカシイんだよぉっ……高校の友達にも、彩子さんにも、声が大きい大きいって注意されてるのに、すぐに忘れるっていうか、興奮して、声が大きくなってっ……」
ボロボロと、こらえ切れず涙がこぼれてきた。
人前で、それも男の人の前で、泣くなんて……。
「あぁ……」
「それにそれにっ……話題が変わるのが早過ぎるって言われるっ……思いついた事をすぐに言葉にしちゃって……」
「それと、相手の言葉に被せてきたりな……あまり、いい事とは、思えない」
松本君は、暖かな声でそう言い、私の肩をポンポンと叩き、続けて「友達として忠告するが、分かってるなら、少しでいい、直せ」と、少し微笑んでいるように見える顔で、言った。
……畜生、松本のくせに。
松本のくせに……ドキドキさせやがって……。
「……偉そうに……」
「ん? なんだ?」
「……ううん。わかった……松本君と彩子さんに、嫌われたくないから、気をつけてみる……」
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