その㉒ ともだち……?

 千香が作ってくれたカレーは、しばらく手料理から離れていた俺の味覚を、鋭く刺激した。

 空腹も相まって、とんでもなく美味く感じる。カレーとは、こんなに美味いものだったか。

「美味いな……すげぇ美味い」

 俺は意識して笑顔を作り、千香にそれを伝えた。

 自身のボキャブラリーの無さがモロに露呈されており、申し訳ないと思う。もっと言い方があるだろうに。

 女性が自分のために作ってくれた料理なんだぞ。失礼にも、程がある。もし相手が彩子なら、きっと不機嫌になり、ムスッとしているか、何度も「他には? 他には?」と聞かれている所だ。

「ほ……ほんと? 家族以外に手料理を食べてもらうの、初めてだから……口に合うかどうか心配だったけど……美味しかったなら、良かった」

「あぁ……美味い」

 今まで食べたカレーの中でも、一番だ……という言葉が浮かび、俺はそれを飲み込んだ。

 なんだか、気恥ずかしい。

「私、相手方の連れ子だった兄が居るんだけどね、今はもう独り立ちして、彼女と暮らしてるんだけど、その兄が一番好きだって言ってたのが、このカレーで、その次がカツ丼だったんだ。だから今後は、カツ丼作るよ」

「……そうか、カツ丼も、いいな」

「縁起もいいしねっ! カツ! 丼! だからね!」

 千香は大きなジェスチャーで、カツ丼の舞いを見せた。

 確かに、受験にカツ丼は良く聞く言葉だ。しかし、先程の本屋で縁起は担がないような事を言っていたので、意外だった。

「千香も、縁起は担ぐんだな」

「え? あ……さっきの事、言ってるでしょ? 初詣行かないっていうやつ。あれはね、初詣行かないくらいに頑張った! っていう自信が、勝利へと導くんだよ! そういう事を言いたかった!」

「そうか……自信は、大事だな」

 俺は一口、カレーを頬張った。

 やはり、美味い。少し辛めの味付けに、トロトロのルー。俺好みというより、男好みのカレーだろう。いくらでも食べ続ける事が出来る。

「そうだよ! 自信は大事! 出来るんだ! やれるんだ! 勉強が大好きだー! って思えば、本当にそうなるから!」

 千香は相変わらずの大きなジェスチャーで、自分の体をギューっと抱きしめている。

 本当に、勉強が大好きなのだろう。羨ましい。

「……彩子も、似たような事、言ってたな」

 俺は、彩子のその言葉を、信じる事が出来なかった。勉強は確かに、そこまで嫌いでは無くなってはいたが、出来ない、やれない、という事は、何も変わらない。

 俺はやはり、出来ないし、やれない男のままだった。だから惨めにも留年をし、彩子にも置いて行かれてしまっている。

「結局は、素質だとは、思うけどな」

「ん……? なんでこの話の最中に暗くなるのっ! ホントに良くわからないね松本君は!」

 千香が怒るのも、無理は無い……か。

 きっと俺のこの暗い雰囲気に触れ、元が明るい千香は、イライラしているのだろう。

 確か、暗いのは、病気だって聞いた事がある。そして雰囲気は、感染するとも。俺のこの暗い雰囲気を、千香に感染させたくはない。

 やはり、二人の間に流れる空気が悪くなるのは、俺のせいだ。千香は、何も悪くなんて、無い。

「すまん。そうだな、今暗くなって落ち込んでる暇があるなら、英単語のひとつでも覚えろって話だよな」

「おおっ! そう! そうだよ松本君っ! 本当にその通り! 偉いね松本君。分かってくれたんだね」

 千香の目は、キラキラと輝いている。その表情を見ていたら、本当に、やらなくてはいけない気持ちになってしまう。ここまでやってくれているコイツのためにも、合格しなければ……という気持ちが、湧いてくる。

 今度の期待は、絶対に裏切れない。両親の手前もあるのだが、やはり、千香がここまで親身になってくれているんだという思いが、強くなっている。

 親身……人をやる気にさせるには、それも、大事なんだと、思う。そういった点では、千香は、最高に、親身だと、思う。

「なんか、すげーやる気湧いてきた」

「でも今日は、お話しようよ。今凄く楽しい! 初めて松本君と会話してるーって思う!」

 確かに、その通りだ。まともな会話は、今日が初めてなような気がする。

 今まで、俺が拒んでいたのだろうな……こんなにもお喋りな千香に対して、残酷な仕打ちを、してきたのだろう。

 申し訳ない……。

「あぁ……そうだな」

「ねぇねぇ、松本君ってさ、兄弟いるの?」

 千香はワクワクしているといった表情で、身を乗り出して俺の顔を見た。

 その際に、タンクトップの襟から、胸の谷間が目に飛び込んできて、俺はつい、目をそむけてしまう。

「……居ない。一人っ子だ」

「あ、なんかそんな感じだよね。私も元々はね、一人っ子だったんだよ。だけど父親の再婚相手に、連れ子が居てね、その人が、まぁーロクデナシでね。勉強しない、出来ない、やる気ないの三拍子揃った人でっ!」

 千香は指折り数えて、俺に見せる。

 どうやら、聞きたいと思っていた家庭の事情を、今聞かせてくれるようで、俺も少し、ワクワクする。

「そうなのか……それは千香が何歳の頃だ?」

「んー中一だったかな。兄はその頃高三で、あっ! 頭金髪だったの! ピアスも凄い数開けてたし! 受験も就職もする気が無かったみたいで、今でも土方でアルバイトしてるよ」

「……確かに、ロクデナシなのかもな。俺も似たようなもんだが」

「ぜんっぜん違う! 松本君アルバイトもして勉強もして、偉いと思うよ! あっ、でもね、兄は私には優しかったよ。私、片親のせいで、塞ぎこんじゃっててさ……保健室登校してたもん。兄が居なきゃ、きっと大学に入ろうだなんて、思わなかったんだろうなぁ……」

 かなり、意外な事を言っている。

 てっきり千香は、昔から明るく、元気で、勉強が大好きな奴なんだと、思っていた。どうやら、違うらしい。

「それでねそれでね。兄が私の料理美味しいーって言ってくれてたんだ。それが嬉しくて、料理いっぱい作ったなぁー。まぁ兄は高校卒業したら、さっさと家出て、さっさと彼女作っちゃったんだけどね。私もあまり料理作らなくなっちゃった」

「好きだったのか?」

 俺はカレーを口に運びながら、千香にそう聞いた。

「うわっ! それよく言われる! というか、無神経だね松本君!」

 ……無神経、なのか? よく言われるのだから、別に無神経では無いとは思うのだが……。

 まさか千香から無神経と言われる日が来るとは、思ってもみなかった。突然連絡してきて、家庭教師を勝手に始める事は、無神経では無いのだろうか……。

「好きかどうかは、どうなんだろうね。やっぱり家族って思っちゃうから……異性としては、違うと思うな。人としても、んー……ビミョーな所だよね。やっぱり、酷い所は酷いもん。部屋すぐ散らかすし、父親とはすぐ喧嘩するし、母親の事は殴るし、ね」

 千香の兄は、随分とすさんだ奴だったらしい。

 しかし、片親という事を考えると、それも致し方無いという所か。高校時代の友人も、すさんでいた。

「まぁ、反面教師だよね。この人みたいになっちゃ駄目だーって、凄く思ったもん。あとは、保健室の先生! 保健室の先生が凄く優しくて! 勉強凄く教えてくれた! あと、保健室登校してた時によく話しかけてくれた子とかも、居たよ! そのお陰で、こうして大学生になれました! あっ……今は、もう、連絡とか取ってないんだけどね……うぅ……」

 千香は突然暗い表情をして、俯いてしまった。本当に浮き沈みが激しい。感情が豊かな奴だと思う。

「……落ち込むなよ、大学合格したら、一緒に行こう」

「えっ……? あっ……う、うん……ととと友達だもんねっ」

「……あぁ、友達だ」

 友達……。

 友達か。

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